月別アーカイブ: 2015年9月

信越五岳トレイルに出るようだ

さてと、1年半振りのロングレース。いや、レース自体も1年半振り。

前回のレースは2014年の4月に宮古島トライアスロンとUTMFを連続で走った。それ以来となる。この2年はあまり走っていなかったし、完走できるかなというところだが、久々のレースは楽しみだ。信越は4,5年ぶりの2回め。

悪戦苦闘しながら、なんとかゴールを目指すことになるんだろうなと、困難な状況をイメージすると、それをどうやって乗り越えるか考えるだけでワクワクしてくる。まあ、はじめて100マイルを走った時やはじめての海外レースのような興奮はないが、ブランク明けのレースというドキドキ感はある。

この信越は弘樹さんプロデュースだし、ハラペコ登山隊仲間もたくさん出るし、昔からのトレラン仲間も出るので、会えるのも楽しみだ。
あくまで遊び(趣味)なんで、最大限エンジョイしてこようと思う。

TranscendのMP350というMP3プレイヤーを買った。amazonで送料込みで3000円ぐらいと安い。iPod買おうとしたが、圧倒的にこっちのほうが安いし、まあ音楽が便利に聴ければいい。さらに、防水だしクリップついてて走るのには便利。ただ、PCがマックで今までiTunesと連動していたのが、それができず不便。

まあ、不便だからこそ、改めてこれに音楽を突っ込んでいると、ワクワクする。音楽を聞くと、思い出す山の風景がある。この音楽は、辛い時に聞いたな。あのヨーロッパアルプスの壮大な風景を、UTMFで眠たくて眠たくてしかたなかった俺を目覚めさせてくらた曲とか。懐かしの10年前に、岐阜まで歩いて帰った時に元気づけられた曲とか。

あー、テンションが上がってきた。

ここでレース速報が見れるはず。

http://www.tokotoko.jp/trail/sfmt100/

ゼッケン:216
A131

送信者 sports

文字が文字である必要がなくなる日

TOEICで鉛筆かシャープペン、そして消しゴムが必要になり、探してみた。
すると、見つからない。

やっとこさ見つかったのは、10年以上前にスタンフォード大学で買ったシャープペン。グリップのゴムがネチョネチョするぐらい、使っていなかったようだ。

そうか、文字を書いて消すということがなくなった。おそらく10年以上は書いて消してという作業をほぼしていない。

あるとすれば、ホワイトボードぐらい。あとは、旅に出た時はボールペンで日記をつけるが、それ以外はすべてキーボードによるタイピングだ。

タイピング95%、ボールペン2%、ホワイトボード2%、その他(鉛筆・筆ペンなど)1%ぐらいか。直感的で、エビデンスがあるわけではない。

そっか、あたりまえだけど鉛筆で字を書かなくなったなと思う。それをきっかけにいろいろ考えていたら、文字が文字である必要がないのではないかと思えてきた。

本→新聞→雑誌→テレビ→漫画→アニメ
ホームページ→ブログ→2ch→SNS→twitter→LINEのスタンプ→vineなどの動画

テキストコミュニケーションはなくなりはしないが、よりテキスト量は減り、絵や動画のような非文字情報が増えていっている。それは、主に雰囲気や感情を伝える場合に多用される気もする。多分この流れは継続するはず。そう考えると面白いもんで、人間が文字を発明する前は、壁に絵を書いて記録していた。それが再び複雑な文字を経て、絵に回帰しようとしているのだろうか。もともと、絵だと直感的に言葉がなくても伝わるから、古代の人は絵を描き、記録した。しかし、人間が絵を描くのに時間がかかるし効率が悪い、人によって絵の上手い下手もあるだろうから誤解の可能性もある。ということで、簡易的な文字が生まれたと推測される。文字は、上手い下手はあるが、指し示すものは特定のものに限るので、誤認のリスクも減ると。

ただ、再び文字から絵に回帰しているのは、デジタルの世界が発展し、絵を人が描かなくてもキリンと入れれば動物のキリンの絵が変換されて出る時代だから。で、なんで、同じキリンを示すのに、絵が使われるか。より多くの情報を絵が持っているからだろう。キリンにしても、大人のキリンか子供のキリンかは「キリン」だけでは分からないが、絵なら1発で分かる。走っているキリン、何かを食べているキリン、それも1つの絵で完結する。さらに、キリンは1つの動物をさすが、イメージするものがずれるリスクが有る。絵を示せば、イメージがずれるリスクが減る。こんな理由ぐらいか?あとは、絵の方がかわいいとか、絵の方が言いづらいことでも言いやすいとかかな。

