日別アーカイブ: 2015/5/14 木曜日

知るということが人を変える世界を変える

情報距離とでもいうのか、インターネットで世界はコミュニケーション距離が圧倒的に縮まり、ほぼ距離という概念がなくなった。日本も海外もない。国家が違うし法律も違うが、そんなもの気にならないでやり取りできる。

すぐ近くで起こった事件でも、ネットで知る方が早いこともあるし、近くにいる人ともネットでやり取りしたり、遠くにいる人と変わらなかったり。唯一違うのは、一緒に顔をあわせる頻度だが、ネット上で遠くにいる友達の写真なんかを頻繁に見ていると頻繁にあっているような気さえする。一度、何かを共にして、分かり合った仲間なら、その後物理的距離が離れても、ずっと近くで頻繁にあっている気になるのが、この世の中。

もちろん、交通機関の発達で物理的距離も縮まったのも事実だと思う。人間という生き物自体が物質として存在するため、その制約からは逃れられないと思うから、移動手段の発達は今後もっと進むだろうし、それが進むとまた一段世界が変わっていく。

世界のこの流れは止められない。世界はひとつになろうとしている。世に言うフラット化するというやつか。資本主義という概念があり、お金があるとやりたいことができる、やりたいことに変えられる。それを世界の人は知ってしまった。お金なんて、ただの紙切れで絶対的な存在でもなんでもない、けれど資本主義という概念は、それ以外の概念などを全て包み込んで、自分のルールを適用させるぐらいの構造になっている。

もちろん、そうではない生活を思考する人も一定数存在するし、ある程度の存在感を示していくことになるだろう。

ただ、学問をする、人と人がつながる、新たに商売をする、医療を受けるといったことには、外貨が必要だ。ここで外貨というのは、資本主義バリバリじゃない生活を思考する人たちでも、学問を受けようとすると学費でお金がいる。医療を受けようとしてもお金がいる。新たなことにチャレンジしたり、何かしようとするとお金がいる。このお金のことを外貨と言っている。自給自足でも生きていけるが、そこにお金というネックが生じる。

この資本主義という構造の、さらに根底を流れるエネルギーは、知るということ。知ってしまうということ。これが全ての根源であると思う。人間の最も大きなエネルギーの源は知るということ。知るということは、人の欲求を掻き立てる。その欲求たるものが、人間を最も突き動かす。だからこそ、この「知る」という行為を根本から変えてしまったインターネットは革命なのだ。これに、資本主義というものが掛け合わさると、最強のエネルギーを持ち始め、世界をひとつの価値観というかひとつの構造に覆い被せられ、世界は収斂されていく。

昔の帝国とかもそうだったから、それが地球という規模で起こっているだけとも言える。というのは、鎖国していて、外国の暮らしを知らなかったら、あれしたい、これしたいなんて思わない。今の現状の生活に不満も抱かなければ、政府にだって反発することもない。昔の人も全て、ここを統制すれば、なんとかなると知っていた。だから、江戸時代も国を統治しやすいように鎖国したんだろうし、社会主義・共産主義国家なども情報統制をするんだろう。今知っている範囲で、幸せに暮らすのだ。何も知らなければ、もっとあれしたい、これもしたいという、欲求のスパイラルには向かわない。そして、この欲求スパイラルと資本主義の相性が抜群なのだ。

となると、今後はそ世界がシームレス、ボーダレスなコミュニケーションになっていくなかで知るということをどうやって統制するか、もしくは知ったあとに人々が抱く感情や欲求をどうコントロールするか、どのような行動を促すかが世界を統治する上で鍵となる。これって、悪く言えばマインドコントロールっぽいことだし、よく言えば企業のブランディングとかだ。知り、資本主義の構造をうまく扱うものが勝ち抜いていく。

まあ、うまくまとまらない。このことを1ヶ月ぐらい前に考えていて、こうなっていくんだ世界は!と思ったのに、しっかりと書き残さなかったのが反省だ。まあ、自分が考えたことの3分の1も伝えられないのが常なので、諦めずに考えていこうと思う。

そんなことを思ったのも社会主義国家キューバへ行ったから。あの国の人々の価値観、ネットなどの情報コントロール、そして西洋人が来ることによって知る彼らのライフスタイル。それらが合わさって、変わっていく国民。国民の変化と世界の変化が押し寄せ、そろそろ国が回らなくなるという危機感から、政府・国も大きな政治的決断をして国を開こうとしているという今。

技術の進化や発展途上国が先進国化していく中で、いろいろな国を旅したり、仕事で行ったり、海外にいる人たちとネットで簡単にコミュニケーション取ったり、まあ、いろいろな経験を重ねていく中で感じ、考えてきたこと。実体験として国境なんていう概念が薄れていっている。そして、音楽もビジネススタイルも食事も似たり寄ったりになっている。お互いの前提となる文化が似てきて、相互理解が早くなるともいえる。

この流れは止められない。そうなっていく中で、自分はどんな価値観を大切にして、どうやって生きていくか。それだけだ。

ただ、全く想像もつかない文化や価値観の人たちが世界には存在している、多様性という表現よりも、バラバラで未知があり続けることに喜びを感じる自分としては、どこか寂しさが常にあり続ける。

送信者 キューバ201503

知らなきゃ、愛せないということばブログに昔書いたことを思い出した。