月別アーカイブ: 2015年9月

あるひとつの悲劇

自動バックアップエラーが2回表示された。
昨夜と今朝。

あれれ、と思いながら土日に外付けハードディスクでもチェックしようかなと思っていた矢先の事だった。

夜、パソコンを付けた。
そして、アマゾンで買ったMP3プレイヤーを接続して音楽を入れようとした。もちろん来週に迫った信越五岳トレイルランニングレースのために。一人で20時間も走っていると暇だし眠たくなるので、音楽が必要なのだ。まあ、この話はさておき。

MP3プレイヤーを接続して、フォルダに音楽を移そうとしたら、外付けHDDが認識していない。。。。あれ、おかしいぞ。

昨夜と今朝のバックアップエラーの文言が脳裏をよぎる。

パソコンを再起動する。ダメだ。
コンセントを確認したり、電源を確認したり。繰り返すこと2度3度。

かろうじて、外付けHDDが動いている。
そして、「フォルダの中身を認識できません、早めのバックアップをしてください。」

こんなアラートと、共にファイルの中身が見れた。
この中には過去15年ぐらい撮りためた写真が全て入っている。一部はpicasaに上がっているが、自分の脳よりも鮮明で色鮮やかな場の記憶が残っている。そして、その鮮明な記憶はトリガーとなり、自分の脳の中により豊かな臨場感のある記憶を蘇らせてくれる。

そんな大切なものが消えれしまうなんて。google photosで早く自動バックアップを終わらせたいが、なぜだか最近調子が悪くて35万枚ぐらいアップロードされないままだし。

あるひとつの悲劇が目の前で起ころうとしている。
その日の前に。

早く新しい外付けHDDを買って、バックアップをするぞー!おー!

責任をとるってナンダロウ

「責任を取るから大丈夫」

こういう言葉を聞くことは、多々ある。
曖昧だよなー。この責任って。

簡単に「責任を取るから大丈夫」っていう人ほど、この言葉を軽く使う傾向にある。それは、責任というものを突き詰めて考えるとなにか不明確で、相手がどのように捉えるかが分からない。すなわち、聞いた相手にとっての責任がすごことを想定しているかもしれない。それにもかかわらず、曖昧な「責任を取るから大丈夫」というってことは、責任とは何かを具体的に考えていない証拠。

そんなことを、ふと考えた。まあ、責任を取るっていうのは、周囲に対しての覚悟を示す言葉という風に単純に捉えるのもありな気がする。けど、責任を取るって言ったけど、この人はいったい何を指して責任を取ると言っているのだろうと。選択肢として、何があるかを考えてみる。

・責任を取るって言葉を言うことが、責任を取る行為だと思っている

・起こった問題を最後まで主体的に対策を打ち解決すること

・お金を払うこと

・職位を辞すること

・何らかの評価が悪くなること(社会的評判や人事上の評価や給与等も)

・法の裁きを受けること

・自害すること

・誠心誠意、謝罪すること

・金銭的、時間的、精神的な損失をすべて補填し、もともとやるはずだったことを成し遂げること

でも、どれも正しくてどれも腑に落ちない。うーん、難しい。まあ、責任なんて取らずに、気楽に生きている方が楽しいかもしれないが、責任を取ると腹をくくって勝負するほうが喜びが大きいのだろうとも思う。

飽きてきたところで、新たな施策を投入できるかが勝負の分かれ道

以前にも書いているのだが、何にせよ長い間継続してやってくると飽きる。
その期間の差こそあれ、大体の人が飽きてくる。

これは、人間の脳が学習し、頭を使わなくてよくなり、惰性でできるようになるからである。逆に、この能力があるからこそ、人間は物事の処理が早くなる。なんでかって、無意識下での処理能力が、より高度な思考を実現するから。

まあ、その一つの例として、オンライン英会話も5ヶ月ぐらい続いている。まあ、飽きてきた。講師として登録しているすべての国の人とコミュニケーションをとったためだ。このままやり方を変えずにやると、苦痛になる。我慢して努力して続けることになって、それだと面白くないし、脳が積極的じゃないので学習速度も遅くなる。

ココラで一発、ゲーム性をもたせたり、仲間と一緒にやったり、目標を持つといった新たなスパイスが必要だ。

例えば、日本語が話せない人とのフェイス・トゥ・フェイスでの会話機会を作るとか、non nativeなonline 英会話じゃなくて、ENglish native personとのオンライン英会話に変えるとかまあ、そのあたり工夫してみよう。ということで、9月にTOEICを受けてみることにした。わかりやすい数値目標になるからだ。

仕組みとか、ゴール設定とかで、自分の脳をだます戦略。これ、生きていく上での重要なノウハウ。

別にTOEICは何点でもいいのだが、今回の点数を基準にしてさらに勉強を継続したら、次回何点とれるかといゲームをしようかという考え。

確か10年以上前に一回だけ受けていて、その時730だかそれぐらいだった記憶。上がってんのか?下がってんのか?そもそも、テスト中に集中力が続くのかとか、どんな問題が出るかも見てないとか、別の問題もありつつ、9/13のテストが少し楽しみだ。

