月別アーカイブ: 2008年7月

肉体が全てを吸収してくれる

両親に本当に感謝することがある。
それは、元気な体に生んでくれて、そしてしっかりと育ててくれたこと。
そして、健康の「健」と名付けてくれたこと。
その名の通り、健康な体だ。

突然フルマラソンをしても4時間19分で完走でき、東京から岐阜(厳密には名古屋)まで歩くことだってできる体。
風邪だってひかないし、何でもおいしく食べられる。
過信している訳ではないが、頑丈だ。
外見からすると、マッチョでもなければ、背が高い訳でもない。
でも、しっかりとした作りの体になっている。

この体に感謝しても、しきれない。
小さいときの些細かもしれないが日々のバランスの取れた食事、
そういったことの積み重ねによって成り立っているからだ。
この年になって実感する。

そんな僕の体(肉体)が全てを吸収してくれる。

精神と肉体は同一のモノを意味するかと思うぐらい連動している。
体力が落ちていくと、物事の捉え方も元気がなくなる。
精神的にダメージを受けると、体にも支障がでてくる。

生きていれば、ものすごい楽しいこと、心躍る絶頂の時もあれば、何事もない平穏なとき、もう立ち直れないのではないかというような絶望。
悲しみ、怒りも存在する。もちろん、たった一言の美しさにこころが澄み渡ることもある。

いわゆるプラスの感情もマイナスの感情であろうと、その極みに達したときはどうしようもない。
恍惚とでも言うのか。茫漠たる自然の中にぽつりと一人で存在してしまうような、その時その場でどうしていいのか分からない感情になる。
そんな時、溢れ出した感情を肉体が吸収してくれる。
肉体が吸収してくれないと、感情が一人でどこかに行ってしまう。そして、取り返しがつかなくなる。
そうなってしまう気がする。

このときに、ちょっとやそっとでビクともしない肉体が溢れ出たものを吸収し、バランスを保ってくれる。
こんなときも、吸収してくれる肉体に感謝する。
このときというよりは、後から感謝するのだが。

僕は精神的に常に平穏な人間ではない。
確かに世の中一般でおこる些細なことでは動揺しないけれども、喜びもあれば悲しみもある。
そんな心の振幅があるにしろ、頑丈な肉体が吸収してくれる。
だから、精神的に強く見られるのかもしれない。

まあ、そんな周囲の目はたいしたことではなくて、
僕はこの肉体に感謝したいだけなのだ。


(群がる子供@インド アグラ)

今日は少し涼しかったので、走りやすかった。
6、7キロから体が軽くなって、走るリズムもついてくる。
そこからが楽しい。
走りながら、こんなことを考えていました。

「おわり」のない最後

最近「おわり」のない最後 について考える。
かれこれ、2、3ヶ月。
思い出せない記憶について考えていたのがきっかけだ。

「おわり」のない最後が何かと言えば、ある物事を事前に「おわり」であると意識していないけれど、後から振り返るとその時が最後だった。
そんな事象を「おわり」のない最後と僕は言っている。

ドラマには最終回という事前に最後だと分かる「おわり」がある。
大学や高校の最後の授業も、あらかじめ分かっている。
結婚式もおそらく最初で最後だと分かっている。

事前に最終回(最後)であると分かっていると、自然と気分は高まる。
最終回であることを自然と意識し、その時を深く心に刻む。

有名な野球選手の引退試合も、セレモニーが行われ明確な最終試合が存在する。
多くのファンが球場に駆けつけ、最後の勇士を応援する。
そんな選手とは対照的に、怪我などをして、最後の試合が事前に分からない選手も多い。
野球選手を引退し、振り返ってみて「あの時が、最後の試合だったのかなぁ」と記憶をたどる。

星野道夫さんの死のような、突然の死も「おわり」のない最後であり、
最後の誕生日だって、その時は分からない「おわり」のない最後だ。
ものごとには「おわり」が分からない最後がある。
ほとんどの物事の「おわり」は分からない。

