月別アーカイブ: 2014年6月

場所の持つ力

2日連続結婚式で、新郎の友達が2人とも偶然にも同じことを話した。
それは、結婚する理由。

結婚式をする場所が、ここだと感じて、結婚しようという話が進んだ。

一人は長野の山の中にある、ログハウス。
そして、その前の空間を草むしりして作り出した。

もう一人は、鎌倉の高台にある旧小林秀雄邸。
茂木さんと飲んでる時に、ここでやればいいじゃんと言われてイメージが湧いたとか。

この話を聞いて思ったのが、場所が持つ力。

ここなら式をしてもいい。
ここで式をしたい。
だから、結婚したい。
場から結婚のイメージが湧くということ。

別に結婚じゃなくても、場の持つ力ってやっぱり、スゴいと思う。

スペインを旅した時に、バルを知った。
第3の場という言葉が流行っていた。
そういった空間って、すごい価値だと思う。

島とか田舎における祭りも場だ。
ものすごい意味がある場。
人と人がつながる場。

星野さんがアラスカに住んだ話も。
根無し草で、家も持たずにアラスカにいた時と、居を構えてアラスカに住み始めてからは全く違ったと。

写真展を何度かした。
コンセプトを考え考え、
展示の方法や写真を選び、
告知はガキを作り、
搬入して場を作る。
そして、いろいろな人が行き交う場にいる。
新たな出会いや新たな会話が生まれる。

インターネットのサイトもそうだ。
Facebookにしろ、このブログも同じドメインで書き続けている。
そうした場によって生まれてくる者がある。

別に会社という場もそうだろうし、コワーキングスペースも、公園も、図書館も、老人にとっての病院の待合室も。

場の持つ力。

場があるということの価値。

送信者 トカラ

第3の場としてのバル
http://www.teratown.com/blog/archives/001116.html

線の誰々っぽさと、言語化されない感覚の確からしさの証明

線の誰々っぽさと、言語化されない感覚の確からしさの可能性の証明っていう方が正確な表現かもしれないが、よけい分かりづらくなっているだろう。

芸大の友達とはかれこれ10年以上になる。絵だったり、建物だったり、オブジェだったり、アニメーションだったり、いろいろな作品を見てきた。それなりの期間ずっと見てきていると、この線、このライン、このタッチは、彼っぽいなとか、感覚的に分かるようになる。

人間は、その線の何を捉えて、誰々っぽいと判断しているのか。ふと、そんなことが不思議になる。

これは言語化されてないけれど、何かを捉えて判断している。そして、その精度は高いのだ。俺に限らず、一般的に高い精度だと思う。絵画とかの鑑定士も同じような能力を使っているんだと思う。

この線は、筆圧がどうでとか、色味がとか、曲線の曲がり方とか、とかとか、それぞれ、ここに特徴があって、彼の特徴と合致する。なんて言える人はほとんどいない。でも、絵などの作品を見て、その作品全体から瞬時に何か要素を汲み取って、これは彼の作品っぽいと判断している。

これって、すごい面白い人間の能力だと思う。

絵などに限らず、後ろ姿を遠くから見て、あれは彼っぽいとか、彼女っぽいとか分かるのが人間である。何らかの特徴、それは服装のテイストだったり、なで肩だなとか、慎重とか、足の開き方とか、とかとか。そんなとこから判断しているのだろう。でも、彼女の特徴は?彼の特徴は?と聞かれると、すらすらと言える人の方が少ない。頭の中では、彼の特徴は何でと言った感じで、明示的に整理はされていないことがおおい。

もちろん、それらを整理していて、頭で考えて、判断している人もいるのだろう。

絵がうまい人というのは、そういう能力の持ち主なのかもしれない。対象物を見て、その特徴的な部分を瞬時に読み取り、描く時に特徴を強調したりして、分かりやすく表現する。これは、ものごとを捉える力に他ならない。

ただ、一方で大半の人は特徴を意識的に捉えて、言語化したりはしていない。でも、これは誰々っぽいと判断はできる。そして、かなりの確率で正しいことがおおい。

ということは、言語化されていない根拠でも、確からしさの根拠としては意味をなすのだろう。しかし、相手に明示的に説明できないから、理解されなかったり、信用されなかったりする事も多い。特にビジネスの世界とか言葉が意味をもつ法律や書籍などの世界では。これは、非常に残念なんだけれど、本当は、言語化されない人間の認知把握能力はすごい可能性を秘めているし、証拠資料としても高い価値があるんだと思う。

