iPadが話題になっている。
何度か触ったけど、これは雑誌や写真集を読むのには適している気がする。一方でAmazonが出しているキンドルは本を読むのに適しているんだろうな。いずれにせよ、紙媒体はどんどん少なくなり、電子化していく。でも、iPadやキンドルでは革命的にペーパーレス化は進まない気がする。
紙がなくなると思う程の衝撃は電子ペーパーしかない気がしている。入力はキーボードのようにタイピングとペンタブレットの両方。もちろんネットワークには繋がっていて、折り畳んでポケットに入れて持ち運べる。さらに、2枚電子ペーパーを持っていれば、情報を見比べることもできるし、紙が本当にいらなくなると思う。電子ペーパーなら重くないし、かさばりもしない。
この50年~100年で3つの革命が起こると思っている。人工知能革命と再生医療革命と電子ペーパー革命だ。そんな3つの中に入るほど、電子ペーパーは大きなインパクトを人類に与えるんだと思う。この流れが来ることは間違いないと思うし、享受する利便性も大きいと思う。
こんなことを書いておきながら、紙が好きだ。もっと言うと、「それだけで成立している物」が好きだ。
「メール」と「手紙」
「デジタルデータの写真」と「プリントした写真」
「電子ブック」と「本」
この例で言えば、「手紙」、「プリントした写真」「本」が好きなのだ。それが、「それだけで成立している物」が好きということ。「それだけで成立している物」とは、単体で役目を果たせる物のことだ。分かりづらいので、例えば「デジタルデータの写真」を見るためには、パソコンなどの電子デバイスがいる。電池などの電力がいる。データがいる。ネットワークの環境がいることもある。これらがそろわないと、「デジタルデータの写真」を見ることは出来ない。一方で、「プリントした写真」はそれだけで見ることが出来る。
デジタルはそれ単体では価値を持たない。いくつもの要素が全て満たされて、価値を発揮する。ただ、現代は科学技術が発達しているので、複数の要素が安定して供給されており「デジタルデータの写真」が見れないと言うことは滅多にない。どちらかと言えば、それだけで成立している物の方が単体で見られる安心感があるのは事実だ。
「それだけで成立している物」は、それ以外の何者でもない。例えば富士山が写っている写真は、富士山が写っている写真でしかない。一方でパソコンで見る富士山の写真は、物理的に存在する物はあくまでもパソコンであって、そこに富士山の写真のデータが一時的に写っているだけだ。そのパソコンに表示される物は他の写真にも変わる。一方で1枚の富士山の写真は、それでしかない。写真は鉛筆で、デジタルの写真はシャープペンだ。パソコンがシャープペンの本体で、データがシャープペンの芯となる。鉛筆、シャープペン、シャープペンの芯だと愛着がわくのは鉛筆だろう。そのものでしかないから、傷も付くし、よれよれになる。だから愛着がわくのだ。
電子メールよりも手紙を大切にするのもそんな理由だろう。手紙はそれ自身が単体で存在し、価値を持っている。だからこそ、電気がなくてもそこにある。それだけで楽しめ安心感がある。
デジタルはコピーできるから、永遠にあるように思っているけど、そう思っているからこそ、大切にせずどこかへ失ってしまうことが多々ある。「それだけで成立している物」、逆に言えば代替がきかないもの(手書きの手紙など)を大切にしていきたい。
送信者 ドロップ ボックス |