月別アーカイブ: 2013年3月

自然体でありながら、結果を出す思考フロー

出来る限り自然体で、無理をせず、出来る限りの効果を上げる思考方法と行動パターンを考えてみた。

大前提として、肩肘張ると疲れる。長続きしない。結果として、最大の成果は生まれない。周りからも肩肘張っていると、近寄りがたかったり、親近感を持ってもらえず、協力してもらえない。自分視点でも周りからの視点でも、メリットがないと思う。

やはり自然体でいる方が、自分としてもストレスはないし、楽しめる。周りからも、この人は取り繕ってないし、信頼できると思われるだろう。

そこで、自然体でありながら、結果を出す思考フローと行動について考えた。基本は自分が大学生の時からやっていることの延長なのだが、それを少しブラッシュアップした感じ。

(こんな風に大学時代に考えたことが、今も残っていて、すぐに検索できて引っ張りだせるのもスゴいもんだ。記録しておくことの大切さ、ネットのスゴさを改めて感じる。)

このビジネスモデルは儲かるか。
どういった戦略にするべきか。
この人物は採用すべきか。
どういった組織にするべきか。
etc

などなどについて、考え行動する場合に使えると思う。
ビジネス以外でも、趣味とか日々の生活などプライベートでもこの方法が俺には合っている。

ざっくり言うと、以下の4つの流れだ。
1.直感→2.論理的思考→3.総合判断→4.行動

細かく分けると、こんな感じ。

1.直感
 感じる
 記録する
 忘れる

まずはまっ白な状態で直感で感じたままの印象を大切にする。そして、その感覚を忘れないうちに記録しておく。最初の印象は後から思い出そうとしても、正しくは思い出せない。その後に考えたことや他人の評価などのバイアスが入ってします。だから、最初の段階でしっかり記録することが大切。俺がこのブログしかり記録魔であるのは、この理由から。そして、記録したら綺麗サッパリ忘れる。ここで忘れないと、次の過程である論理的思考をする際の妨げになる。直感が思考のバイアスになってはいけない。

*最初に論理的に考えてから忘れて、直感で感じるという流れはNG。一回、論理的に考えた後だと直感に影響を与えて、冴えた直感ではなくなるから。

2.論理的思考
 調べる
 考える
 評価する
 忘れる

次に考える。出来るだけ客観的に、フラットな視点で捉えて考える。そのためには、肯定的な視点からも、否定的な視点からも調べる。時間やお金などの制約の中で出来る限りのことを調べる。その調査データをもとに考えていく。そうしてまとめ上げたものを、どこが良いのか何が悪いのか。どの程度良いのか、どの程度悪いのか、どういった対応がいいのか。可能な限り定量的に表し、評価する。そして、また忘れる。

*この過程で出てきた成果物は周りに説明する際に利用できる。カリスマな人物か、自分で完結できること意外は、誰かに説明が必要なので、説明の際はこの過程を話せばOK。

3.総合判断
 決断する
 忘れる

直感で出た結論と論理的に考えた結論を踏まえた上で、総合的に判断する。あまり直感や論理的な結論を意識せず、直感的に判断していい。これが最終的な判断となる。脳の研究で自分が論理的に考えているという認識の時よりも、抽象的に感じながら判断している時の方が、脳の血流量が多いという論文もある。これからも分かるように、無意識のうちに脳が処理している情報量は厖大なのだ。そこを信じて、最後も直感で最終判断を下す。

4.行動
 自然体で行動する

最終的な判断を下したが、それに振り回されすぎてはいけない。レールに敷かれて、その通りやっても現実社会では上手くいかない。だから、最終判断も基本的には忘れる。忘れても自分の中には残っている。一度感じたこと、考えたことは、自分の脳には堆積している。その堆積したものに影響を受けて行動するので、忘れてもたいして心配はない。自分の思い描いた世界に近づいていく。それも、杓子定規にならず、その時々の状況に合わせて臨機応変に。

論理と直感
http://www.teratown.com/blog/archives/001640.html

送信者 八丈島2012GW

たいしたことしてないのに、たいしたことしたという錯覚

たいしたことしてないのに、たいしたことしたと錯覚してしまう場合がある。

これは問題だ。

個人ごとに、さらには個人でもその時の年齢(経験値)によって、たいしたことというのは異なる。
昔は大変だったことでも、経験を積めば朝飯前ってことも多い。

ビジネスはプロセスも大切だが、やはり結果が決定的に重要だ。たいしたことしてないのに時間がかかったり、無駄な交渉や調整が多いと、たいしたことしたと勘違いする。自分が効率悪くていろいろな作業して時間がかかっても、たいしたことしたと勘違いする場合がある。

一方で、効率よくやれば圧倒的に簡単にできて、大きなインパクトのあることでも、たいしたことと感じないこともある。

無駄に時間を使って頑張ればいいいということではない。人間は追い込まれたりするとただただ頑張ってしまう傾向がある。いくら時間がかかっても、いくら頑張っても、結果としてのインパクトがなければ、たいしたことではない。そう冷静に判断できるようにありたい。自分への戒めも含め。気を付けよう。

送信者 ドロップ ボックス

ランキングと言う不思議

人々はランキングという言葉に飛びつく。
それは日本人だけかもしれないし、世界中の人も同様かもしれない。

少なくとも、日本にはランキングというものに飛びつく人が一定層いる。
これが不思議でならない。

ランキングが気になると言うことは、そのランキング対象に興味がないはずなのだ。
興味があるから、何らかのランキングが気になるんじゃないか?という考え方もあるが、違うと思う。

