月別アーカイブ: 2009年4月

これが再開した、ラーメン二郎 三田本店だ!

免許の更新を済ませ一路 三田へ。
三田と言えば、通った大学があり、そしてラーメン二郎がある。

大学のゼミの仲間と4人で二郎に行く予定だったのだが、一人は仕事でキャンセル。
3人で二郎に行く事になった。

自分のブログを遡ると前回の二郎 三田本店は2006/9/16(土)だと思われる。
だから、2年半ぶりだ。実に久しぶり。そりゃ気分も高揚する。

今回なぜ三田二郎に行こうとしたかと言えば、しばらく前に休業中という話しを聞いたから。
その時に、ああ、知らない間に二郎が店を閉めてしまったら、さみしいなと思い、再開した事を聞きつけ早速行く事にした。


いつも並ぶ二郎

店主のおやじさんは糖尿病のため休んでいたようだ。治療後だからか、親父さんの顔がほっそりとすっきりとしたように感じた。
免許の更新が思った以上にかかり、到着したのが11時30分。友達二人が11時から並んでいてくれたので、20分弱並んだだけで二郎にありつけた。
もちろん「大ダブル」を注文。本店も値上がりしていて850円だった。(小は600円)


斜め上から見た大ダブル@ラーメン二郎三田本店

この匂い。たまりません。匂いを嗅ぐと、当時の出来事が蘇ってきた。
席に付き、しばらく待つ。
いつものように、うっすらと油が浮いた水が出され、店内には鳩もいる。
これが二郎だ。


真横から見た大ダブル@ラーメン二郎三田本店

麺が茹であがると、
「ニンニク入れますか?」
「野菜マシマシ、ニンニクマシマシで。」
これに限る。

ででーん。と。

懐かしのこの味。
量が多すぎて、こぼれる。
油ギッシュなスープが飛び散る。
麺が熱い。
豚肉がうまい。


完食

あっと言う間に完食。
満たされた。

久しぶりの二郎三田本店を食べての雑感。野菜はモヤシとキャベツの比率が変わっていた気がする。キャベツの比率が多くなっていた。100円の値上げをしたから、キャベツの割合が増えたのだろうか?

あと、野菜がちょっと茹で過ぎで、スープに入っている化学調味料が少なかったような気がする。まあ、これもブレという奴で、次また食べたら味は多少違っているのだろう。これを含めて三田二郎の良さである。


さわやかな慶応大学三田キャンパス

二郎の油っぽさとは正反対の三田キャンパスを覗いて二郎ツアー終了。

大学時代に頻繁に通っている頃は写真なんて撮らなかったのに、行けなくなると写真を撮りたくなる。
これが人間の心理って奴だね。

過去の二郎に関連するエントリー

あの時のように

二郎抜きでは語れない

いつの間にかなくなるのは寂しすぎるから

寒すぎる大晦日のモスクワ[イラン旅日記 終わり]

前回のイラン旅日記はこちら「さようならイラン」

イランに別れを告げ、モスクワに向かう。飛行機に搭乗すると一瞬で熟睡に入った。空席だらけだったので、席を移動して3席分を使い横になって眠りについた。食事をした以外は眠り続けた。見事な眠りっぷりだったと自分でも思う。モスクワ時間で6時前にシェレメチェボ空港(ターミナル2)に到着する。まだ、外は真っ暗で滑走路の灯りとオレンジ色の街灯だけの世界が広がっていた。ただでさえ寒いのに、こんな風景がよけい寒さを厳しくさせているようだった。


シェレメチェボ空港

日本でロシアのビザを取得してあったので、すんなりと入国できた。まずは50USドルをロシアルーブルに両替。準備も整いとりあえず、街の中心地に行きたいけど、どのように行ってよいか分からない。人に聞いたり、英語の看板を読み、とりあえずアエロエクスプレスという電車に乗れば町に着く事が分かったので、6時15分発のアエロエクスプレスに乗車。周りに停車していた電車はボロかったが、アエロエクスプレスはしっかりとした作りの新しめの電車だった。

