月別アーカイブ: 2015年8月

おねしょと無意識の意識のコントロール

子供のおねしょ。
老人のおねしょ。

でも、大人はおねしょしない。
これは、なぜかという疑問。

一般的に、寝ている間は無意識だと思っている。

えーと、厳密に意識とはなにか、無意識とは何かを定義することは困難であるのだが、いったん意識があるとは、自分自身(脳)が明示的に自分の行動をコントロールできる状態と定義し、無意識とは自分自身が明示的に自分の行動をコントロール出来ない状態とする。特にここでは、寝ているときは無意識、起きているときは意識と定義したほうがいいかも。

でも、意識で無意識をコントロールするのが、いわゆる社会性のある大人というものなんだろう。ということは、無意識は意識でコントロールされているということになり、上記で定義した無意識というものは実は存在しないということになる。

例えば、冒頭のおねしょのはなし。おねしょはしちゃいけないと教えられ、おねしょしたら洗濯めんどくさいし、恥ずかしい行為という教育を受けそのように覚えたから、意識で無意識をコントロールしている。これを理性と呼ぶのか。ただ、この意識というものは、習慣化され明示的に今日はおねしょしない!と意識しているわけではない。ってことは、初期段階で意識をして無意識の状態をコントロールできるようになり、それが習慣化すると意識をするということを無意識でできるようになるという、なんとも書くと分かりづらいことになる。そして、その習慣化は脳で明示的に考えなくても、脳の信号パターンとか肉体の行動パターンに浸透していくということなのだろうか。

で、老人になって再度おねしょをするのは、肉体の老化によって肉体の行動パターンが崩壊したか脳の信号パターンが崩壊した時という感じなのかな。

てことは、気楽に生きてると思っても、気を使うことが習慣化した人は無意識でも気を使ってしまって生きている気がする。なので、これを辞めるには相当な決意を持って、繰り返し気を使わない思考&行動を繰り返していくしか方法はないのだろう。三つ子の魂百までといのも、これに近いし、大人になるとなかなか改善が難しくなるのもこの要素だろう。

ということで、無意識もトレーニングによって時間をかければ意識でコントロールできるということ。それが、おねしょをしないという行為で示されている。他にも無意識を意識でコントロールするために、脳を洗脳というか、意識的に何かをしたり働きかけると実現するんだなと、ふと電車の中で思った。この辺りは、使いようだな。

あとは、この辺りは考えても考えても答えはわからないので、暇な時に空想して楽しむのがちょうどいい。

無意識の処理能力が脳の回転速度を決定する

無意識の処理能力が脳の回転速度を決定する

無意識学習

無意識学習

お金の流れを可視化する

街を歩いていて、怪しげな募金活動をしている人がいた。これって、募金のお金を自分のポケットに入れてるんじゃないかな。そう思えてしまう。もちろん、そうじゃないかもしれないし、俺の失礼でうがった見方だけなのだが。

それをきっかけに、証明できる方法ないかなと思ってみると、もしお金にチップをつけて追跡できたら、それが判明するんだろうなと思う。まあ、当たり前だ。でも、今の時代はお金がコインとか紙じゃないことのほうが多い。データなので、そのデータの動きもすべて可視化できたらすごいことだ。

もし、世界中で受け渡しされるお金が、誰から誰に、いつ、いくら支払われたか。その通貨は何だったか、外貨と両替の場合の為替レートはいくらか、そのお金は現金かポイントかビットコインか、そんなことがすべてデータとしてある。超膨大なデータ量だが、それがあれば、世界の大きな流れが瞬時に把握できる。

経済活動の結晶でもあるし、人間の行動の結晶でもある。そのデータから何がわかるか想像もつかないぐらいで、だからこそ面白そう。

そもそもお金は価値を示す指標としてのメディア(媒体)なわけだし、世界中にいろいろな国の通貨があり、最近はポイントという企業が発行する通貨もあるわけだし、ビットコインのようなものも生まれている。

今回のギリシャ危機で、自国通貨を持っていたほうが経済政策がしやすいということが言われたが、まあそりゃそうだろうと思う。国家なりがお金をコントローラブルなほうが、ハンドリングがし易いのだから。

