食べ物を残す人は自分の死を忘れた人だろう。ただ特定の人を言っている訳ではないので、「食べ物を残すという行為が普通になった社会は、自分たちの死を忘れた人たちによる社会なんだろう」。
台湾から日本に戻る機内で、横に座る人が機内食を残した。メインの肉をひとくちとデザートをひとくち食べただけであった。この残った食べ物は捨てられる運命になるのだろう。残された食べ物が土に捨てられ新たな肥料になれば、まだまともなサイクルである気がするが、おそらく廃棄され燃やされ埋め立てられるのだろう。自然の循環に沿っていないことに違和感を感じた。この一連の流れを目にした時、腹が減っていたので「食べてもいいですか?」と聞きたくなってしまったほどだ。
もちろん理由はあるのだろう。お腹がいっぱいだったかもしれないし、時差ぼけなど旅で疲れていたかもしれないから、その人を攻めようとは思わない。自分だって今までの人生で何度かは食べ物を残したこともある。それ自体は褒められたことではないが、それなりに事情だってある。
ただ、一般的な話として「食べ物を残すという行為が普通になった社会は、自分たちの死を忘れた人たちによる社会なんだろうと思う」。
いつでも食べものがあることが当たり前となり、食べると言う行為に執着しなくても良くなっている証だろうと思う。とは言え、食べることは生きることであって、生きることは食べることである。美味しいものを食べたいという気持もあるが、それよりも腹を満たしてエネルギーになること、こちらの方が遥かに重要なはずである。が、食べ物があることが当たり前になったから、美味しいとか不味いという概念が生まれたのだろう。舌は食べても死なないかが判断できればいいはずなのだ。
食べ物を得ることと食べることの間に隔たりが出来てしまった社会だ。それは分業をしてより効率的に生活するためだ。作物を作らない、狩猟をしない。自分の手で生き物を絞めて食べる事をしなくなった。自分の知らぬどこかで食べられる状態になって、それをたべるだけ。そんな社会。
アラスカで狩猟をして食べ物を得て生きている人の話をワイズマン村で聞いた。狩猟をメインにした自給自足。今はそれほどではないが、たくさん獲物が取れたときに食いだめをしたという話を聞いていた。食べられる時に食べて、食べられないときのために備える。現在の日本とは対照的だ。
食べられるありがたさも、死ぬ日が来る事も忘れないように生きていきたい。
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冬のアラスカという過酷な環境で食べ物があるのは、とてもありがたいとしみじみと思ったから、帰りの飛行機で機内食を残す人をみて思ったんだろう。
http://teratown.com/blog/2009/10/23/ueintheiiaeiaeei/