社会を仕組み化して運営することと人間の多様性のアンマッチ

最近、誕生日というのが不思議でならない。母親の体内から出た日を誕生日としているが、それは適切で無い気がするのだ。というのも、早産で早く生まれた人も通常より遅く生まれた人も、母体から出た日が誕生日だ。これだと、成長のレベルは大きく異る。そもそも、10ヶ月と分母が小さいので、2ヶ月早く生まれたら20%小さいということになる。と、成長が遅いのだ。なのにも、誕生日はそれを基準にカウントされてしまう。スタートからハンデをおっている。100メートル走をひとりだけ20メートル後ろからスタートするようなもの。これは、ウサインボルト並の能力があろうとも、勝つことはできない。

まあ、誕生日単体で考えるならば、それでも問題ない。誕生日自体は個人の問題だから、他の事柄と関係しないから。だが、学校という制度があると不都合が生じる。学校制度が1年という単位で区切っているが、4月生まれと3月生まれでは1年違って、入学するタイミングでは、5歳とかだから、1年違うと20%。こんなに成長が違うのに、同じアウトプットを求められる。100メートル走を20メートル後ろから走り始めることが、実際に起こっている。オリンピックでスタートが20メートル後ろからスタートすると違和感があるが、学校という制度がずっとむかしから存在して、当たり前になっているとこの不思議さに誰も気づかない。人間の感覚や認識なんて不思議なものだ。

まあ、社会には多くの人がいて、なんとかしてひとまとまりにして国家というか社会を運営する必要があるので、個人ごとの個別対応ではなく、多くの人をひとかたまりにまとめて、対応していかないと国家は回らない。運営側からすればアタリマエのことだし、自分が運営側だったらそうした仕組みを作ると思う。制度を作って、一括して対応しないといけないのだが、それと個人の置かれた状況から考えると、制度の歪は明らかだ。制度と個人事の状況の違いは顕著なのだから。

今後の社会は、ネット含めてテクノロジーが発展したので、より個別最適化が昔よりしやすくなっているはずである。だからこそ、個人にあったサービスが提供され、よりその人のエネルギーが発揮される社会になればいいと思う。一方で、人間というものは感情の生き物で、不条理な条件を突きつけられているからこそ、こんちくしょうというエネルギーで頑張ることも考えられる。トータルでどちらがいいかは分からないが、普段当たり前だと思っていることでも、違う視点から見てみると不思議なことで溢れている社会は面白いし、変えがいがあるなとつくづく思うのだ。

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