手に入りにくいものが宝ものになる。そして手に入りづらさは時によって変わる。世の中が求めるものの大きな潮流

もう10年以上の友達に会いに、先日沖縄に行った。彼とは、10年ぐらい前にイベントで同じテーブルになったのがきっかけで、その後いろんなことをしてきた。3年ほど前に沖縄に引っ越し、そして何度も会いに行っている。

二人で初めて会ったのは、新宿の思い出横丁にある居酒屋。オニオンスラシスというメニューがあった店で飲み、その7,8年後かに再び懐かしいねと、思いで横町で飲んだ記憶を思い出した。

そんな友達に会った沖縄から帰りの飛行機ではミスチルの特集が流れていた。さらに十年前に好きで聞いていた。すなわち20年前。イノセントワールドが流れる。アルバム予約して買ったなとか、プロモーションビデオを録画して見たなとか、ラジオで聞いてたなとか。カセットに録音してたなとか。それが大切で、当時は宝物だったな。と思い出す。

でも、今は思い出だけ。それらのカセットやアルバムは今は、宝物ではない。当時は永遠の宝物だと思ってだけど、宝物は変わりゆく。時を経てその事実を振り返ると、ああ、不思議だな。なんだか、人生というものを考えると、全てがいとおしくなる。

今は音楽はネットで探せば見つかる。ラジオから録音、テレビをビデオ録画、それがMDに変わり、パソコンでダウンロードしてCDに焼いたり、MP3プレイヤーが出て、iPodが出てきた、iTunesで音楽を買ったりyoutubeで聞く時代。そしてLINEmusicやapple musicなど、いつの間にかクラウドで聞く時代。いつでもどこでも手に入る。手に入るというか、所有しない時代。それは、大賛成。

でも、ありふれたものだから、大切な宝物にはなりづらい。音楽の価値が相対的に低下した。もちろん、音楽好きな人にとっては変わらないが、希少性が減り、いつでもどこでも聞けるという意味で、相対的に価値は低下した。

だからこそ、この現代社会はより不便で手に入りにくいものが、僕らの宝物になる。不可逆的な時間、今この瞬間にしかあらわれないもの、写真でも動画でも伝わりにくいもの。偶然の奇跡、自然の奇跡、人間の出会い、努力の結晶、無駄なこと、不便なこと、手で触れること、目で見ること、物語性があるもの。

体験とか、ストーリーとか、ありふれてるけど、不便で、めったに巡り会えない、めったいに手に入りにくいものが大切になる時代。もちろん、ビジネス的にも。不便だけれども、そこにストーリーがあったり、感情移入できるものが存在する何かが宝物になり商品価値がつく。

闘牛を見ても、体験だと思ったな。本気のぶつかり合い。舌だしは、辛い証拠。牛も、はやし立てる男たちもアドレナリンマックスで、戦う。動かない拮抗した戦い。その末の、勝負が決まるドラマ。食い入るように見た!次は徳之島で、闘牛見たくなった。

そして、2年前は小さかったうりちゃんは、大きくなってた。言葉を話すようになって、女の子らしくなっていた。すべては変わる、未来はわからないし、でも、いろんな生き方があり、そこには全て宝物になる種が存在している。
 

本当に価値あるものと市場価値が高いものは反比例すると昔書いたブログ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です