月別アーカイブ: 2008年6月

なんくるない よしもとばなな

なんくるない よしもとばなな

全部ひらがな。
こんな風に文字にしてみて、はじめて気づく。

友達が貸してくれて、沖縄の話しだし面白そうだなと思って読んでみた。
すごい読みやすい文章と展開ですぐに読み終えた。

この本を読みながら、「エッセイのような小説だな」と思った。

エッセイかと思ったのは現実に自分の生活にも起こりそうな出来事がくりひろげられていたり、
普通なら些細な出来事や心理変化で忘れてしまうけど、言われると「そうそう」って思うことが表現されていた。

まるで自分が旅して起こる出来事のように感じたのだ。
文章の目線がどこにでもあるような、誰にでも起こりうる出来事と感情の変化。

旅をしていれば直面する出来事、そのときに沸き起こる感情が素直に表現されている。
仰々しくなく、一般人の目線で書かれているのが良かった。

ムーン・パレスに続いて2冊続けて小説を読むのも、かなり珍しいことだなー。


「ムーン・パレス」ポール・オースター 柴田 元幸訳
http://teratown.com/blog/2008/06/09/yayoynyiyyyyeyyyaeaa-uio/

何もない島 黒島

前回の旅日記はコチラ
http://teratown.com/blog/2008/06/12/aeaeiciaceoceeoaci-2/

石垣から波照間にかけて毎晩飲んでいて疲れた。
波照間の最後の夜も、遅くまで語り飲み、いつの間にか寝ていた。

翌朝起きるのもやっと、そんな状態で波照間島を後にした。
今日も宿に泊まる人が、港までお見送りにきてくれた。
この見送りが沖縄の島の習慣だと言う。

いったん石垣に行き、それから黒島に向かった。
もう、眠たくて船ではひたすら寝ていた。

あっという間に黒島だった。
旅に行く前から黒島は何もない。
そう友達に言われていた。

何もないからこそゆっくりできるとも聞いていた。

黒島行きの船には人がまばらだった。
やはり何もない島には人が行かないのだろうか。
さらに、どんよりとした天気だったのも理由のひとつだろう。

宿につきしばらく寝た。
それから行動開始。
ただひたすら牧草地帯を貫くまっすぐな道。
両脇には遥か彼方まで草と牛しかいない。

人もいないし車も通らない。家もない。
歩き続けても何もないことに気づきつつ、スリッパを脱ぎ大声で歌を歌いながら歩いた。
この土地と全く関係のない異質なものは僕だけだ。
あとの全ての物はずっとここにあるもの。
僕だけが完全に自由であるかのような錯覚になった。

星野道夫さんが「旅をする木」(十六歳のとき)でこう書いている。

町から離れた場末の港には人影もまばらで、夕暮れが迫っていた。知り合いも、今夜泊まる場所もなく、何ひとつ予定をたてなかったぼくは、これから北へ行こうと南へ行こうと、サイコロを振るように今決めればよかった。今夜どこにも帰る必要がない、そして誰もぼくの居場所を知らない……それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。不安などかけらもなく、ぼくは叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった。

まさに、こんな気持ちになった。

そんな気持ちになってきたが、雨が降ってきた。
びしょ濡れに濡れてもいいのだが、大切なカメラを持っていた。
濡れて壊すわけにはいかないので、走って帰った。
僕は完全に自由でも何でもなかったのだった。

また、宿でひと眠り。
風呂に入ってさっぱりしたら、雨が止んでいたので海へ行った。
雑草が生い茂る中からクジャクが行ったり来たりしていた。
浜でボケーっとしながら、本を読んだ。

夕食を食べ、ゆんたくをして寝た。

旅日記の続きはコチラ


沖縄(八重山/黒島)旅の写真はコチラ

http://teratown.com/OKINAWA2008.html

響きにつられ、この島に行く(波照間島)その2

前回の旅日記「響きにつられ、この島に行く(波照間島)その1」はコチラ

波照間島のニシ浜で泳いだ後は、
写真を撮ったり、浜を歩いたり、昼寝をした。
そして、夕暮れ時になり、また浜に来た。
ちょうど浜の方角に夕陽が沈むので、見たいと思っていたのだ。

