月別アーカイブ: 2010年5月

俺は地響きを腹で感じたいんだよ

もう何年も前からの念願。それは、ロケットかスペースシャトルの発射を目の前で見ること。4月に種子島宇宙センターへ行き、この時は5月18日発射予定だったH-IIAロケット17号機のために着々と準備される、メイン発射台を見てきた。当初の予定からは日程がずれたけれど、これぐらいは誤差のうち。金星探査機「あかつき」を搭載して21日に無事宇宙へと飛んでいった。

なんで、ロケットの発射を見たいかと言えば、その地響きを感じたいから。そして目の前にあるものが、宇宙へ飛び立っていくという浪漫を感じたいからだ。俺は地響きを腹で感じたい。今回の打ち上げの動画を、JAXAのサイトで見たけどやっぱりいいね。

日本のロケット発射予定はずっと先の予定まで、ここに掲載されているので要チェックだな。発射予定から1週間ぐらいは遅れることがあるので、予定の日から1週間は種子島に滞在するぐらいのつもりでいつか行ってみたいと思う。

そして、金星つながりで2010年5月16日に「月と金星の大接近」した。定期的に「星を見る、宇宙を知る、天文を楽しむ」というコンセプトのサイトAstroArtsのニュースを見ているから、少し前から知っていて、夜空を気にしながら見上げていた。道を歩きながら見上げた空に、刀でスパッと切ったような月と金星が輝いていた。なんとも美しい夜空で、ついつい見とれてしまった。この時の月は月齢2の細い月で、僕が最も好きな月の形なのだ。

空を見上げることが楽しいって、夢が広がって好きだなー。

送信者 ALASKA 2009

違和感を旅する

僕が旅を始めた頃、旅に出かけるきっかけは違和感を感じるためだった。
旅をすることは違和感を感じること。

いつも自分が知らない世界を選んで、飛び込むことの根本はここにある。

その違和感を感じて、今の自分の位置を理解する。
旅でも何でもいいんだけど、違和感がなければ相対的な自分自身というものが見えなくなる。

いつもとは違ったものを見ることに寄って、客観的に自分自身を把握する。
それが違和感を旅する意味。

僕は死ぬまで違和感を旅しつづけたい。

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不機嫌の連鎖、笑顔の連鎖

不機嫌は連鎖する。
怒っている人がいると、周りの人の機嫌まで悪くなることがある。
ため息を付く人がいると、周りの人もどんよりとした空気になることがある。
ネガティブな発言ばかりする人がいると、周りの人も気分が悪くなることがある。

逆に笑顔も連鎖する。
幸せな人がいると、周りの人もうきうきとしてくる。
いつも笑っている人がいると、周りの人も楽しくなってくる。
希望あることを語る人がいると、周りの人も希望で満ちてくる。

当たり前なんだけど、どちらかと言えば笑顔がいい。

もちろん自分が信じた人に裏切られた時のように、どうしても怒りが抑えられないこともあるだろう。
ただ、そんなことは滅多にあることではない。

自分ではコントロールできないことや、どうしようもない時は、まあ、こんなこともあるやと、細かいことは気にしない。
少なくとも自分はできる限り、どんなことがあっても笑っていたいと思う。

悪いことをしなさそうな顔

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ネパール ポカラにて

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沖縄にて

あまりに、鮮やかな、この世界、春の世界。

奥多摩へ。
ふらっと。
でかけた。
土曜の夕。

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電車から。
外を眺め。
場所求め。
途中下車。

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しばらく。
川沿い歩。
テント張。
ひとり飯。

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ゆっくり。
時間流れ。
音楽と本。
夜空眺め。

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シュラフ。
潜り込む。
少し寒い。
夜が過ぎ。

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ひんやり。
青空訪れ。
澄んだ朝。
人は漕ぎ。

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鮮やかな。
この世界。
澄んだ空。
輝く木々。

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鮮やかな。
この世界。
水は踊り。
人は踊る。

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白丸駅で降りた。
適当に歩いたのは多摩川沿い。
鳩ノ巣方面にしばらく行き、テントを張る。
新緑の緑が鮮やかで、水遊びもできる。
阿佐ヶ谷から1時間半の自然があった。
あまり時間がない時でも行ける。
土曜夕方から日曜朝までのショートトリップ。
その名は奥多摩ウォーキング・トレイルというらしい。

赤ん坊は全て気付いている

最近しばしば参加する友人の結婚式で、多くの赤ん坊たちや子供たちが親に連れだって来ている。東京の結婚式でも見かけるが、特に地方の結婚式では大人だけではなく子連れで参加する人が多い気がする。こういった場で友達の子供や友達の友達の子供などに多く触れる機会があって、赤ちゃんの感じとる鋭さに驚いた。

たくさんの子供を見ていると、きょろきょろ目をやりながら始めてみる大人(俺)を眺め、その間もミルクを飲んでいる。その時の目はまるで何でも気付いているかのようだった。大人が気づいていない、俺の細かな感情なども全て分かってるよ、そんな目でじっと見られているように感じた。

ただ赤ん坊は言語を持たないので、赤ん坊が感じとったことは正確に成人には伝わらない。動物が言葉を持たずに高度な認知をして行動するように、赤ん坊もまた全てを理解して行動している。そんな風に思えてならなかった。

大人が言葉を得るかわりに失った能力を赤ん坊は全て持っている。それに大人は気付いた方がよい。感じる鋭さと言語の習得は反比例するのだろう。
(これを、赤ん坊から大人になる、すなわち動物から人になると言うのだろうか。)

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