市内のサビョーロフスキ駅に着く。外に出てみたのだが、まだ外は真っ暗で寒い。そこで、駅舎の中でしばし待つ事に。この駅は地下鉄と接続しているので、とりあえず降りてみた。ただ、ロシア語の文字が分かりにくい。全然読めない。外では新年グッズを露天で買い求める人で溢れており、俺にとってはこんなにも寒いのにロシア人はヘッチャラなのかなぁ、と思った。


暗がりの露天

8時30分ぐらいに駅舎を出る。外はうっすらと明るくなり始めていた。地下鉄に乗ってどこかに行きたい。でも、モスクワにはどんな場所があるかも分からない。知っているのはクレムリンと赤の広場ぐらいだ。それらが隣接しているかどうかも、もちろん知らないし、赤の広場は英語で何と言えばいいのかも分からない。とりあえず、Red Squareでいいだろう、思いRed Squarはどこですか?どのように行けばいい?何駅で降りればいい?Red Squarまでいくらですか?と駅員さんや、行き交う人、切符売り場のおばちゃんに聞いても、全く教えてくれない。ああ、イラン人の優しさとはかけ離れているなぁー、これも国民性の違いだな、とつくづく思いながら、聞くしか手段がない俺はひたすら聞き続けていた。


地下鉄のエスカレーター

すると掃除と見張りのおばちゃん2人組が、「クレムリン」という言葉に反応して下車する駅を教えてくれた。ありがたかった。イラン人の優しさに毎日触れていると、やさしさに麻痺してしまいそうになっていたが、ロシアに来て助けてくれる人への感謝がまた強いものとなった。メトロのチケットを買い地下鉄に乗る。乗り換えで迷いながらも、クレムリンに到着する事ができた。駅でもどこの出口から出ればクレムリンに着くかを何度も何度も聞き、ようやく到着。地図もなければ、言葉も知らないし、行き先だって「クレムリンと赤の広場」しか知らなければ致し方ない。


赤の広場とクリスマスツリー

外に出ると、そこは赤の広場だった。とは言っても、ここが赤の広場であることはすぐに分からなかった。赤の広場と大きく書いてあるわけでもなければ、地図やガイドブックがあるわけでもなく、照合するものがないからだ。人に聞いて赤の広場であるということがやっと分かった。そんな赤の広場はNew Year&クリスマスの名残りモードだった。2008年大晦日のモスクワだから当たり前なのだろう。いろいろな露天が出て、イベントが行われ、スケート場が設置され、年越しライブのステージがくみ上げられていた。


赤の広場

そんな赤の広場はむちゃくちゃ寒かった。手を外に出しているだけで、痛くなるほどの寒さだった。それにも関わらず、非常に多くの人が赤の広場に集まってきていた。おそらくは中央アジアであろう人々が非常にたくさんいた。年末の旅行でモスクワに来ているのであろうか?


馬ッーー

寒いながらも、赤の広場をぐるりと観光し、クレムリンにも足を運んだ。だが非常に寒く、マクドナルドが目に入ったので、飛び込んだ。暖かい。暖かい。ああ、落ち着く。ハンバーガーとコーヒー(133ルーブル)は一瞬でなくなったが、すぐに外に出る気にはならない。とはいっても、中でぐずぐずしているのも飽きたので、外に出る。すると、見張りの兵隊さんの交代のタイミングで、その儀式を見る。良い背筋の伸びっぷり。でも、ずーと外に立っているのは寒いだろうなー、どうしてもトイレに行きたくなったらどうするんだろうなーとか、どうでも良い事を考えてしまう。


