月別アーカイブ: 2008年8月

暑いですね

それにしても、暑いですね。
涼しくなったとはいえ、まだ暑い。
うちにはクーラーも、扇風機も、うちわも、網戸もありません。
暑いです。

かといって、今まで一人暮らしをしてきたときも、ほとんど同じでした。
エアコンはあったけど、友だちがきたときしか使ったことなかった。
扇風機も持っていなかった。

扇風機ぐらい買ってもいいのだが、なんだか乗り気にならない。

どうやら、僕はワクワクするものしか買えないらしい。
買うために出かけようと言う気にならない。
まあ、いいや何とかなるし。
そうなってしまう。

だから、靴下とかパンツとかシャンプーとか電球とか、そういったものが買えない。
まあ、いいかと思う。靴下やパンツは洗濯のサイクルが早くなったりするだけだし。
シャンプーの代わりに石けんでいいやとか。
どうしても必要になったら、買うんだけど。
ギリギリまで、何かで代替する。

欲しいものなら、見に行くだけでも行ってしまうのに。

まあ、それはいいんだけど、使っていなくもエアコンがあるのとないのでは違う気がする。
そこに存在するというのは大きなことなんだなと。

冬にはパソコンを暖房器具として使っている僕ですが、依然そんな話をしたら驚かれた。
本当にあったかいのだ。まあ、当たり前だ。サーバールームをクーラーであれだけ冷やしているのだから。

少し寝苦しい夜に、どうでも良い話でした。


[波照間のハイビスカス。暑さを感じるけど、ちょっとさわやかな感じ](ENTAX K10D DA16-45mm ISO: 100 露出: 1/160 sec 絞り: f/6.3 焦点距離: 38mm)

一枚、また一枚めくり、真の心が現れる

一人一人の人間という生き物は実に多用だ。
ひとつとして、同じものはなく、一人として、過去から遺伝子が途絶えたことがない。

そんな人。一人一人。
自分の生まれ持つ何か、心のありか、感じる何か。
そんなものがあるんだと思う。
これは、小さい頃は親に育てられているから、ある程度の制約の中で、かさぶたのように心の芯を大切に何重にも包んでいる。

こんなかさぶたが、大人になるにつれて剥がれていく。
そのとき、一人の人間として何たるかが湧き上がってくる。

そんな気がする。

生まれ育った環境が全く違って、やってきたことが全く違っても、同じ価値観だったり、考えだったりする人がいる。
何とも不思議だなと思う。
でも、目に見える行動や結果だけで人間は決定づけられないんだと思うと、つくづく人間というものに魅力を感じる。

過去に書いた関連エントリー
http://www.teratown.com/blog/archives/001544.html


[夕暮れの空を眺める俺@別府](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 400 露出: 1/100 sec 絞り: f/6.3 焦点距離: 24mm)

「君お兄さんいる?」

ブログをしばらく書いていなかったのは、旅に出かけていたから。
どこに行ったとか、写真とかはまた別の機会に載せようと思う。

旅から戻り、駅から家への帰り道、まだ土台しかなかった建設中の家が壁も屋根も出来上がっていた。
いつも歩く道の風景の変化で、時の流れを実感しながら家に向かう。

久しぶりに家に帰り着くと、ポストには無数のチラシに混じって郵便物と不在届けがいつものように入っている。
鍵を開け、バックパックをおろして、窓を開ける。
ごろっと横になり、家に帰ってきたなと実感する。
しばらくゆっくりしてから、洗濯をおもむろに始める。

洗濯機ががんばってくれている間に、腹も減ったし飯を食いにいこうと思う。
ついでにネット代金の振込もしようと、請求書を持って外に出ることにした。

飯はうちから一番近い定食屋さん。
以前にもブログに書いた、この店だ。

いつものように、何の変わりもなく親父は店をやっていた。
席に座ると、女子のソフトボールがテレビで流れていた。
「いらっしゃい」
「豚玉定食お願いします」
いたって普通のやり取りが、いつものように行われた。