ただ一方で、インターネットが世界を変えた。世界がつながった。どんな情報でも知ることができるようになり、世界はいわゆるフラット化した。プログラム(コード)というもので、世界中の人が仕組みを生み出すことができ、それを広めることができる社会になった。

こんな社会だと、国境、国という単位、政治影響範囲ってなんだろうなーと思う。そういった未来社会になった時に、お金ってどういう役割になって、どんな姿をしているのだろうか。例えば、10年後とか。30年後とか。50年後とか。テクノロジーをベースとして新たなサービスや仕組みが生まれ、それを使う人間の生活スタイルがかわり、国の姿や法律もお金の姿も変わっていく。

まあ、長く続いてきたものは、それなりに本質的な価値があって、すぐにはなくならない気がするが、もしお金の流れがすべて可視化できるようになったのであれば、究極的にはつけで払って死ぬときに精算するとか、先物取り引きが超発展するとか、お金って実は価値がないんじゃないってことになるとか、今まで価値がつかなかったアートや個人の思い出の品にも価格がつくとか、究極の一物一価の法則が成立するとかetc ちょっといろいろ調べたり、真剣に考えて、友達と議論したら面白そうなネタだなと。

送信者 パプアニューギニア2011

知るということが人を変える世界を変える
http://teratown.com/blog/2015/05/14/知るということが人を変える世界を変える/

頭に汗をかけ

頭に汗をかけ、

脳に汗をかけ、だっけ?

まあ、そんなような表現がある。脳をフルに使って考えろという時に使われる。

個人的にあまり、エアコンが好きではない。エアコンは短期的には快適なのだが、長期的には身体能力を衰えさせる。交通機関にしろ、エアコンにしろ、便利になるのはいいが、いろいろな物が便利になりすぎて、身体が進化・適応する力を失っているように思うのだ。すなわち、身体外が発達しそれに頼ることによって、身体は機能が落ちていくという話し。

不思議なもので、北極圏に行ったり、冬の山に行っても寒さで体がだるくはならないが、エアコンの効いた涼しい部屋に長時間いると体がだるくなる。これが、いったいどういう仕組なのかはなぞなんだが、少なくとも経験則的にそう感じる。

暑さでも疲れるのは事実だが、夏本番を迎え1週間ほど暑いままの状態で暮らすと、それに慣れて辛さはなくなる。これが、毎年のパターン。エアコン無し、網戸にして、裸にうちわ、そして水分をたくさん取る。もちろん、長時間直射日光には当たらない。これが、いつものスタイル。

汗をかくのは自然現象だし、汗にしろ、気持ちのモヤモヤにしろ、何にしろ出すのが人間にとって一番であると。INPUTは食べ物でも、嫌なことでも自然とされるので、意識して外に出すという行為をすると、人間という生物はうまく生きていけるという自分の信念があるので、それにも従っている。

と、フィリピン人に英語で説明するのが難しい。

「日本暑い?」
「暑いよ」
「エアコン使ってないの?」
「使ってないよ」
「エレクトリックファンは?」
「使ってない。」
「じゃあ、どうしてるの?」
「裸にうちわかな。」
「どうして?」
「うーん。」

困るのだ。上記の理由を英語で説明するだけなら可能だが、文化的な背景が違うので、そこがまず曖昧。だから、どこまで背景を説明すればいいのやらと悩ましいのだ。

と、だらだらとどうでもいいことを、思いついた順に書いただけなのだが、頭に汗をかくということを書き記したかったのだ。自分の記憶では、寝ている間に毎年こんなにも頭に汗をかいていなかった気がする。あくまで、気がする。これが、毎年起こっていることなのか、今年だけなのかを検証するために、事象のメモとしてのエントリーでした。

あ、厳密には、頭というか首から上だけよく汗をかく。さて、来年以降に、頭に汗かくなと思ってこのエントリーを見るのが楽しみだ。今年だけなのか、昔から7日、今年からずっと続くのか。頭の汗問題を継続ウォッチしていこうw

