今さら見た。
家にはテレビがないからだ。
情熱大陸「服部文章」
「山に入ったら野性的でありたい。」
「人と言う生き物として、ズルなしで生きたい。」
「最終的には自然に還りたい。」
「獲物を食べるってことは殺すこと。獲物を捕まえた喜びもあるけれど、怖いってこともある。」
「生き物として生きていくには、命を食うしかないと思っている。」
「だいたい5日から1週間ぐらいたってくると、自分が生きて存在していると言うことを自分しか知らない。
家族から見てみたら、行方不明。
山行は状況によって変わり、追っかけることはできない。
何を感じるかって言ったら、寂しいだけなんだけど。
おもしおろいっすよ。」
「生きているのがラッキーって感じ。
ありがとう。助かった。」
以下はナレーション
「同じ過酷さを動物も味わっていることが、服部にはフェアなのだ。」
「人はかつて己が食べるものを、己の力で手に入れていたのだ。」
「山は等しく人を受け入れ、等しく人を拒む。
何を好き好んでと人は言う。
命を落としかねない行為には、体験したものしか分からない快感がある。」
「生きなければ、オレが殺した鹿に申し訳ない。
そして、横浜の妻と子を思った。」
ネット上では批判もかなりされていたが、僕は肯定する。
TBSも放映したのがすばらしいと思う。
ようは、価値観の違いで意見が分かれる。
それは簡単で、人間(自分を)動物として捉えているか、文明をもつ人間として捉えるか。
前者の考え方の人は服部さんを支持するだろう。
僕は前者だ。
それにしても、鹿を捕った時の喜び。雄叫び。は本能的に沸き上がってきたものだった感じがした。
生温い世界ではなく、自然の中で生きること、命をつなぐことは、食べることに帰結する。
服部さんの言う、自分の存在を誰も知らないという高揚感と何者からも解き放たれた感情は山の中ではなくても、旅などでも同様の感情が生まれる。こういう感情を持つ性格は、やはり独りの時間を大切にするちょっぴり寂しがりやなんだろうと思う。
町から離れた場末の港には人影もまばらで、夕暮れが迫っていた。知り合いも、今夜泊まる場所もなく、何ひとつ予定をたてなかったぼくは、これから北へ行こうと南へ行こうと、サイコロを振るように今決めればよかった。今夜どこにも帰る必要がない、そして誰もぼくの居場所を知らない……それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。不安などかけらもなく、ぼくは叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった。
(『星野道夫著作集3』、一四二頁、「旅をする木」より)
旅先3日目
http://teratown.com/blog/2009/07/03/iudhaaeciaeecaeaceiieoac/
http://teratown.com/blog/2008/06/13/aeacoac/
【過去の関連リンク(服部さんの講演会など)】
http://teratown.com/blog/2009/01/27/ethoaaaeue/
http://teratown.com/blog/2006/09/04/etheoei/
重松清さんの文章
http://jounetsu.cocolog-nifty.com/plusp/2010/11/post-1617.html
送信者 ドロップ ボックス |
teratownさん、こんばんは。
自分の居場所をだれも知らないっていうのは快感だよね。
日記に出てくる2人とはレベルが違うけど、
単独で人のいない山に入った時なんか、
ここで落ちたら見つからないだろうなあ、
と思う瞬間がけっこう好き。
momomoさん
自分の居場所をだれも知らないのは快感ですよね。
あと、何もかもすべてから解き放たれている自由さ、心の広がりが好きです。
なんだか、そういった時は世界が鮮やかに見えます。