無意識の処理能力が脳の回転速度を決定する

マンネリ化したところで、いかに姿勢を正すか

太り気味だと気づいた時でも、体重計に乗れるか

仲間とナイトトレイルの楽しさを味わい、連続2回目は全く面白くないことが示す人間という生き物

闇に包まれた山の中を、
ヘッドライトの明かりを頼りに、ただ走る。

ああ、最高だ。
この心が解き放たれるような、喜び。

疲れないレベルで勝手知ったるトレイルを走る。
ルートの不安も、仲間と一緒で闇の不安もない。

疲れないスピードで夜のトレイルを走っていると、
ああ、山を走るって楽しいなと心の底から思った。

タクジさんの弟のリュウタさんと焼岳も一緒に行ったオカピさんと3人で高尾山口から陣場山の往復ナイトトレラン。信越に出るため、最後の調整として2往復しようと走り始めた。18時ちょい前にスタートしたのもあって、夜の高尾山は人もすくない。高尾山の頂上につき、ヘッドライトを出してナイトトレイルが始まる。

ふくろう、ムササビ、たぬき、サワガニなんかにも出会うトレイルは夜ならでは。陣馬まで3時間程度。湿気がすごくて、汗がダラダラ。水分も1,3リットルぐらい持っていったが、どんどん飲んで帰りはセーブするぐらい。ナイトトレイルを走る人たちが2組ほどいたりした。

高尾山までの戻りは、快適だ。基本的に下り基調だし、どこまででもこのスピードなら走れそうってぐらい心地よい。シングルトラックを走り、少しテクニカルなところで、ジャンプして、ああ、最高って。

高尾山まで戻って、缶ジュースを飲む。冷たくて最高にうまい。3人で話した結果、1往復で終わりに。高尾にあるフロッピーへ。温泉に浸かり、俺だけ仮眠室で寝て、翌朝も走ることに。せっかくここまで来たし、信越前にこの週末は50キロぐらい走っておきたかったから。そういえば、10年弱使っていたiPodを落として、なくしてしまった。残念だが、見つからなかった。

翌朝目を覚まし、一人で高尾山口へ。なんだか、テンションが上がらない。眠たいからか、少しの疲労からか。登っていく。走る気にならず、高尾山まではほぼ歩き。進む気にならず、頂上で睡眠。そして、なんとか動き出したけど、一丁平へ行きおにぎりを食べて戻ってきた。ベスパを飲んで気合入れようとしたけど、これも失敗に終わり下山。

それにしても、なぜ同じことを繰り返すと飽きるのか。全く同じ道を2回走ることのつまらなさ。これが脳なんだろうと思う。届きそうで届かないことにチャレンジする喜びってのが大きいが、できることを分かっているのに、ただ練習のためとなるとテンションが上がらない。

一方で、新しいことにチャレンジすることが好きでない人もいる。同じ所、同じことを繰り返すことを好む人。それのほうが、ハズレがないし、安心だからと。

これらの違いは、思考回路とか、価値観の違い。

前者の人たちは、こんな人達で、俺の周りに多く似たもの同士。

「夢の次は、また新しい夢だった。」

そんなことを、いろいろな表現でいろいろな人が、同じことを言っている。

夢、そして次なる夢

これって、同じ人種の人達の証拠。同じ思考回路を持った人々。

一方で、同じリゾートに繰り返し生き続ける人とかは、ハズレくじが嫌いな人で、安全・安心第一。どっちが言い悪いではなく、これはもう性格の問題だ。

まあ、精神修行という意味では2週コースにあえてする理由があるが、型が行動を規定するといつも書いているが、1週50キロのルートを選ぶとすんなり50キロ走りやすい。何が何でも50キロ走るしかないので、自然と気持ちがそうなるから。

送信者 いろいろ

型は行動を規定する

型が行動を規定する。数字が行動を規定する。

美しいは、素晴らしい

なぜ「美しい」ものは「最高のもの」であるのだろう。
それは、美しいから最高であるわけではなくて、美しく見えた物が結果的に最高であるのだ。
最高という定義も難しいが、例えば、最も効率的で、負荷が少なく、速いとか。

美しいとは何かとか、
美しさが先か、最高が先か、鶏が先か卵が先かのようなトートロジー。

ただ、これだけは事実な気がする。

美しいは、素晴らしい。
リズミカルは、素晴らしい。

スイムやラン、クライミングのフォーム。
美しいと思ったフォームは、無駄がなく効率がよく、安定していて、体への負担が少なくて、かつ速い。

太っている人がドタドタ走るのと、ウサイン・ボルトが走る姿。
この二人を知らない人が見ても、ウサイン・ボルトが美しいという気がする。
まあ、無駄にブレがなく、効率的であるってのは分かるが、それ以上に美しさの理由がないのか。

でも、そもそも、なぜ無駄がなく早いフォームを美しいと直感で感じるのか。なぜ脳はそうプログラムされているのか。

美しいとはバランスがとれていることだと昔に書いた。
じゃあバランスってなんだ。
そもそも、バランスがいいってのが美しいと定義しても、バランスの良さを証明するのが困難である。

リズムが良いってのも、美しいと同じで、無条件に素晴らしく、最高のものだ。
なんだか大学生の時に考えていたことが気になった、久しぶりに残暑の日。

うーん、美しく走ることを意識して、体の負荷を減らし、なんとか信越五岳を完走したいなーというイメトレから、こんなことを考えてた。