夏がきたね。
夏だ。
夏。
青い空。
青い海。
暑い夏。
夏が”くる”というのがいい。
四季があるから季節は変わる。
冬があり、春、そして夏がくる。
何かが「やってくる」という、それを待ち望むことに喜びを感じる。
暑い夏まっただ中も好きだが、夏がやってくる時の高揚感は、海に行く前日のような感情に似ている。
さあ、夏が来た。
夏がきたね。
夏だ。
夏。
青い空。
青い海。
暑い夏。
夏が”くる”というのがいい。
四季があるから季節は変わる。
冬があり、春、そして夏がくる。
何かが「やってくる」という、それを待ち望むことに喜びを感じる。
暑い夏まっただ中も好きだが、夏がやってくる時の高揚感は、海に行く前日のような感情に似ている。
さあ、夏が来た。
銀座の町を歩きながら、何かを誘われるように夜空を見上げると、
ビルと空中を走る高架橋の中に月が目に入ってきた。
ほっそりとした月に、何とか息をしているような、最後の灯火のような感覚を抱いた。
生きる上で必要ないものを全てそぎ落とした最小単位とでもいおうか、そんな月に美しさを感じた。
家に帰り調べてみるとそれは新月から2日目の月だった。
先日、バスと電車を乗り継いで長野を訪れた。
先日といっても5月の末ぐらい。
友達のアトリエと彼の家が運営する西丸記念館(@稲尾)へ。
田んぼがあり、山があり、湿原があり、家の前には湖があるという素晴らしい環境。
友達のご近所さんの田植機が壊れたというので、田植えを手伝うことになった。
産まれて初めての田植え。それも手植えだった。
田んぼに素足を入れたとき、ひんやりとした柔らかさを感じた。
土の肌理が細かいなと。
柔らかい水の含んだ土に足を包まれるのは、こんなにも幸せなことなのかと満たされた。
とても心地よい時間だった。
まっすぐに植えるのはかなり難しかった。
田植えをしながら、いろいろな話を伺った。
機械で植えるよりも、人の手で植えた方が育ちやすいとか、田植えをしている田んぼでとれる米の量など。
この田んぼでとれる米の量を聞いて驚いた。
なんとその田植えした水田では200キロの米が取れるという。
さて、どれぐらいの米かを考えた。
1日1合食べたとして、1合は180グラムでと計算すると、人間は年間に60キロぐらいの米を食べる。
何と、自分の体重と同じぐらいの米を食べるのだ。
冷静に考えれば当たり前だが、こうやって実際の重量で目の当たりにするとすごい。
食べるものの重量と自分の体重を比較する。
そして、それが自分の体重と同じぐらいなのだ。
米だけで考えても、僕の体(全ての肉体)は米と入れ替わっている。
僕の体は食べ物によって常に入れ替わっていることを実感した。
自分の体は食べ物でできているんだと、改めて強く感じた。
そして、その体を作っている米に感謝した。
そして土ってありがたいな。と改めて思った。
僕が生きることを支える米を作るのが土なのだから。
植村直己物語をやっと見た。
やっとという表現が、本当にしっくりくる。
何年も前に映画化されたものを。
彼の生きることに対する姿勢に、本当に心から敬愛している。
そんな映画の中でのワンシーン。
彼がどんなことがあろうと譲れない、その気持ち。
彼がこの信念を破ったら、生きていないことと同じなんだろうと思う。
「みせもんなんかじゃない、
人間が自然と戦って、
どこまで耐えられるか、その限界に挑むことなんだよ。
知恵と体力を振り絞って、
生きることへの限界を試すことなんだよ。金使って近代的装備の助けを借りることがいけないって言うんだったら、
登山だって同じじゃないか。
近代的装備と集団の力さえあれば、今は登れない山なんてないよ。でもそういう登山は、人間を歯車にしちまうんだよ。
俺が感じたいのは、たった一つのこの体。
たった一つのこの頭なんだよ。
生きる最小単位としての俺自身なんだよ。」
2008年3月5日
先日、渋谷にある「ゆうじ」というホルモン焼きの店に行きました。
まあ、おいしかったです。
それよりも、店内の煙がすごかったです。
煙いです。
前が見えないぐらい煙たいです。
目が赤くなり、涙を流していました。
一回行くと面白いと思う店です。
翌朝起きると、体がだるかったです。
あ、煙をたくさん吸ったからだな、と分かりました。
煙を吸うと体がだるくなる。ということを知りました。
極端な経験をしないと、いろいろなことの影響がわからない性格です。
タバコ吸う人はダルイのかな。
まあ、いいや。
今回はちょっと変な文体です。
えへ。