送信者 art

一万回悔しいと叫んでも

先日、アコンカグアの紀行文も書き終わったので、草稿のまま放置してあった文章をアップ。
関連する文章を全部アップしたら、まとめのリンクを作ろうと思う。
確か、退院して、ホテルで書いた文章。
===

アコンカグア

一万回悔しいと叫んでも、足りないぐらい悔しい。

仲間と一緒の時間を過ごせなかったことが。

苦しいこと楽しいことを共にできなかったことが。

そして、結果を出せなかったことが。

結果にどんな意味があるのか問えば、突き詰めるとないかもしれないが、やはり結果が出せなければ、意味がないという現実がある。

周囲のの目もそうだが、そんなものより自分の気持ちの問題として。

そもそも、結果を得るために勝負(チャレンジ)してるんだから結果を出せなくてもよかったという振り返りはクソだ。

PTLと合わせて思う。

もちろん毎回成功して結果を出せるわけでもないし、毎回勝てる勝負をしている時点でチャレンジでない。
そりゃじゃ勝負から逃げている。

ただ、届くかどうかギリギリに挑戦して、果実を得たいんだよ。まじで。仲間と共に。

そんな下山してからというもの、こんな気持ちをずっと抱えていた。

送信者 Aconcagua&Patagonia

大人になることと情熱と感情と持続力の変化、そして事を成し遂げる可能性

最近は結婚式が少なくなっていたが、2日連続で結婚式があった。

土曜日は信濃大町で旅仲間かつ元阿佐ヶ谷仲間の結婚式。
日曜日は鎌倉で東京芸大時代の友達の結婚式。

どちらの友達も10年近い付き合いで、それなりに若いころ、例えば20代前半ぐらいから知っていた。

久しぶりに会う友もいれば、年に数回会っている友も、頻繁に会っている友も様々。

ただ、一同に会する事は本当に久しぶりで、稀な出来事だ。
コミュニティは違うけれど、友達が一同に会して、いろいろな話をした。最近やっている事、興味のある事、当時の事を語ったり。

そんな時間を過ごしながら、なんかもやっとした感覚がずっとあった。それって、何だろうと考えたり、考えるというよりも、汚れてかすんで見えないガラスをきれいに掃除して、ハッキリ見えるようにする。例えるならば、そんなような作業を脳の中でやっていた。

そのもやっとしたものを言語化すると、こんな感じだなと思った。

10年ぐらい前はみんな元気だった。元気というか、溢れ出す感情や衝動、俺はこう思うんだ、こうしたいんだ、これが正しいと思うのだ、俺の持てるすべてをぶつけたいんだ、こんなものクソだそれなのになんで評価されるんだ、俺はこう思うなぜなら、、、なんかそんな感情や情熱にあふれていた。今もあふれているのかもしれないけれど、昔の方が、話していてもすぐに、そんなような話になった。それで、ぶつかる事も多々あった。よく噴火していた。

それが、振り返ってみると最近少なくなった。これは、情熱量が減ってきているのだろうか。それとも、いろいろぶつかってきて、ぶつかっても仕方ないと思い始めて、あえてぶつかる事をしなくなったのか。それは、定かではない。けれど、溢れ出す情熱や衝動のぶつかり合いは減った事だけは事実だ。いろいろ経験してきて、いろいろな見方はあるし、自分の知らない背景、影みたいなもんを抱えながら生きている。それを分かったからなのだろうか。

理想ばかり言っても、学生でもないし、お金を稼ぐ必要もあるし、妥協も必要だと考え始めたのだろうか。なんか、マイナスな表現に聞こえるかもしれないけれど、単純にそういう捉え方ってわけでもない。

というのも、情熱とか衝動とかいったものが、表出されることは少なくなった。でも、それぞれがやりたい事、信じる事を続け、事を成し遂げる人も出てきているからだ。もちろん、昔の夢や理想から離れた者もいる。成し遂げた者たちは瞬発力になるような衝動や感情は表に出なくても、秘めた想いを抱き続けているのだろう。

そう考えると、感情的になってそれをすぐに表に出す事ってどんな意味があるのだろうと思う。自然とわき上がっているものをそのまま表現しているってことだから、我慢して自分の中にためる事なんて意味ないし、それ自体はいい事だと思うのだが、そのエネルギーって事を成し遂げるには絶対に必要でないのかもしれないなとか。