三脚に望遠レンズも持って、いざニシ浜へ。
意気揚々と行ったものの、雲が厚くて夕陽を見ることはできなかった。
ただ残念な気持ちには、なぜだかならなかった。
美しい海に出会い満足していたからか、
これから続く旅の間に完璧なる夕陽にであうだろう、そんな風に思えたからだろうか。

夜は「パナヌファ」から「あやふふぁみ」に店の名前が変わったばかりの店で、同じ宿に泊まっていた人とおばぁの3人で飯を食った。
てびち(豚足の煮付け)定食とオリオンビールを楽しんだ後、懐中電灯をともしながら3人で宿に向かって歩いていると、三線の音が聞こえてきた。
おばぁはうれしそうに、「やどかりかね?」と言った。
近づいてみると、その音はヤドカリからだった。

宿に泊まっている人が10人ほどで、ゆんたくをしていた。
ゆんたくとは沖縄で「おしゃべりする」という意味らしいが、みんなの使い方を聞いていると「しゃべりながら泡盛を飲む」こんな意味に感じた。
僕も、このゆんたくに加わった。

僕がそのテーブルに加わると、「カール君だ!」と言われる。
はてさて、何のことやら。
でも、おそらく俺のことだ。
なんで「カール」なんだろう。

話を聞けば、僕が夕食を食べにいく前に、スナック菓子の「カール」とオリオンビールを買って、ゆんたくしている机に置いたからだった。
僕は外に出かけていたので時間が遅くなってしまいどの店も閉まり、夕食を食べれないかもしれないという状態になった。
そこで、売店も閉まる前にと「カール」とオリオンビールを買ってきたのだった。
そうしたら、おばぁが私も食べてないからと、「あやふふぁみ」に連れて行ってくれた。
この店も閉まっていたのだが、店の人がおばぁと仲がいいからと飯を出してくれた。

みんなからすれば、こいつは沖縄まで来て夜飯が「カール」だけかよっ。
という突っ込みを入れたくなり、「カール」ネタで1時間近く「ゆんたく」していたらしい。
何ともおかしな話。僕としては、何もしなくてもキャラが確立されてありがたかった。

それから、ゆんたくは非常に盛り上がった。
星空の下で、ろうそくを灯し、三線を鳴らし、みんなで歌う。
ビールと泡盛がその気持ちをさらに楽しくさせてくれる。
波照間島への気持ちが根強いものになっていった。

みんな、旅人だ。自分の普段の生活からは切り離され、何者でもないみんな同じ旅人。
偶然にも時と場所を同じくした旅人が語り、唄い、時をともにする。
みんなが歌えるBEGINや沖縄民謡は、さらに気持ちをひとつにしてくれた。

次の日も同じように幸せな日々が続いた。
最南端に行き、自転車で島をはしり、空港に行き、だれもいない浜でヤドカリとにらめっこしたり。
澄んだ海に心満たされ、そして夜はゆんたく。

そんな心満たされる日々が続いた。
次の行き先を決めていなかった僕は、同じ宿の沖縄フリーク(彼は沖縄に数十回来ているという)の人にオススメ場所を聞いてみた。
すると黒島ということだったので、黒島に行くことにした。

さて、次は黒島。
旅日記の続き。黒島へ。


沖縄(八重山/波照間島)旅の写真はコチラ

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響きにつられ、この島に行く(波照間島)その1

前回の旅日記はこちら

波照間島に行くため朝飛び起き、離島桟橋を目指した。
8時30分の船だったが、起きたのは8時05分。
なんとか間に合う。
そう思い、走った。
間に合った。8時30分には間に合った。
しかし、船の定員には間に合わなかった。
1時間以上前に満席になったという。