しばらく、テレビを見たり新聞を読んでいた。
僕よりも奥に座っているお客さんに中華丼を出して、調理場に戻る時、親父は僕を見て言った。
「君お兄さんいる?」
「いや、いないっすよ。」

親父は顔の表情を緩ませながら、中華鍋に向かい
「すごく似た人がいるんだけどなぁ」
と、話してくれた。

僕はヒゲがはえていたり、いなかったり、髪の毛が短かったり長かったりする。
だから、勘違いしたのかなと思いつつ、そんなことは話さなかった。

こんな些細な会話にホッとして、家に帰ったような安心を覚えた。
ああ、旅から戻ったんだな。
ここは、阿佐ヶ谷だと実感しながら、最高に楽しかった今回の旅を思い出しながら飯を食らった。

旅の一場面、一場面を思い出しながら、旅の幸せを噛み締めた。


[阿蘇のペンションのオーナーが連れて行ってくれた田楽屋さん。最高にうまかった。田楽の里@高森](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 1600 露出: 1/6 sec 絞り: f/4.0 焦点距離: 34mm)

オーロラの向こうに

「オーロラの向こうに」という小学生向けの絵本がある。
昨年の末ぐらいに発売された絵写真本だ。

この本に興味を持ち、大型の本屋を探したが紀伊国屋にも丸善にもなかった。
紀伊国屋では子供の本コーナーにあるはず(本を探す機械でそういわれた)、店員さんにこの本を尋ねたときは少し恥ずかしさもあった。
なんと言うんだろう、この年齢になって絵本のコーナーにいることが気まずい。
居心地の悪さを感じた。まあ、どってことないんだけど、怪しまれたらめんどくさいなという思い。
ま、そんなことはどうでも良いことだ。

この本は星野道夫さんに憧れ、アラスカ大学に行き、アラスカで写真を撮る松本紀生さんの写真と文章が添えられた本である。
ある1ページにこんな文章がある。

氷河の上におろしてもらって驚いた。
目の前に、まるでピラミッドのようにマッキンリーがそびえ立っているんだ。
「度肝を抜かれた」というのは、まさにこのこと。
それまで見たどんな景色よりも美しく、
壮大で威厳があった。喜びのあまり、
「ウワーーーーー!」と思い切り叫んだのを覚えている。
うれしかったなあ。

この文章の背景の写真は真っ白で、大地にしっかりと根を張ったマッキンリー。
そして青く広い空。
それを目の前に、手を広げる松本さんが写っている。

松本さんの後ろ姿からも、この場所に来れて本当にうれしいんだろう。
そんなことが伝わってくる。
恋いこがれた地に、たどり着いた。
そのときの気持ち。あの憧れを抱いた場所にいる。
茫漠たる自然と向き合った、こみ上げる感情。
どうしようもないぐらい、自分が混乱してしまうぐらいの喜び。

僕も、今まで恋した土地にやっとたどり着いたとき。
あの感情がこみ上げてくるのを経験した。
2008年3月5日


[海を見つめる一羽@ガラパゴス](OLYMPUS ISO: 80 露出: 1/320 sec 絞り: f/13.0 焦点距離: 15mm)


[憧れの地、ウユニ塩湖](OLYMPUS ISO: 80 露出: 1/500 sec 絞り: f/8.0)


[赤岳山頂の日の出(別に赤岳は恋いこがれた地ではないが。。)](PENTAX K10D DA18-55mm ISO: 100 露出: 1/320 sec 絞り: f/18.0 焦点距離: 18mm)

幽霊たち ポール・オースター 柴田元幸訳 新潮社

「ムーン・パレス」ポール・オースターをしばらく前に読み、他のポール・オースター作品も読んでみたいと思っていた。そして、オースター2作目は「幽霊たち」だ。
本屋に行き、オースター作品が数冊あって、「l孤独の発明」か「幽霊たち」でどちらにしようか迷った。惹かれた度合いでいえば、「孤独の発明」だった。しかし、最後の最後で「幽霊たち」を買った。何の気の迷いかは知らないが、本が薄かったからかついつい選んだというのが大きい要素である気もする。

