日別アーカイブ: 2015/5/30 土曜日

東京藝大物語 茂木健一郎とデコボコな仲間たちの青春

一気に読みきった。

後半になるつれ、湧き上がる感情。
芸大という青春が終わりを告げる。

僕にとって、あの2年間は、
ありのままの姿が集まった場所だった。
それは、ひとりひとりの。

もともとこの世界がなんたるかを、本当に知りたくて、人間の意識ってなんだよと19,20歳ぐらいの時にずっと考えていて、行き着いた芸大の大学院のモグリ授業。茂木さんの意識系の本を読み、科学的アプローチとアート的というか感情的な両側からのアプローチや、その問題に対する捉え方、そして同しようもないものを、やさしく包み込む言葉に魅せられたのだ。

それまでは芸術なんて興味もなく、ピカソの絵なんて俺でも描けるぐらいのことを言っていた。芸大には潜ったけれど、意識について学ぶためという気持ちで出向いた。そうしたら、そこは芸大で、油絵科などを中心とした学生さんばかりいた。そんな仲間と時間を過ごしていくうちに、芸術というものにいつもまにか興味を持ち、以前とは全く違う捉え方をするようになっている。

俺は、結局この世界が何たるかを解き明かしたくて、そのためにいろんな経験してきた。でも、振り替えるとそんな方法だっただけで、当時はただ好奇心の赴くままに、いろんなところに飛び込み、いろんなことをしていただけだった。

そうして、21,22歳の2年間を芸大で過ごすことになった。木曜の夕方16時15分だったけかな、16時35分だったかな、いや15時だったかもしれない。その時間になると、決まって上野の東京芸大のキャンパスへと歩いて行った。

一番最初の日だけは明確に覚えている。上野のキャンパスに行き、ウェブで調べた時間に調べた教室へ行く。扉を開けると、えっ。この教室、小学校の半分サイズじゃん。2,3人が座っていた。これは、モグリがバレる。そうおもって、階段を降りて、キャンパスをあとにした。色々考えながら歩いていると、潜っているのがバレても、殺されるわけでもないし、ダメだったら帰るだけ。そう思って、再びキャンパスに戻り、階段を戻って着席したことを覚えている。そんな授業で、一番最初に指名されて発言を求められるなんて、思ってもいなかったけどモグリなんですがと話し始めたら、なんの問題もないよという感じで快く受け入れてくれた。これが、芸大の自由さであり、芸大の懐の広さであり、芸術が生まれる土壌であり、これが芸大なんだとその時痛感した。

アートなんて全く関係なかったのに、潜っていた2年。茂木さんの講義を元にディスカッションしたり、海外の論文を紹介してもらったり、アーティストなどが外部講師として来てくださったり、どんどん茂木さんが有名になり、教室に入りきらなくなって教室が変更したりと。もちろん、授業の後の飲み会は忘れられない。上野公園の砂場を囲んで夜な夜な飲んだこと。冬は車屋まで行って飲んだこと。

この世界の多様性を教えてもらったし、芸術というものが何かを考える切っ掛けや、本物の芸術に触れる場をもらった。それは、かけがえのない時間だった。本当にあの空間が好きで、あの仲間が好きで、今でも続いている。あれから12年の時を経て。

そんな12年前の出来事が、ありありと描かれた東京藝大物語。まるでその時にタイムスリップしたかのように、没入して一気に読み終えた。

この本は、まるで茂木さんの恋文のように感じた。
青春、芸術、そしてあの上野公園を囲んだ仲間に対するラブレター。

青春のはかなさを感じるけれど、それは誰にもあって、そんな青春を味わえたことを噛み締めて、次の世界へと羽ばたく心のエネルギーになる物語。

なんだか、心の奥底からえたいのしれないエネルギーが溢れだして、夜の闇に走りに駆け出したくなった。

過去に芸大について書いたブログ

月の奥に鏡を見る

安全基地

10年前はモブログでこんな洗い写真をアップしていたのか、ということにも驚き。
http://www.teratown.com/moblog/archives/001979.html

心に残った言葉

P91
「人間にはさ、あまりにも昔に諦めてしまって、諦めてしまったことさえも忘れている、そんな夢があるんだよなあ。」

P127
科学とは、実は、他人の心を思いやることに似ている。科学の正反対は、「無関心」である。たとえば、空の月は、なぜ、そこにあるのか。月なんて何か知らないけど勝手にそこにあるのだろう、と思っていると、科学する心は生まれない。 中略 すべての動物の中で、人間だけが、「心の理論」を持っていると考えられている。もしかしたら、人間が、ここまで科学を発達させてきた背景には、「心の理論」の普遍的な働きがあるのかもしれない。人間には宇宙という大いなる絶対的他社の「心」を、推定しようとしているのだ。あるいは、科学者スピノザの、万物に神が宿っているという「凡神論」に従うのならば、人間は、「神の意志」を推し量ろうとしているのだ。

P160
そんなところに、もう、企て、体験した者だけが持つ「特権」の構造が生まれている。

P161
幸福と、才能は、似ているところがありませんか。

P163
「まとめれば、幸福には、二種類ある、ということです。自分の才能を、最大限に発揮している、フロー、ないしはゾーンの幸福。一方で、自分の足りないところを直視せず、これで大丈夫だと勘違いしてしまう、偽りの幸福。みなさんには、ぜひ、前者の幸福を目指して欲しいと思います。才能のフルスイングによってしか、到達できない至福の幸福と、才能を小出しにして、送りバントを繰り返すことで、達成される幸福と。君たちは、どっちを選ぶのだろう。」

P166
ふと、ジャガーに言いたくなった。
「あのさ、こういう時間が、ずっとあると思っているだろう。もう、ないぜ。この時間は、二度と戻ってこないんだ。」
「へいっ。」
「居場所というのはさ、ある時は当たり前だけれども、失われるのは、あっという間だからなあ。」
「へいっ。」
「水たまりは、やがて干上がる。ひだまりは、つかの間の輝き」
「へいっ。」
「だから、この光景を、よく覚えておこうな。」
「へいっ。」

P174
アーティストの卵たちは、芸術の「自由」を「空気」のように吸って過ごしている。しかし、その自在の空間から、いかに「作品」という地面に着地するか、その間合いが難しい。 中略 卒業制作とは、ふわふわと空を飛んでいた学生たちが、卒業という大地に着地する、そのランディングの姿勢を競う場なのだ。

P187
アーティストは、良い絵を描くためには、不道徳なことさえやりかねない。凡庸な作品を作るいい人であることと、悪い人でも傑作を描くことのどちらかを選べと言われれば、芸術家の答えは決まっている。
問題は、選ぼうとしても、心とカラダの自由が、案外利かないことだ。
どんないい人の中にも、悪い人が潜んでいるものだとするならば、着ぐるみを脱がせなくてはならない。ところが、着ぐるみは、しばしば、自我と一体化してしまっている。
うまく皮を剥ぐことは、むずかしい。美は、往々にして、皮一枚にすぎないからだ。そして、着ぐるみは、油断をしていると一生つきまとう。

P203
振り返れば、その夕暮れが、間違いなく青春の一つの「頂点」だったと感じる。
青春とは、浪費される時間の中にこそ自分の夢をむさぼる行為ではなかったか。
偉大なる時間は、この上なく輝かしい生命の光にも通じる。
芸術のゆりかごは、その薄暗がりの中に、こっそり、ゆったりと揺れている。

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