後から振り返ったら、あの時が最後だったのかと分かることもあれば、
大半は「おわり」を思い出せず、「おわり」を振り返ることもなく過ぎてゆく。

南米で5回も繰り返し合った人がいる。
ナスカで偶然同じ宿になり、クスコで泊まる宿を約束したが来なかった。
心配したがお互い旅の中だから、ぼくは先へと進んだ。
すると、ぼくがマチュピチュの帰りに、ウルバンバという町で会った。
日本人なんか見当たらない町だ。そこで別れ、プーノという町へ行った。この町のバス停からコパカバーナへ向かった。
プーノの町中でバスが止まった。人が乗ってきた、そして、ぼくの後ろに座った。
こんな所で偶然にも、また会った。コパカバーナまで一緒に行った。
この町ではゆっくりとチチカカ湖を歩いたり、料理をしてビールを飲んだり。
四面ガラス張りの最上階の部屋から日の出を見て、チチカカ湖を眺め、朝食をとった。
この時の幸せといったら人生の中で、トップ5にはいるのだ。
それから、ラパスへ。バスの中では語り合った。
それぞれの旅について。写真について。デザインについて。コレからの人生について。10年後の日々について。
そして、最後はウユニ塩湖のど真ん中であった。僕が夢にまで見たウユニ塩湖の上が最後だった。
こんなにも会ったんだから、また会える、そう思ったけど、振り返ればこれが最後だった。
あの人は今どこで何をしているのだろうか。

芸大の授業の後はいつも上野公園で飲んでいた。
酒を片手に真っ暗な上野公園で、いろいろなことを仲間と語り合った。
時には、砂場で相撲をして遊んだりと。
そして茂木さんの言った言葉を思い出す。
みんなが卒業したら、いつまでこれをできるか分からない。
この瞬間を一生忘れるなよ。と。
その言葉を覚えている。
最後はいつだったのか、過去の思い出にまぎれた「おわり」のない最後。

「おわり」のない最後を思うと、どんな一瞬も自分にとってかけがえのない時間や、出来事だと思えるようになる。
ひとつひとつの出来事を本当に大切にしていこう。そんな気持ちになる。

全てのことを大切にして、しっかりと心にとどめておきたいと思う。
でも、実際は全てのことを記憶していられない。
いくら思い出そうとして振り返っても、薄らとした記憶にしかならないこともある。
寂しくもあるが、だからこそ新しいことをして日々の生活を送ってゆけるのも事実だと思う。

そんな「おわり」のない最後には常に人が関わっている。
人は人をそれだけ求めているということでもあるんだろう。
そして、人というものは、それだけ流れているもので、不確かだ。
だから人には「おわり」のない最後が訪れる。

不確かだからこそ、絶対的に揺るぎのないものを求めようとする。
けれども、この世に絶対的なものはありやしない。
常にあらず。無常なのだ。

だって、人生そのものが「おわり」のない最後なんだから。
「おわり」のある人生なんて、未来の決まった人生そのものだ。
だが、そんなことはありえない。
たとえあったとしても、つまらない人生だろう。

「おわり」のない人生を楽しむ。
それが生きることそのものなんだと思う。

「旅をした人」星野道夫の生と死 池澤夏樹 P156にある一節

振り返ってみると不思議なことに、最後の段階で星野がやっていた仕事が二つにきれいに分かれている。二つというのは書物の名前で言えば、一方が~中略~「森と氷河と鯨」という本ですね。それからもう一方が~中略~「ノーザンライツ」~中略~今になって言うとこれは「最後の仕事」という言いかたになってしまうのであって、もちろん彼はこれを最後の仕事にしようとなんて思っていなかったわけなんですから、あまりそのことに意味づけをしたくはないんですけれども、ただ、今振り返ってみると最終段階で彼はアラスカについてひとつ新しい面を開き、二つのテーマに分けて、それぞれ見事に表現したなというふうに思います。

なんくるない よしもとばなな 12ページ

「今思えば、それが私の平凡だった少女時代最後の家族旅行だった。
そう思って思い返すと、なんていうことのない旅なのに、そのひとつひとつが鮮やかに思い出され、ささいなできごともすばらしいシーンに思えてくる」

「おわり」のない最後はいたるところに存在する。
そんな「おわり」のない最後は一人一人の人生の物語そのものなんだろうな。


(満月の夜@巣鴨の家から)

星の王子さま サンテグジュペリ/池澤夏樹訳

星の王子様は英語版を持っていて、途中まで読んだことがあった。
すごく面白いと思わなかったし、英語なので読むのも難儀だから途中でやめた。

だけれども、以前から、星の王子さまは大人が読んでも面白いと聞いていたし、有名な本なので一度読みたいとは思っていた。
先日、「荒野へ」という本を買いに行った時、すぐ横に「星の王子さま サンテグジュペリ/池澤夏樹訳」があった。
訳が池澤夏樹と書いてあったので、読もうという気になった。
彼の文章が好きだし、読みやすいから。

それで、さっそく読んでみた。
最高に好きになったという訳ではないが、話の中に出てくる物事の捉え方には共感する部分が多い。

「夜、星を見てほしい。ぼくの星はとっても小さいから、どこを探せばいいか指さしては教えられない。その方がいいんだ。ぼくの星はたくさんの星の中に混じっている。だから、きみはどの星のことも好きになる。・・・・・・ぜんぶの星がきみの友だちになる。ぼくはきみに贈り物をあげたい・・・・・・」