兵隊交代。

その後、クレムリン(300ルーブル)の中へ。この日は子供が無料なのだろうか、母親と子供が異常にたくさん来ていた。クレムリンの中をぐるぐると巡る。雪も残っていて、寒い。教会の中を見ても、ゆっくり見るというよりは寒いので立ち止らず常に動いているという感じ。クレムリンをあとに、再び赤の広場へ。午後になりさらに人が増え、人で溢れ帰っていた。やはり中央アジアの人が多く、話したおっちゃんもキルギスタンのおっちゃんだった。


空を見上げる子供たち@クレムリン

赤の広場も飽きたので、町を歩く事にした。特にあてもなく町を歩き、デパートに入り、花屋を覗き、本屋へ行き、パン屋へ行き、町中にある広告がでっかいなーと驚き。いつものように得意の目的のない町歩き。とっても大きな建物の改修がそこら中で行われていた。その建物を覆うシートがとてつもなく大きな広告となっている。車の広告だったり、携帯電話の広告だったり。日本では見た事のないサイズでインパクトがあった。ついでに、DVD屋にはロシアで人気という噂だけは聞いていた北野武作品がたくさん陳列されていた。

モスクワの中心地を少し離れると、住宅街があった。枝だけの高い木々が立ち並び、5、6階建ての無機質なアパートが建ち並ぶ。人もまばらで、建物が取り壊し途中で放置されている。自分で勝手に抱いていた旧ソ連というイメージがそこにはあった。そんなところまでほっつき歩いて、疲れたし飛行機の時間もあるので帰る事にした。


取り壊し途中の建物

すると地下鉄で声をかけられた。ロシアで声をかけられるなんて珍しい。それも中央アジアっぽい顔の人だ。「Help Me」「Help Me」と。何か分からず、立ち止ると、食い物をよこせ、貧しくて大変だから金をよこせ、と付きまとってきた。めんどくさい。こういった奴は相手にしないのが一番だ。分からない振りをして、スタスタと早歩きで逃げた。赤の広場に中央アジアの人が多い理由は旅行だけではないのだろうと、この時にはじめて気がついた。出稼ぎだったりでモスクワに住んでいる人も多いのだろう、そしてその中には生活に苦労している人も多いのが現実なんだろう。

おやつ兼夕食を食べて、地下鉄でサビョーロフスキ駅へ。それからアエロエクスプレスでシェレメチェボ空港へ向かった。空港のセキュリティチェックは非常に厳しく、靴も脱ぎ、飲み物は飲むか捨てるというレベル。めんどくさいが、無視するわけにもいかないので、指示に従った。19:20にモスクワを旅立った。帰りの飛行機は新型のAirBus330型機。機内もきれいで、ゆったりとくつろぐ事ができた。USBとLANの口も用意されており、照明は徐々に明るくなり暗くなる。新型機は違うねー。2、3度目のフライトだというから本当に新品だ。

この飛行機にのっている間に新年になるのは知っていた。それはモスクワ時間であろうと日本時間であろうと飛んでいる現地の時間であろうと。ただ、どこを基準に新年とカウントするのだろうと不思議に思っていたら、モスクワ時間で新年は祝われた。乗客全員にワインが振る舞われ、機長のアナウンスが入った。モスクワ時間で祝われたことを知り、改めて自分が乗っている飛行機はロシアの会社の飛行機で、ロシア人に寄って運営されていることに気がついた。左の窓から見える2009年初めての星空に乾杯と小さな声で一人つぶやいた。


2009年初めての太陽への感謝

少しばかり酔った頭で、イスラム社会の表面を見てきた事を振り返った。彼らは今日も隠れて酒の味を確かめている事だろう。俺はその味を知る事はなかった。たった2週間ではそんな深いところまでは知る事がなかったのだ。そのウイスキーはどんな味がするのだろうかと気になるが、人生でもう口にする事がない気もする。
こんなことを考えていたが、半月以上お酒を口にしていなかったためか、ワインの味がいささか強いように感じ、再び眠りについた。