まあ、白川静先生の本を読むと、この辺りも書いてあるのかな。買って読んでない本でも読んでみよう。

で、話を本題に戻す。手で文字を書かなくなったということは、今のような文字でなくてもいいと思うのだ。あれは、手で鉛筆や筆で書くのに適している文字。筆で書く文字のスタイルと鉛筆で書く文字は、同じ漢字などの文字でもスタイルが違う。行書体とか楷書体とか。英語もブロック体と筆記体とか。

ということは、これだけキーボードでタイピングする時代になったのであれば、今の文字というものがぜんぜん違うスタイル(形)になってもいいのではないか。

すでに、ビールと入れれば、LINEなどはジョッキビールのイラストやスタンプが出るが、これがもっともっと進化すれば、文字コミュニケーション(聞くのではなく、見るコミュニケーション)における、文字の形は変わってもいい。

あくまで、手で書くのに適したスタイル(形)が今の文字であっただけなので。それは、絵文字かもしれないし、もっと情報量の多い新しい文字かもしれない。新しい文字(現在の文字に取って代わるサイン)が発明される日も、実はそう遠くないのかなと思う。

TOEICを受けてみて

なんでも振り返りが必要だ。
ということで、今日TOEICを受けた。

12:30までに受付を済ませるということだった。思ったより遅めのスタート。場所は北千住駅から15分ぐらいの帝京平成大学千住キャンパスの7号館。家から歩いて20分ちょいぐらいかな。もちろん歩き。

で、コンビニでシャープペンと消しゴムを買っていく。写真を貼るようにノリも買ったが、やはり会場に置いてあった。まずは、受験番号とか名前をマークシートに記入。それから説明とか受けるが、基本暇。

テストが始まったら、リスニング、リーディングが続けて2時間。休憩なし。

あえて、今の実力を見るために過去問とか参考書は一切見ていなかったので、どんな問題が出るか分からず、戸惑ったりした。まあ、これは当初の予想通り。

分かったのは、TOEICは考えちゃいけない。バッティングセンターのように、考えず来た珠をひたすら打ち返す。そうしないと、次から次へとリスニングが流れていく。

ちょっとトリッキーかなという回答もいくつかあったけど、それはサクッと忘れるのがポイント。そして、受験勉強のせいか、ついつい時間とか金額とかそういったものを注意して聞いてしまう。その辺りが質問されそうで。ただ、あまりそれらを聞く質問は少なく、理由を聞いたり、おかれている状況を答えたりする質問が多かった。数字系に気を取られて、そっちばっかり頑張って覚えているとほかがおろそかになるので注意。

まあ、そんな感じかな。10年以上前に受けた時は730ぐらいだったはずだが、今回はそれより悪い気がする。一方で、当時よりも英語で会話していても、今のほうが聞き取れてるし、話せるし、リーディングも、facebookのタイムラインは半分ぐらい英語で毎日ニュース見てるから、トータルではスキルが上がっていると思っていたのだが。

で、なぜTEICができなかったか考えてみた。まあ、何点かは1か月後ぐらいしか分かんないので、どれぐらいの点か分からないのに悪いと決め付けるのも、微妙なんだが。

・フィリピン人の発音とのちがい

オンライン英会話は、フィリピン人が半分、セルビア人2割、ボスニア・ヘルツェゴビナ1割、残り2割は各国。そんなイメージ。各国はボツワナ、ナイジェリア、ブルキナファソ、ギリシャ、ルーマニア、ドミニカ、ジャマイカなどなど。ということで、ネイティブではないブロークンイングリッシュなのだ。発音もネイティブとはやはり違う。

まあ、non English native人口のほうが多いので、別に気にはしていないのだが、English nativeの発音もすらすら聞けたほうがいいなーとは思う。TEDとかかな。

・問題のパターン、矢継ぎ早にくるリズムに慣れていない

これは慣れ。大学受験にしろ、過去問をやればパターンに慣れる。点数とりたかったら、それように勉強しろと。ただ、ただ点数がとりたいわけではないので、次回受けるにしても専用の勉強はしない気がする。