後半に出てくる一節だけど、この捉え方も好きだ。
この一節を読んで、星野さんがエッセイで書いているものの見方と共通する気がした。

そして、こんな歌を思い出した。
北野武作詞 玉置浩二作曲「嘲笑」

星を見るのが好きだ
夜空を見て 考えるのが
何より楽しい
百年前の人
千年前の人
一万年前の人
百万年前の人
いろんな人が見た星と
ぼくらが今見る星と
ほとんど変わりがない
それがうれしい

君といるのが好きだ
星について 考えるのが
何より楽しい
星も笑ったあの時
悲しくって星がにじんだ
あの日 あの頃
ぼくらが昔見た星と
ぼくらが今見る星と
なんにも変わりがない
それがうれしい

この本は定期的に読みたいと思う。
定期的といっても、10年ごとにとか。
今から10年後、次は20年後、その次は30年後。
その時、この本をどのように捉えるか。
自分の考えが変わったのか、価値観は今と基本的に同じなのか。

大事なことは目では見えないからね。


(四万十川の土手に昇る月@高知 中村)

久しぶりに恋をした

惚れた。
話で聞いただけなのに、もうどうしようもない。

自分の目で見たい。
たった数分の宇宙の一致を味わいたい。
フレアが沸き立つ姿を。

皆既日食。
もう、この目で見て、月と太陽と自分の間に何も遮るものなく一直線につながりたい。
もう、どうしようもないくらいの感情に駆り立てられる。

たまんないんだろうな。
人がいない所で、ひっそりとその瞬間を味わいたい。
高度が高いと空気が澄んでいて、最高の条件みたいだ。
山の上とか砂漠の中でポツンと見つめる。

もう、想像するだけでワクワクする。
なんでこんなにも惹き付けられるのかぼんやりと考えていた。
まずは、自分の手が届かない、想像がつかない夢の世界。神秘的な世界だから。
そして、太陽と月が重なり合うという希少性のある現象だから。
さらには、太陽と月が重なりあうという動き(変化)があること。
徐々に太陽と月が重なり合っていき、完全に一致する。
たった数分の出来事という、短い時間。

こんなことをイメージしただけで、胸騒ぎを押さえられなくなる。

ずっと昔に見た人たちも、同じように衝撃を受けたんだろう。
この世の終わりと思ったのか、新しい途轍もない世界がやってくると思ったのか。
その時に見た太陽と重なりと月の重なり。
時を越えても何にも変わらない。太陽と月。
それが。

そして、宇宙の奥行きが分かるという。
皆既日食がおこった時、周りに見える星の奥行きの差が分かる。
宇宙の奥行き。

今年は8月1日にロシアのアルタイ山脈付近などで見れるらしい。
中国のウルムチから北にあがったところでも見れるので、日程調整をできないかと思う。
来年は日本でも話題になっているが、7月22日の奄美諸島付近で。
この気持ちは来年まで待ちきれるのだろうか。

どうしても、その空間にいたい。
皆既日食を。

色々まとまっていて分かりやすい記事。
http://wiredvision.jp/news/200807/2008070423.html

日食情報
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/%7Ex10553/

こっちも日食情報
http://www.asahi-net.or.jp/~id6m-tnk/tanapapa/nissshoku_index.htm

走る夏の夜、風鈴の音

マラソン以来、はじめて走った。
ちょっとお休みしていた。

ただ、アクアスロンとハセツネカップにでる予定なので走り始めなければならない。
ちょうど友達からハセツネのメールが来て走る気になった。
やはり、自分だけではどうしても怠けるが、友達とやるとお互い刺激になる。

この時期は蒸し暑い。
走っていてもすぐに、空気の重さを全身で感じる。
涼しい時期と比べれば、さわやかではない。
でも、やはり走るのはいい。

毎日の生活の中で起こる出来事や時間の流れとは全く違う時間がある。
誰とも話すことなく、本やインターネットなど情報が入ってくる訳でもない。
ただ、自分で何かを考えるか無になるか。
そんな時間。
走ること以外でも、無心で絵を描いたり、けん玉をしたり、泳いだり、銭湯にゆっくりつかったり、パズルをしたり、料理を作ったり。
何でもいい。ただ、考えているだけではなく、できるだけ単調なこととをしている時間。
そんな空白の時間、無になる時間がとても貴重だ。
頭がすっきりするし、色々なことを空想しアイディアが産まれてくる。

走り終え帰ると、玄関で風鈴の音が聞こえた。
ああ、涼しい。
夏だな。