最近は小説も読むようになったが、もともと小説が苦手、さらに外国人作家といったら登場人物がこんがらかってしまう。いくら、先日読んだの「ムーン・パレス」が好きでも、他の作品は読み切れないかもしれない。。。と思い薄い本にしたんだと思う。

幽霊たちのあらすじはこんな感じ。「ブルーという探偵にホワイトという依頼人が、ブラックという男を見張ってくれと来た。ホワイトはブラックの部屋の向いのビルをブルーにあたえ、見張らせレポートさせた。ブラックは文章を書いたりちょっと町に出るだけで、特に何もしないし、事件なんて起きない。ブルーは1年以上たち、ついにブラックの部屋に乗り込む。すると、ホワイト宛のレポートが山のようにあった。ブラックとホワイトは同一人物だった。」という話。

それにしても、この本のあとがきが良い。うまいこと言うなーと感心しっぱなし。

訳者あとがきに出てくる「どこでもない場所」「誰でもない人間」という言葉は、実にこの本を的確に表現しているなと思う。まさに、「どこでもない場所」「誰でもない人間」について書かれている本だと思う。本の中では場所も明確に設定されているし、登場人物の設定もしっかりしている。だけど、ストーリとして「どこでもない場所」「誰でもない人間」が表現されていて、その何者でもない場所・人間の存在の「当たり前の不確かさ」に心地よさを感じる。

「書くことの不安という」あとがきも、おおっと思った。よくこんなこと考えてるなーと。

不意に奇妙な疑問に捉えられるのである。この文章を書いたのは、ほんとうに私だろうか。確かにひとつの想念に捉えられていたのは私だ。その想念がひとつの文章になったのだ。だが、想念と文章とは正確に一致しているのだろうか。いや、そもそもかつて捉えられていた想念というものは、つまりいまでは文章から逆に遡って思い描かれるほかない想念でしかないのだが、それははたしてかつて私が捉えられていたというあの想念なのだろうか。そもそもその想念を私のものという根拠はどこにあるのか。いや、この作品を私のものという根拠はどこにあるのか。P142

自分でない人を見て、自分を見つめるという感覚。
何とも不思議な感覚になる。ごにょごにょと色々考え始める。

やっぱり、オースターが好きだ。
また、ポール・オースターの別の作品を読んでみたいと思う。

気になった言葉メモ

現在は過去に劣らず暗く、その神秘は未来にひそむ何ものにも匹敵する。世の中とはそういうものだ。一度に一歩ずつしか進まない。一つの言葉、そして次の言葉、というふうに。P7-8

p20-22 ブルーが今まで表面的な行動ばかりを行ってきて、内面を見つめることがなかった。何もすることがなくなり、初めて自分を見つめた。自分が見ているブラックが自分に見えた。という部分。意訳

機会を逃すことも、機会をつかむことと同様、人生の一部である。起こりえたかもしれないことをめぐって、物語はいつまでも立ちどまってはならない。P58

その男には私が必要なんだ、と目をそらしたままブラックは言う。彼を見ている私の目が必要なんです。自分が生きているあかしとして、私を必要としているんです。P94

あらゆるものに色があることの不思議さにブルーは心を打たれる。我々が見るものすべて、触るものすべて、世界中のすべてのものには色があるのだ。P96

「何のために俺が必要だったんだ?」というブルーの問いに、ブラックは、「自分が何をしていることになっているか、私が忘れないために」と答える。「君は私にとって全世界だった。そして私は君を、私の死に仕立て上げた。君だけが、唯一変わらないものなんだ。すべてを裏返してしまうただ一つのものなんだ」と。あとがきP141


[湖面に山が映る@ボリビアとチリの国境]


[西表島付近の海@迷宮に吸い込まれる海面](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 100 露出: 1/30 sec 絞り: f/6.3 焦点距離: 45mm)