日別アーカイブ: 2015/9/27 日曜日

職業としての小説家ではないが、趣味としての小説家になってみたい

村上春樹『職業としての小説家』

村上春樹さんとの出会いは、走り始めた頃に、「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んで感銘を受けたことだ。普通は小説から入ることが多いかもしれないが、僕は走ることについて語ったエッセイが出会いの一冊だった。走ることにハマり始めたタイミングということもあって、村上さんが走ることに対する思いや理由、そして走っている時に感じる感情の機微を、細かに表現されていて、強く共感したことを覚えている。その後、いくつかの小説やエッセイを続けて読んだ。が、僕の中で「走ることについて語るときに僕の語ること」を超える作品はなかった。

数年、村上さんの作品を読んでいなかったが、ずっと気になる存在であることは変わりなく、新作が出ると気になっていた。

2,3ヶ月ほど前、クリエイティブライティングでお世話になった新井さんと食事をしていると、社運をかけて村上春樹さんの「職業としての小説家」という本を作り上げた。と話してくれた。本や雑誌不況の中、新井さんはSWITCH、coyoteの編集長をし、MONKEYという雑誌もSWITCH PUBLISHINGから出している。単行本も毎年いくつか。20年前のように雑誌が売れる時代でもないし、広告もつきにくい。coyoteも一回休刊している。しかし、新井さんの思いが復刊へと導いたほど。

そんな時代背景の中、村上春樹さんの本を出すという。出版業界の中では、村上春樹さんは大御所で前払い制というのはよく知られているし、普通の作家よりも取り分が多いというのは周知の事実。ただ、そんな目先のお金のことよりも、新井さんは村上春樹さんの「職業としての小説家」を世に出したかったのだろう。もっと私的な視点で言えば、新井さんが小説家としての村上さんの考えを聞いてみたかった、知りたかったということなのかもしれない。

新井さんと話しながら、新井さんの編集者、インタビュアーとしての強い思いを感じたのだった。出た際には、すぐに買って読もうと思っていた。

しばらくして、茂木さんが、職業としての小説家を献本されて、非常に良いとFacebookに書いていた。あまり、この本が良いと書く人でもないので、本当にいい本だと思ったのだろう。茂木さんもしばらく前から、小説を書きたいと話していたから、ちょうどこの本が刺さったのかもしれない。

販売初日に本屋へ買いに行ったら、帯に柴田元幸さんのコメントが。ムーンパレスなど大好きな小説の翻訳者だ。ああ、揃った。これだけ、好きな人が揃う本ってないなと。

さっそく、楽しく読ませてもらった。

改めて思うのが、村上春樹さんの世界の捉え方が好きだ。この世界をどのように見ているか、どのように解釈しているか、そしてどのようなスタンスをとるか。自分の価値観、考えに基づいて独立しており、でも世界の強い部分も弱い部分も含めて、等しく捉えてやさしく包み込む。いがみ合うのではなく、妬み合うのではなく、正々堂々と前を向いて生きていこうじゃないか。そのためにも、そして口だけじゃなく、自らを律している姿勢がなんとも清々しい。

だいたいにおいて、人をの好き嫌いは世界の捉え方、そしてそれを踏まえてどう行動しているか。これが、素敵な人や共感できる人を好きになるんだなと、この本を読んでいて思った。

そして、僕は小説家ではないが、小説を書いてみたいと思い始めた。本を3分の2ほど読んだ頃、ふと小説というスタイルで表現してみたいと突然ふってきたのだ。

どんなことであろうと、なかなか考えていることが伝わらない。仕事でも趣味でも、プライベートでも、これは、誰しもそうで、永遠に自分の思いは伝わらないものだ。そんなことは、分かっている。具体的な例や喩え話をつかって伝わりやすくする。手段としては正しいが、これでも伝わらない。何をしても伝わらないのは分かっているが、僕の表現のような説明的な文章だけではなく、ストーリーや世界観を醸成したうえで、メッセージを伝える小説的なアプローチも試してみたいな。そう思ったのだ。

もちろん、絵やスポーツ、音楽も同様にアプローチのひとつではあるが、この本を読んで小説というものを書きたくなった。

ドッグイヤーを無数につけたので、気になった文章を引用しきれない。。。ということで、ぱっと開いたページの言葉

P42

しかし、理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニー(epiphany)という言葉があります。日本語に訳せば「本質の突然の顕現「直感的な真実把握」というようなむずかしいことになります。平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによって物事の様相がいっぺんしてしまう」という感じです。

P98

これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。もしあなたが何かを自分にとって重要だと思える行為に従事していて、もしそこに自然発生的な楽しさや喜びを見出すことができなければ、それをやりながら胸がわくわくしてこなければ、そこには何か間違ったもの、不調和なものがあるということになりそうです。そういうときはもう一度最初に戻って、楽しさを邪魔している余分な部品、不自然な要素を、かたっぱしから放り出していかなくてはなりません。

P141

長い仕事をするときには、規則性が大切な意味を持ってくるからです。かけるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません、だからタイムカードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。

P187

僕は生きて成長していく過程の中で、試行錯誤を重ねつつ、僕自身のやり方をなんとか見つけていきました。

P238

だからこそ僕は、いろんなサイズの自分のものではない靴に自分の足を入れ、それによって、今個々にある自分を総合的に検証していることになるのかもしれません。

P285

現実社会のリアリティーと物語のリアリティーは、人の魂の中で(あるいは無意識の中で)避けがたく通底しているものなのです。どのような時代に会っても、大きな事件が起こって社会のリアリティーが大きくシフトするとき、それは物語のリアリティーのシフトを、いわば裏打ちのように要求します。
物語というのはもともと現実のメタファーとして存在するものですし、人々は変動する周囲の現実のシステムに追いつくために、あるいはそこから振り落とされないために、自らの内なる場所に据えるべき新たな物語=新たなメタファー・システムを必要とします。その2つのシステムを上手く連結させることによって、言い換えるなら主観世界と客観世界を行き来させ、相互にアジャストさせることによって、人々は不確かな現実をなんとか受容し、正気を保っていくことができるのです。

P304

ちなみに僕の場合の「悪魔祓い」は走ることです。かれこれ三十年ほど走り続けているんですが、毎日外に出て走ることで、僕は小説を書くことで絡みついてくる「負の気配」をふるい落としているような気がします。

P304

僕らが会って話をして、でも何を話したかほとんど覚えてないと、さっき申し上げたわけですが、実を言えば、それは本当はどうでもいいことなんじゃないかと思っているんです。そこにあったいちばん大事なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。我々は何を共有していたか?ひとことで言えば、おそらく物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。