なんだそれ。そんなにも人が行くのか?
船の数が多くないのでこういうことになるらしい。

次の船は12時。ふー、だいぶ時間がある。
でも、また売り切れは勘弁だ。
そこで、12時のチケットは何時から発売するか聞くと、9時半という。
よし、ここで待とう。チケット売り場の前で寝ながら待った。

ちゃんとチケットは取れ、帰りの便も仮予約した。
それから2時間30分も待ち時間がある。石垣市街地でやることもなく、さらに眠たい。
うん、寝るしかない。でも、寝過ごすのは嫌なので、船着き場のすぐ横で寝ることにした。
ぽかぽかした陽気の中ぐっすりと眠りについた。

波照間島に行こうと思ったのは、その響きだった。
「果て」の島。
「果てのウル(珊瑚礁)の島」という意味らしい。
実際に有人島では日本最南端。

この「果て」という言葉が魅惑的だ。
人は、旅人は特にかもしれないが、この「果て」という言葉に引きつけられる。
そして、いつの間にかその場所に足跡を残す。

僕もユーラシア大陸最西端のロカ岬に行った。
果ての地とよばれるチベットやガラパゴスにも行った。
近いところでは本州最南端なども。
「果て」「端」こんなところには、つい足を踏み入れたくなってしまう。
この果てという言葉に、ついついつられてしまうのだ。

南の果てを目指すために、船に乗った。
眠たかったので、船内で寝ようとも思ったが、こんなにも天気がいいしデッキで風を感じようと思った。
僕は、だいたい船に乗るとデッキで風を感じて、潮のにおいを嗅ぎながら海を眺める。
なんとも言えないぐらい興奮する。腹の奥底から喜びが沸き上がる。
海のない県で生まれ育ったからかもしれないが、海にでると「海にきたーっ」とうれしくなる。
遠くまで来たんだ、海は世界とつながっている。そんな思いになる。

今回も発狂したくなるぐらい、興奮した。
海がきれいだ。風が僕の血をかき回す。
波のリズムで水しぶきがかかり、海とつながる。
そして、島が見える。あれが「パナリ島だ!」なんて感じ。

1時間ほどで波照間島に到着した。
港には宿の車がいくつも待っていて、旅人を宿へと乗せていった。
僕が予約していた宿の車もあるかなと思ったら、見あたらなかった。
個人的にはうれしかった。
島についてすぐ車になんか乗ってしまったら、島の第一印象が車の中になってしまう。
まずは、地図も何も広げずに島を歩きたかった。
自分の足と目と鼻と耳と肌で、この島を感じ取りたかった。
たいして大きな島でもないし、迷うこともないのだし。

宿を予約してあるにもかかわらず、荷物をかついだまま島のあちこちを、きょろきょろしながら歩いた。
サトウキビ畑に挟まれた砂利の一本道。
鮮やかな赤や黄色のハイビスカス。
石垣と平屋の沖縄の家。
そして青い空。
もう、言うことはなかった。
僕の待ち望んだ「島」がここにはあった。
ホッとできた。

歩いていると、泊まる宿が見えた。
壁に大きく「ヤドカリ」と書いてあったのだ。
今日泊まる素泊まりの宿。

宿はおばぁ一人でやっていた。
部屋と言うか、10畳ほどのプレハブだった。
ここに、6人ぐらいで寝るらしい。
まあ、僕はどこでも寝られるので特に問題ない。

昨日から泊まっている人がプレハブの中にいた。
二言三言はなして、僕は海にいくことにした。
きらめく海に。

着替えて、シュノーケリングするために調達したコンタクトレンズを持ち出かけた。
ニシ浜をめざしてしばらく歩いていると、遠くに青く透明な海が見えた。
深さによって色が違うが、どこを見ても澄んだ青い海だ。
最初は、嘘じゃないかと思った。
こんなにも美しい海が現実にあっていいものなのか?

