日別アーカイブ: 2015/5/10 日曜日

意味が崩壊して、祈りに変わる

意味が崩壊して、祈りに変わる。

荒川沿いを久しぶりに自転車で走っていて、こんなことを思ってメモをした。自転車に乗るのは9ヶ月ぶりぐらいで、実は先週も乗ろうとしたが、チェーンおよびギアが壊れて自分で直すこと3時間。とりあえず乗れるようになり、自転車屋へ修理に。まあ、乗れるのだが、トリムがおかしいまま。でも、物はのらないと、ダメになる。使わないとダメになる。大切に使わないとダメになる。ということで、爽やかな天気を感じに荒川沿いをサイクリング。

そんなサイクリングをしながら、祈りについて考えている人も変なやつだろう。

例えば、昔から続いている宗教。仏教も宗派によって発生した時期は全然違って、歴史はちがう。でも、現代日本人の捉え方は、ずっと昔に生まれた仏教の一つという認識で、これらは歴史があり善。最近できた宗教は新興宗教っぽくて悪ぐらいの認識な気がする。まあ、俺も詳しくないので、偉そうなことは言えないが、それが正しいか否かは別にして、一般論としてそんな程度の認識な気がしている。

宗教ってのも、世代が変わるごとに、捉え方が変わる。人が変わるし、時代も変わるから当たり前なのだ。同じ宗教であっても意味合いが変わる。もともとは、宗教ごとに生まれたきっかけや経典がある。お経にも意味があった。でも、今は、それを知る人はほとんどいない。意味がなくなったということだと思う。でも、古くから続く宗教は大切なものであって、祈りの対象となる。これが、意味が崩壊して、祈りに変わるということなんだと思う。

自分は文化的な意味における仏教とであると自分は思っている。たぶん、この10年ぐらい。手を合わせる、和を重んじるとか、仏教の概念が日々の生活でしみ込んでいるから、それが大切だし、心地よい。

うちは、禅宗の臨済宗だ。厳しい宗派と聞くが、細かなことは分からない。情けないことに学んでない。(いつか本気で学んでみたいと思っている。)しかし、実家に帰ると、毎回お経を読む。これも、父が始めたことで、祖母が亡くなってからの最近の習慣だ。その習慣が俺にも、浸透して、お経の中身にではなく、その行為であったり、中身は関係なくそのもの自体に、ありがたさとか、大切な何かを感じるようになる。これも、意味が崩壊して、祈りに変わっている。

繰り返すこと。意味がわからなくても繰り返すこと。意味があっても繰り返すこと、意味がなくても繰り返すこと。これが、祈りなんだと思う。芸術作品にも、何か祈りに近いものを感じることがあるが、これがあるんだと思う。ひたすら何度も色を塗り重ねたり、ひたすら削ったりなどなど。この繰り返すという行為が、意味を超越していく。

数年前に読んだ「エデン」という自転車競技の小説にもこんな一節がある。

同じ行為を繰り返すことは、どこか祈りに似ている。戦略など封じられてみれば、こうやって集団でひとかたまりで、ただ進んでいくこの時間も、祈りの代わりになるのかもしれない。
P227

もちろん実体験から、100キロも200キロもひたすら一人で走る行為。これも祈りだと思っていた。繰り返す行為は祈りになる。そこに意味はなく、意味があっても崩壊している。

これは、繰り返すことによって祈りに変わった証拠なのかもしれない。
星野道夫さんが、大切なことは何度も同じことを繰り返したという。これは、大切な事が祈りになっているんだろう。

なんか、こういうことを書くと、怪しい人に思われるから嫌なんだが、単純に人間の脳とか、社会全体として、そういう側面も大きいということだけなんだが。いろいろな、実体験を伴う具体的な事例から、抽象化された「意味が崩壊して、祈りに変わる」という概念に落とし込まれて、自転車に乗りながら、メモったことを書き加えた。

送信者 岐阜

エデン
http://teratown.com/blog/2013/03/01/yycyociioiacadhoaoeuaa/

大切なこと
http://teratown.com/blog/2008/08/25/acauee/

何度も繰り返すと、好きになる、愛着がわく
http://teratown.com/blog/2007/05/20/yoyyyeyyoyyiyayycyoauiyi/

UTMF
http://teratown.com/blog/2012/05/27/iiaoaiee41tho49e4ea/