・集中力
特にリスニング。45分ぐらい、次から次へと問題が読まれていく。どんどん頭を切り替えて、回答しないといけない。この集中力が続かない。もともと、自分一人で考えたり、一人で作業するときは集中できるが、誰かの話を一方的に聞くのが続かない。。。学校の授業も聞いているだけだと、どうしてもダメだった。これは、仕方ないので、いったんスルー。

・語彙力はそこまで問題ない
正直語彙力はそこまで問題にならなかった。全体で知らない単語は5個ぐらいかな。まあ、文章の中で類推できる。

・文法は少しやるべき
もともと文法が苦手。日本語も。たぶん、文法とか、スペルとかなんてどうでもいいと思っている性格。これは幼少期から。それが出ている。ただ、より適切に伝えたり、ビジネスシーンで信頼を得るにはしっかりした文法が必要かなとは思う。ちょっと復習してもいいかなって思った。

で、なんだかんだ書いたが、ここ。

English nativeがTOEIC受ければ、おそらくやる気なくても、事前に問題パターン知らなくても900点を下回ることはない。(満点990)ということは、上記の言い訳抜きにして、普通にコミュニケーションできるレベルに達していれば、900点は取れるだろうと。極論、目指すところは、まあ、てきとーに受けて900点取れるぐらいのコミュニケーション能力。

TOEICはスピーキングもライティングもないから、英語の能力を測るのに適してないという人もいるが、TOEICためだけに勉強して点をとっているとコミュニケーション能力を適切に評価できないが、対策せずにパッと受けに行った場合は、それなりにコミュニケーションスキルを適切に評価できる試験な気がする。

そもそも、オンライン英会話始めた理由ってなんだっけw目的は?ゴールは?って、毎朝30分ぐらいグダグダしてるくらいなら、なんかやろうかな。家で気軽にできる。うーん、プログラムは学びたいが性に合わないのを知っているし、もう少し長い時間を取りたい。手軽なのは英語かなー。そういえば、アウトドアにしろ旅にしろ、趣味で英語が必要なんだよなー。前の仕事でも、アメリカ人に伝えるの苦労したなー。毎日、知らない国の人と話して、その国のことを知れたら楽しそう。まあ、肩肘はるより、このスタンスで、楽しみながらまずは1年やってみようと思ってる。

僕らは記憶を見て生きてきた

見えないものを、見えると思い込んでいた。
明るい世界から、真っ暗な闇の世界へ。
特に、見えるとか見えないとか意識することなく、その明暗の異なる世界を行き来する。

真っ暗な闇の世界は本来見えないはずだ。
でも、見えると思い込んでいた。

見えないのに見えると思い込んでいるということは、何かしらを見ていたわけだとも考えられる。
その何かしらとは、記憶だと思う。

おそらく15年だか20年ぐらい、真っ暗にしてお風呂に入っている。
湯船に浸かる身体・精神へのプラス影響とか、1日一回真っ暗な空間で視覚を閉ざし、無になることのメリットは計り知れないと思っているのだが、いつも書いていることだから、今回はさておき。

真っ暗な風呂の中で何も見えないはずなのに、見えていると思い込んでいたのは、記憶を見ていたことにほかならない。

そうか、人間は今を見ていると思っているけれど、日常生活でも半分ぐらいは記憶を見ているんじゃないかと。特に日常のよく見る風景は、目の前の出来事をほぼ見ていなくて、記憶を見ている。だからこそ、歩きスマホができたりする。記憶の地図(空間地図)を頼りに自動車や人だけを見ている。過去の地図と今の人や車の動きを重ねあわせてみているから、実質的に視覚および視覚に伴う脳の利用率は低くなる。本来なら空間を見ていた視覚とそれに伴う脳はスマホに使われている。

ついでに、初めて訪れる場所や景色に興奮する。南の島の少年が雪を見る。山奥に住んでいた少女が海を見る。砂漠を見る、ジャングルを見る。新しい刺激を脳が受ける。その瞬間は記憶の映像や空間記憶が全くない世界だから興奮する。ただ、似たような景色であれば、過去の類似イメージ記憶が想起され、衝撃だとか刺激は少ない。

ああ、僕らは記憶を見て生きていて、今を生きているということには変わりないんだけれど、同時に過去も生きているんだなって思った。そんなことを風呂に浸かりながら考えていた。

http://teratown.com/blog/2015/06/28/見えない世界を見る/

あれから何年目かの911

911という、365分の1。

2003年のこの日、911を意識したことを鮮明に覚えている。あの日から2年後のこと。僕は一人で旅をしていて、船でモロッコに入国した日だった。それは、あからさまに不自然な入国審査を目の当たりにしたからだった。