次はどこの空を眺めるのだろう。

目を覚ますと2009年の日の出を拝み、飛行機は成田空港に降り立った。あっという間のイランの旅だったが、日本に戻るとすでに2009年になっており、クリスマスも大晦日も終わっていた。すこしだけワープしたような気分になったが、すぐそこには日本の生活が待っていた。

/終わり/

マッキンリーに死す

マッキンリーに死す 植村直己の回向と修羅 長尾三郎 講談社文庫

植村さんの書いた本は読んだことがあったが、他者が植村さんについて書いた本は初めてだった。エベレストの話しや北極圏1万2千キロなど既に知っている冒険行について書かれているのだが、植村さん自身では書かない事、それを知ることができた。今まで知らなかった植村さんについてや、その周辺の出来事をかいま見れた。

白石康次郎さんの師匠である多田雄幸さんとの関係や、エスキモーになった日本人として有名な大島育雄さんとの関係も描かれており、この時代を生きた人々のつながりも少し理解できた。

いつものように良かった場所を引用したいのだが、多すぎるので、一カ所だけに絞って引用したい。
ミネソタの野外学校で生徒たちに話した場面。

「君たちに僕の考えを話そう。僕らが子供のときに、目に映る世界は新鮮で、全てが新しかった。やりたいことはなんでもできた。そうだ。医者になりたいと思えば医者になれたし、登山家になりたければ登山家になれた。船乗りにだってなれた。なんにでもなれることができるんだ。ところが年をとってくると疲れてくる。人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう。世界の美しさを見ようとしなくなってしまう。大部分の人たちが夢を失って行くんだよ。
僕はいつまでも子供の心を失わずに、この世を生きようとしてきた。不思議なもの、すべての美しいものを見るために。子供の純粋な魂を持ち続けることが大切なんだ。いいかい、君たちはやろうと思えばなんでもできるんだ。僕と別れたあとも、そのことを思い出してほしい。」P283

タルキートナで植村さんが最後に泊まった宿が「ラティチュード62」ということも知った。アラスカを訪れる際は、この宿に泊まりたい。

あの丸い砂場

あの丸い砂場で飲み交わしたのは何年ぶりだろうか。芸大に通っていた時の思いでが蘇ってきた。授業の後、みんなで移動して丸い砂場で飲んだ日々の事を。

そんな場所で花見をした。正確には砂場の周りに桜はなかったから、花見ではなく、上野公園飲みだ。もちろん、あの当時の仲間も何人かいた。時がたち、それぞれ立場が変わっても、丸い砂場に集えば、そんなことは関係なく、酒を飲み交わし語り合う。時には真面目に、時にはバカなことを真剣に。

あの頃の上野公園飲みは単に楽しかっただけでなく、あの空間と時間には様々な事が詰まっていた事に、改めて気づいた。何かしら共通のものを持った仲間が、自然と集う私塾のような空間だったのだろう。あの丸い砂場での記憶を忘れないようにしようと、強く思った花見だった。

組織に頼るなよ、と茂木さんに言われ、小さいところにおさまっているのではなく、もっと本質的な事に立ち向かって行こうという気が奮い立った。

1388年のはじまり、はじまり。

1388年が始まった。日本だと鎌倉の終わりから室町時代といったところだから、そんなことはあるはずがない。今日は4月1日だからエイプリルフールネタかと言えば全くそうでもない。確かに1388年が先日スタートしたのだ。

イラン歴で1388年がはじまったということ。イラン歴の元旦の事をノウルーズという。この時は盛大なお祭りが行われるらしい。こういった時にイランにいたらまた違った楽しみがあり、感じる事があるのだろうなーと、またイランに行きたくなる。

いらん暦以外にも色々な暦があるが、西暦ぐらいしか意識していない。もちろん、日本では今後もイラン暦がデファクトスタンダードになる事はないだろうから、意識しなくても良いだろう。ただ西暦だけではなくて、世界には様々な暦があることを、こころの片隅にそっと置き続けながら生きてゆきたいと思う。そして、そんな様々な暦の中で、様々な人が生活していることを。