見た目的にエネルギッシュな人の方が、パワーがあって、なんかやってくれそうな気がしてしまうが、それって要素の一部で、そういったことを表に出さずに、想いを持続し続けている人がたくさんいるってことだ。でも、こんなこと言いたかったわけじゃなくて、みんなの心の中で、物事に対する情熱ってものがどのように変化していって、それをどう捉えているんだろう。そこが気になった梅雨入り初の週末。

送信者 ドロップ ボックス

【地球の裏のその先へ15】旅の終わり、偉大なる大陸との別れ

【地球の裏のその先へ14】地響きとともに崩れ落ちる氷河、悠久の時間の

目を覚ます。ベッドに寝転がり、窓の外を見上げる。今日もパタゴニアの青空だ。ただ、この大地との別れの空であもあった。しばらく旅した南米の大地とも別れの時がきた。昨日と同じように、ログハウスのレストランで、朝食をとる。木で囲まれた、この広い空間。吹き抜けが気持ちいい。

送信者 Aconcagua&Patagonia

特にやることもなく、バスでカラファテの空港に向かうだけなのだが、この町がパタゴニアが南米が名残惜しく、当てもなく宿を出て散歩をした。近くの湖を見て、商店に入り、道路の真ん中を空を見上げ歩いた。パタゴニアの大地と空に包まれている、この感覚を味わうのも残り数時間。

バスに乗り、空港へ向かう。特にやることもないが、お土産をいくつか。仕事で迷惑をかけているし、選別をくれた仲間もいるので。昔見たいに絶対にお土産を買わない主義から変わった、丸くなったなと思う瞬間だ。相変わらず、自分にはなんのお土産も買わないが。

空港の待合室の窓は、まるで絵画のキャンバスのようだった。

青い空と、湖と、飛行機。

絵になる風景だ。

ザックの中を探ってみると、りんごがひとつ入っていた。なんとなく、窓の近くに置いてみた。

送信者 Aconcagua&Patagonia

これまた、何か言いたげな、意味深な表情を持った光景になった。かじって、アップル風なリンゴにしてみたり、暇なのでそんな遊びが続く。ついに、飛行機の旅立ちの時。パタゴニアの大地と別れを告げ、ブエノスアイレスへと向かう。空へ、空へ。大地を離れ、大地を見下ろす。さよならパタゴニア。

送信者 Aconcagua&Patagonia

ブエノスアイレスに到着すると、空港間移動のバスに飛び乗る。行きにブエノスアイレスの空港に到着して街に出る時渋滞にはまった。もし、今回も渋滞にはまれば、飛行機乗り遅れのリスクがある。ダッシュ。バスに乗れ、町中はすいており、あっという間に国際空港に。国際空港と国内線が別れていると不便だ。本当に不便だ。外国人の我々には分かりづらい。あ、そんな国があった。日本、東京だ。成田と羽田。こりゃ、人が来ないわけだ。

送信者 Aconcagua&Patagonia

国際ターミナルにつくと、残りのお金をすべて使った。だれにでも配れるチョコ、そして残ったお金はマクドナルドでハンバーガー。残ったのは10ペソのみ。きれいに使い切った。チェックイン、セキュリティゲートをくぐり、出国。ブエノスアイレスをついに後にした。この大きな、偉大な大陸ともお別れだ。8年ぶりぐらいに降り立った南米大陸。こんな風に2回目の南米にくるとは思っていなかった。自分でも本当に驚きだ。当時と比べると、自分は変わった。価値観もスキルも年齢も趣味も持っているお金も経験も何もかも。でも、想像もしていない旅だったけれど、こうして仲間と1つのゴールに向かって準備をして、挑戦できた日々はかけがえのないもので、大人になってから経験できてよかった。学生の頃に体育会系の部活に入っていなかったので、こんな経験は大人になってからだ。

送信者 Aconcagua&Patagonia

そんなことを考えながら、映画を見ながら、いつの間にかお酒を飲んで寝ていた。ドバイに着くと、やることもなくベンチで仮眠したり、本を読んだり。そして、あっという間に成田に到着した。そして、そのままバスでオフィスに、そして新年会に赴いた。こんなことをするのも今の自分じゃないと考えられない。旅の余韻があって、旅の直後はしばらく一人でいた。社会に慣れるまで時間が必要だったのに、いつの間にか変わっていた。切り替えができるようになったというのか、旅への没入具合が浅くなってしまったというのか。

こうして、アコンカグアと偶然パタゴニアの旅を終えた。