それ以降は、9月11日だなと思い、こんな風にどこで何をしていたかを毎年メモをして十数年の時を経た。そして今日、10年ぶりに911を再び考える日になった。

タクジさんに誘ってもらって、「百年愚行」の展示記念のトークイベント。
池澤夏樹さん。

かれこれ、池澤夏樹さんは10年ぐらい本を読ませてもらっている。星野道夫さんに興味を持ち、池澤夏樹さんに流れ着いた。そして、新井敏記さんに。巡り巡っている。

池澤夏樹さんの思想の拠り所というか、何をもっとも考えの根底の軸としているか、思想の偏りがどうかという話は、好き嫌いが人によってあるのだろう。ただ、どんな考え方をしているにせよ、歴史や文学などを知り、それを元にした深い洞察があるということには変わらないと思う。どんな思想であろうとも、その軸、スタンスをぶらさない姿、そして自己否定を含めて自問自答し続ける姿勢。

直接、話を聞くのは2回めだったが、やはりその思考の広さと深さ、そしてそれがあるからこその視点が僕には、とても新鮮で、考える切っ掛けをあたえてもらったし、なんだかすぐには消化しきれないモヤモヤが残っている。

知識を得、行動をし、考え尽くす。それを繰り返し、繰り返し、自己の中で反芻した結果、生み出された言葉。決して、難しい言葉ではないが、そこには繰り返された結晶としての言葉だったような気がする。

国公立大学の人文系を廃止するという話しから。

人文、理工について。
人文は全体観を捉える人&ちょっと突飛な発想をする人。理工は論理で考える人。どちらか一方では物足りない。アンバランス。両者がいるからこそ、世界はうまく成り立つということ。どんどん日本の人々は組織やエスタブリッシュメントに飼い慣らされていく。そして、大学もその流れに侵される。でも本来大学とは、いかに突飛な発想を提供できるかが価値だと。その発想をする人文はやっぱり必要だと。

メディアが抑圧される。それは、政治という面もあるかもしれないが、内部の人たちの妄想による自己抑制も。

SNSなどのソーシャルメディアは感情を発するメディアで、新聞などはすぐに発言できないからこそ理性や思考を伴うメディアになりやすい。

イラクに行った。現地の人が本当に優しかった、いい人だったから、一人反戦運動をした。

人間は愚かだし、知性がある。両方を兼ね備えているが、愚かな部分も永遠につづく。それが人間で、愚かさを含めて世界を考えなければならない。愚かであるのが当たり前だし、歴史を見ても人間は永遠に愚かなのだ。単純に徳を積むことがいいことなのか。それは、本当の姿なのか。

人間の知性は総和では変わらないかもしれない。サイエンスは、積み上げられる。が、人の感情や行動は積み上がらないということ。
ただ、絶対犯してはならない、重大なミスはやらない程度の知性は必要。そこまで愚かになってはいけない。

世界がより良く慣ればと考える。なってほしいが、現実は何もできない。それでもなお、考え続ける、悩み続けることが唯一の道だと思う・

いろいろな地域に住んで、そこから見た日本。

2001/09/11 岐阜 (岐阜在住)
2002/09/11 千葉の岩井海岸 (横浜在住)
2003/09/11 モロッコ タンジェ(横浜在住)
2004/09/11 インド ブッダガヤ (西日暮里在住)
2005/09/11 ボリビア コパカバーナ (西日暮里在住)
2006/09/11 新潟 越後つまりトリエンナーレ→東京 (巣鴨在住)
2007/09/11 東京 巣鴨 (巣鴨在住)
2008/09/11 東京 (阿佐ヶ谷在住)
2009/09/11 東京→沖縄 (阿佐ヶ谷在住)
2010/09/11 千葉県 御宿 オープンウォタースイム大会(阿佐ヶ谷在住)
2011/09/11 岐阜県・恵那でクリエイティブライティングの仲間とキャンプ(阿佐ヶ谷在住)
2012/09/11 東京 (阿佐ヶ谷在住) 数日前までは3週間ほどフランスとスイス
2013/09/11 東京:お台場(阿佐ヶ谷在住) ホテル日航東京で宿泊で研修
2014/09/11 東京(北千住在住) 特になにもない日常
2015/09/11 東京(北千住在住) 去年とは仕事が変わった。そして、タクジさんに誘われ池澤夏樹さんの話を聞いた夜