本当に興味があることなら、誰かがテキトウに作ったランキングに興味は示さず、自分がその対象について調べて自分のなかで善し悪しを判断しているはずなのだ。
そういった自分が興味ある対象のランキングなら、なんだこのランキング、ぜんぜん自分の考える順位と違うじゃん。意味ない。そんな風に思うだろう。
本当に興味がある対象なら、自分なりの判断軸や基準があって、それを踏まえて自分にあったものを選べばいい。
ランキングに飛びつくと言うことは、その軸すらないと言うことだろう。

本当に興味があるものではないからこそ、何も調べていなくてランキングに飛びついている。
でも、それはどうでもいいことのはずなのだ。
自分で調べて善し悪しを判断していないのだから。
なのに、なぜランキングに飛びつくのか?
不思議でならない。

自分で善し悪しを決めるモノ以外でも、世の中の全ての物に順位付けをして知っていたいと言う欲求があるのだろうか。
自分の判断を後押しする、一般的な意見として間違ってないと証明する拠り所なのだろうか。

なんにせよ、ランキングは不思議な存在だ。

送信者 パプアニューギニア2011

エデン、それは「この世でいちばん過酷な楽園だ」

先日、伊豆大島に自転車の練習に行った際に、エデンという本を頂いた。この本、面白いよと。

ツールドフランスを舞台にして書かれた小説だとは知っていたけれど、読んだことはなかった。そもそも、小説はあまり読まなくてエッセイばかり。ちょっと読みはじめたら、面白く小説なのに、ドッグイヤーを着けてしまうほど。ロードバイクは個人競技だけれど、実はチームで勝負するスポーツで、ちょっとトレランにも通じる物を感じた。特にフランスを舞台に3週間と言う長い時間を個人なんだけどチームで戦うというレースは、今年の夏に参戦予定のPTLと近い物を感じた。同じフランスで300キロ、トレランと言う個人競技ながら3人で走る。なんだか、重ね合わせずにはいられない。

感情の変化とか、レースに向かう姿勢、仲間との関係などなど、学ぶべき物が多かったし、こうなるのかなと思うことも多かったし、共感もできた。ついでに、ロードレースにも出てみたくなったのと、北海道などの雄大な自然を自転車旅行してみたくなった。

送信者 ドロップ ボックス

エデン
近藤 史恵 (著)
新潮社 (2010/03)

以下は、気になったフレーズ。

スポーツは精神だ、というような論調の人から見ると、苦手だからと言って力を抜くのは不真面目に思えるかもしれない。だが、三週間のグラン・ツールは世界で一番過酷なスポーツだ。休める時に休まなければ、きれいごとだけではやっていけない。
それに、勝てる可能性のないところで力を使って、このあとのピレネーまで疲労を引きずってしまう方がよっぽどまずい。
ときどき思うのだ。人生だって似たようなものかもしれないと。
P91

勝てるかどうか分からない。だが、初めて知った。そのわからないことが希望なのだと。
P117

状況を多角的に判断できる思考と、とっさに最良の手段を選ぶ勘はレースの中で養っていくしかない。若い選手はその点、あきらかに不利なのだ。
P159

集団はまるで生き物だ。選手ひとりひとりの意思では操れない
P159

「無茶はしない。自信があるからやるんだ」
そう、下りのブレーキングには自信がある。未だかつて、下りで落車をしたことはない。どうすれば危なくないかは、とっさに判断できる。
自分がうぬぼれた性格だとは思わない。どちらかというと慎重なほうだ。
だから、根拠のない自信ではない。ぼくにはできるのだ。
P203

デビュー一年目の選手にしては、傲慢ともいえるつぶやきだったのに、ひどく自然に聞こえる。たぶん、選手の格というのは年数で決まるものではないのだ。
P208

ぼくは知っている。日常と非日常の境目がひどく曖昧だということを。
慣れ親しんだ心地よい日常に身を委ねていると、世界はぼくの足下からぱっくりと裂け、赤い内蔵のような非日常が顔を出す。
逃げる術もないし、目をそらすこともできない。
ぼくたちは、世界が望むままにその裂け目に巻き取られていくことしかできない。
衝撃や痛みの中にも、救いは存在するはずだと虚しく信じながら。
P219

死の匂いは、日常に簡単に忍び寄り、そして世界を簡単に塗りつぶしてしまう。
P223

同じ行為を繰り返すことは、どこか祈りに似ている。戦略など封じられてみれば、こうやって集団でひとかたまりで、ただ進んでいくこの時間も、祈りの代わりになるのかもしれない。
P227

ぼくは思う。
ここは、この世でいちばん過酷な楽園だ。過酷なことはわかっているのに、自転車選手達は楽園を目指し続ける。
P219

たぶんぼくはどうしようもなく、そう、どうしようもなく日本人なのだろう。
ヨーロッパで何年走ろうが、その感情を変えることはできなかった。たぶん、この先十年走り続けても、フランス人になることはできないはずだ。
それはなかなかやっかいで、でもほんの少しだけ誇らしいことだと思う。
P245

送信者 ドロップ ボックス

余談、同じ週末に自転車で世界一周した友達も伊豆大島にいたと連絡をもらった。それも、自転車旅行の記事の取材だったとか。ニアミスだったけど、偶然会ってたら面白かったのに残念。