僕は旅をよくしてきたけど、こんなにも美しい海には来たことがなかった。
タイのタオ島やエクアドルのガラパゴスの海でも潜ったが、こんな色ではなかった。
美しい海はモロッコから望む大西洋が美しかったが、その比ではなかった。
テレビや写真で見る鮮やかで澄み切った青い海は、合成技術によってできた産物だと思っていた。

そんな海が目の前に飛び込んできた。
もう、たまらない。ワクワクして、心が躍る。
気分も高揚し、跳ねるように浜へいった。

近づいてみても、やはり美しい。
本物だ。当たり前だが、そんなふうに思った。
もう、うれしくてうれしくて。
やっぱり、こういった自然と向かい合った時、一番興奮する。
天からの恵みに本当に感謝する。


波照間のニシ浜はあまりにも美しい海だった。

コンタクトをつけて、シュノーケルをつけて海に飛び込んだ。
海の中も澄み切っている。やっほい。
何もかもから解き放たれたように、海の中を満喫した。
サンゴに熱帯魚。海に仰向けに浮かべば青い空。
波の打ち寄せる音。

海からいったん出て、海を眺めた。
どれだけ見ていても飽きることのない海。
これこそが揺るぎのない絶対的な美しさだと思った。
小林秀雄が「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」と本に書いていたが、まさにこのことだと思った。


旅の続き

響きにつられ、この島に行く(波照間島)その2


沖縄(八重山/波照間島)旅の写真はコチラ

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ムーン・パレス ポール・オースター 柴田 元幸訳

「ムーン・パレス」ポール・オースター 柴田 元幸訳

この本はかなり前から知っていた。知ってただけではなく気になっていた。
面白そうだなと漠然と思ってはいたものの、どちらかというと小説はあまり読まないし、
さらには外国の小説は名前がややこしく登場人物の整理ができずに理解できないことが多い。
結果として楽しめず、外国の小説はあまり読んだことがない。

そんな僕があまり手を出さないジャンルの本を読むきっかけは、沖縄の旅だった。
僕は旅に出る前に、友達にお勧めの本を聞く習慣がある。

今回もご多分に漏れず、友達に聞いた。
そして、かえってきた答えが「ムーン・パレス」だった。

ちょくちょく読む雑誌coyoteでも最近特集されていたので、僕が好きな部類の本だろうとは思っていた。これも、この本を手に取った理由だ。

結果的には旅先ではこの本を読んでいない。
沖縄には持って行ったのだが、この本は読まなかった。
沖縄から帰ってから読み始めた。

最初の何十ページか読んだところで、面白いと思った。
これなら、最後まで読めるんじゃないかと感じた。
何と言っても書き出しかがいい。

「それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。そのころ僕はまだひどく若かったが、未来というものが自分にあるとは思えなかった。僕は危険な生き方をしてみたかった。とことん行けるところまで自分を追いつめていって、行きついた先で何が起きるか見てみたかった。・・・」

主人公の破天荒さ、だらしがなさ、そしてやさしさ、不器用さ。そんな性格が僕にはしっくりきた。
危なっかしい、綱渡りな人生、でもそこには人がいた。実は身内がいた。
キティがいた。エフィングがいた。バーバーがいた。

ありえないような偶然の出来事、そして出会いの連続だ。
僕が生きる現実世界との乖離から、ややもすると嫌気がさしてしまうのだが、そうはならなかった。
自分の周りの世界でも気づいていないだけで、実はそんな偶然のような出来事や出会いに満ちあふれているのではないか。
そんな風に思わせてくれた。
なんだか日常の何気ない出来事や出会いに、もうひとつ意味があるかもしれないという一筋の光をくれた。

もちろん、登場人物が少なくて理解しやすかったこともあるし、訳が非常に良いことも理由だろう。
まあ、あまり内容を書いてもしかたないので、僕がこの本を好きになったことだけを記して終わる。