日別アーカイブ: 2012/6/8 金曜日

ひとつの単語がもたらす印象

言葉で表現し、その意味(真意)を的確に伝えるのは難しい。

全ての人が違う人生を送っているのだから、完全に同じように理解するのは不可能と言ってしまえばそうだ。一方でそれだからこそ面白いとも言える。

単語ひとつとっても、人それぞれその単語に対して持つイメージ(印象)は違い、その個々のイメージによって全く異なる理解をしていることもある。同じ単語なのにこんなにも印象が違うのかと驚くし、それだからこそ言葉のチョイスは難しい。1対1で話していれば、相手の反応や話す言葉を聞き、相手がより理解してもらえそうな単語を使うことができるが、多数の人に向けた話しや文では、そういうこともできない。

1対多でも難しいし、もちろん1対1でも難しい。その場の状況や、相手が置かれているその瞬間の背景によっても全く変わってくる。同じ1人の人間でも、ある単語の意味が年を重ねることに変わっていくことも往々にしてある。経験に寄って意味なんてどんどん変化していく。

例えば、運動会という言葉。一人一人イメージすることは違う。小学校の運動会を想起する人もいれば、中学の人もいる。短距離を思い出す人もいれば、綱引きかもしれない。もちろんそれに付随するイメージも違う。運動神経が良くいつも優勝していた思い出、足が遅く恥ずかしい思い出。お弁当のことをだけを想像する人もいるだろうし、炎天下で暑かった思いでだけが蘇る人もいるだろう。

キューバという国を取ってみても、それぞれが知っている情報は異なり、持つイメージも異なる。行ったことある人とそうでない人でも大きく異なるだろう。好意的な印象を抱く人も、そうでない人もいる。キューバ危機、社会主義、カストロ、陽気。

悔しいと言った言葉でも違う。バカという言葉も。美しいという言葉も幅が広いだろう。

人は会話の中で、言葉から理解する割合はほんの一部で、その場の空気感で大半を理解していると聞く。同じように、電話も相手の顔が見えないから、どこか落ち着かない。文章であれば、なおさらだ。文章が持つ情報量は圧倒的に少ないのだから。だからこそ、現代のデジタルコミュニケーションでは絵文字とか顔文字が多用されるのだろう。

そんな場の空気感が伝わらない文章では、絶対的に感情が伝わりにくいかと言えばは異なるだろう。小説などはその好例だ。小説などを読み、感情移入して現実よりも感動したり涙したりする人も多い。しかし、明らかに人と人が向かい合って話す会話よりも受け止める情報量(言葉や表情など)は少ないはずだ。とすると、なぜなのだろう。

これは、文章がもっている情報量が少ないからこそ読者がその情報に自らの背景などを付加して補わないと行けない。というか、無意識のうちに自分の経験や感覚を補って理解している。すると、読み進めるうちに、まるで自分自身のことかのように思えて来て、当事者意識を抱き感情移入するのだろう。こう考えると、文章(文字)と言うのは意外と一方通行がいいのかもしれないとも思えてくる。

From ALASKA 2009

電話が苦手な理由
http://www.teratown.com/blog/archives/001341.html