日別アーカイブ: 2011/3/13 日曜日

こんな所では死ねないという強い衝動

東北地方太平洋沖地震は史上最大規模で宮城では震度7を記録し、大きな被害をもたらした。
なんとマグニチュード9という。
東京でも震度5強と大きな揺れ。

東北で被害をあわれた方が一刻も早く通常の生活に戻れることを願う。
まだ生存の可能性がある。救助されていない方が一刻も早く助かることを祈るのみ。
次なる災害も出来るだけ少なくなる様に、冷静で迅速な判断を自らも、そして全ての人がとれればと思う。

地震が起こったとき僕は東京駅に繋がるビルの34階にいた。
40階以上の高層ビルであるため、強い揺れを感じた。
最初は縦揺れ、その後に大きな横揺れ。
縦揺れはこれが、縦揺れかと初めて体感した。
下から突き上げられる揺れ。

最初は、小さな地震かと思ったが、揺れが大きくなり止まらなかった。
これは大きな地震だ。まずいと感じた。

その瞬間にこんなビルでは絶対に死ねないと強く思った。
最初は机の下に隠れ、すぐに冷静になった。

このビルから逃げ出さなければならない。
階段が混む前に、降りようと判断した。
毎日非常階段を上り下りしてトレーニングしているので、非常階段の位置などは把握している。
そして、いつもスニーカーなのでこういった時は逃げやすい。
ビルのアナウンスは、「このビルは通常のビルよりもしっかりした耐震構造なので安全です。」という放送がリピートするだけ。
緊急時に、あまりにも使えないアナウンス。
避難方法などの指示もなし。

自己判断しないといけないと思い、どこが避難場所として良いかと考える。
周りの人は大丈夫だよという人もいたが、こういった自然をなめてはいけない。
のんきなコトを言っていると、人間なんてすぐに死ぬ。
ビルが崩れるリスクもあると考えた。
お台場あたりで黒煙がもくもくと上がっていたのをみて、このビルでも火災が起きてもおかしくないと感じた。

階段はまだ走り降りれたので、ダッシュした。
その途中で余震が来た。
怖くて座り込む人がいた。
でも、座り込んでも安全にならないので、俺は降り続けた。

ビルの外に出て、出来るだけ高層ビルから離れようと思った。
ダッシュで皇居に向かって走った。
ビルが倒壊しても、ガラスや破片が飛んでこないであろうエリアまでひたすら逃げた。

ドコモは通じなかった。
ウィルコムは繋がった。
ツイッターで安全をつぶやく。
実家に電話。

死んでたままるか。
絶対に生き延びてやる。

ビルはミシミシと音を立てて揺れ、本が崩れ落ちる。ブラインドもガタガタと音をたて、会議室の扉も閉じたり開いたり。
恐怖だった。
遠くお台場や千葉からは黒煙や大きな炎が空を赤く染めていた。

生きることへの執着心が、非常に強く現れた。
動揺しても仕方がないので、冷静に判断し行動することにつとめた。

そして、電車が止まっていたので東京駅から阿佐ヶ谷まで歩いて帰った。
都内はよく走っているので、道を分かっているので帰ることにした。
日常的に運動しているので、体力も心配がなかった。
こういった自然の威力を見せつけられた時には、日々自然の中でトレーニングしていると助かる。

水とチョコなどを買い、家へ向かう。
都心はスゴイ人で溢れかっていた。
交番には人が群がり道を聞いていた。
駅の入り口は封鎖されていた。
地図看板の前には人が群がっていた。
車も大渋滞で、まったく動いていなかった。

みな携帯で地図を見て、ツイッターでつぶやいていた。
電話は繋がらないが、ネットは見れた。
情報はツイッターとスカイプがメインになっていた。

町を歩く人は、ヘルメットをかぶっている人、緊急避難袋を背負う人がいた。
災害マップを見ながら家へ帰る人もいた。
公衆電話には列をなしていた。

町のお店は半分ぐらいがしまっていた。
冷たい風が吹いていた。
女性はストッキングを買い、スニーカーを買い求めていた。
歩きながらツイッターやニュースサイトを見ると避難所などの情報が流れていた。
情報はツイッターだけといっても良かった。

新宿付近ではビルの窓ガラスが割れていた。
ビルの真横を歩くのはガラスや看板の落下が非常に危険だと感じた。

東京は完全に機能が麻痺して混乱していた。
こんな状態を見たのは初めてだった。

当たり前だが都会は、あまりにも自然の威力に弱い。

東京駅からずっと人の流れは途切れることなく、渋滞状態。
2時間かかって東京駅から阿佐ヶ谷に到着した。
阿佐ヶ谷の西友やイトーヨーカドーなどは店を閉じていた。

近くのコンビニで食料と水をたくさん買いだめした。
部屋の中は本が散乱したり、小物が散らかっていた。

家に帰り、映像で被害状況を見るとあまりにも悲惨だった。
火災、大津波に流される家、車。地獄のようだった。
地震による災害だけでなく、津波の怖さを改めて知った。
正直なところ、あんなにも大きな津波の被害がおこるなんて考えていなかった。
水の恐ろしさを改めて肝に銘じた。

いつでも逃げられる服装、そして食料と貴重品をカバンに入れて寝る。
枕元にスニーカーも置いた。
頭の上には落ちてくるものがないのを確認して寝た。
ただ、余震が続いて落ち着かなかった。

翌日になり、原発の問題がクローズアップされた。
高校の時にディベートを部活でやっていた。
1年間は原子力発電をテーマに議論をぶつけた。
そのために、原子力に関する県立図書館の本はほぼ読んだ。
その時に想定していた、原発事故が実際にこうして起こるとは思ってもいなかった。
当時はあくまで仮定として原発事故を話し、大きなリスクがあると話していたが、実際に起こるとは。

34階の揺れは死を強くイメージさせた。
なんとしても生きなければならないとただひたすら感じた。
現実はいつも目の前にあることを肝に銘じよう。

送信者 北岳と間ノ岳