送信者 北岳間ノ岳2012

時間の変化、人生の変化。原始感覚美術祭2015

東京芸大に通っていたのは10年以上前のこと。
そして、木崎湖に通い始めたのは5年ほど前かな。

大学院の授業に潜り込もう、それも東京芸大という多くの大学とは異なる世界に。今思えば、ちょっと無茶なことをした。まあ、結果的にあの一瞬の判断が、これだけ長く続く関係になるのだから人生のきっかけは面白い。

当時の芸大で一番ぶっ飛んでいたスギさんが、長野の木崎湖周辺で始めた芸術祭。5,6年たち町にも根付いてきたし、多くの作家が参加し、観光客も増えている。続けることの重要性を改めて思う。

いつもの夏に、いつもの場所へ。
木崎湖の周りは、いつ来てものどかで良い風景だ。

でも、変わったなと思う2日間だった。

いつものように、新宿発のあずさに乗り、松本まで。3時間ほどの電車では、久しぶりに会った仲間と盛り上がる。茂木さんの研究室メンバーが中心なので、東京芸大と東工大出身者ばかり。松本につくと、東京と同じように暑く、蕎麦屋へ行き、レンタカーを借りる。1時間ほどドライブして、信濃大町のオープニングイベントで杉原さんに顔を見せ、定宿である稲尾のあたらし屋さんに到着。

今回は茂木さんが遅れてくるのと、幹事役の植田さんが原稿の締め切りに追われていたこともあり、みんな近くをぶらぶらしたり、昼寝したり、買い物行ったり、のんびり気ままな時間。芸術祭を見に来たはずなのに、何も見に行かないw

夜はカレーを作り、だらだらと飲み始める。哲学者の塩谷さんもいらっしゃって、囲炉裏を囲って、ああだこうだと。茂木さんも到着し、再び乾杯。アートや哲学、サイエンスに関して話す姿は同じだけれど、昔みたいにバトルがなくなった。大人になって、受け入れるようになったということなのか。

翌朝、1000年の森へと足を運ぶ。雪解け水が流れる小川でビシャビシャと遊び、パフォーマンスを2つほど見て、いつもの神社へ。今回は、茂木さんと塩谷さんのトークの間に、植田さん、蓮沼さん、杉原さんの芸大3人組の、アートバトル。1時間という制限時間で、作品を作り観客による投票で1位を決めるというもの。

植田さんはマリア様を、蓮沼さんは鳩を、杉原さんはキャンバスを石で殴りつけ、ぶっ壊した。10年以上の付き合いだけれど、3人が同時に作品を作っている姿は初めて見たし、その時の顔の表情は真剣そのものだった。3人共アーティストとして生きているが、顔を見たら改めてアーティストなんだなと妙に納得した。いつもは、飲んで話している位だから。

そして、あたらし屋へ戻って、乾杯をして東京へと戻った。大半のメンバーはもう1泊して、宴会をして東京に戻ってきたはず。今年も夏の儀式が1つ終わったな、と。毎年、これが最後かなと思っているので、また、集まれて嬉しかった。

見ると落ち着く風景になった木崎湖だけど、なんだか今年はいつもとちょっと違う気もした。それは、一言で言うならば「時間は変化だなと、変化は人生だな」と思ったということ。

今年は、東京芸大物語を茂木さんが書いてくれた。あの時代が1つの本という形で記録された。

みんな、いろいろなコンペで賞を取り、日本でも有数の芸術祭に呼ばれたり、連載を持つようになったり、芸術祭の総合アートディレクターとして大きく育てたり。普段の生活でも結婚し、子供を授かり、性格が丸くなっていく。大切な仲間であることは変わりないけれど、それぞれに抱えるものも大きくなってきた。多くの日本人からすると、そうなるのは遅かったかもしれないし、今でも自由なのかもしれない。でも、抱える物が大きくなる経験をし、受け入れるという心が育ってきたのかもしれない。

いつもと同じ木崎湖の風景を眺めながら、ああ、人生って面白い。でも、変わることって、すこし寂しいもんだなと思いながら、夕日に染まる空を眺めながら、この地を後にした。

送信者 原始感覚美術祭2015