月別アーカイブ: 2014年5月

意思決定をすること

3年連続でフランス・シャモニーに行く。
どんだけ、セレブだよ。

先週までは、そうなるかなと思っていた。

そのしばらく前までは、今年は行かないだろうなと思っていた。

紆余曲折あった。

一昨年出たUTMB
昨年出たPTL、そしてリタイア。

PTLの再挑戦は、TEAM JAPONの3人で出ようと誓っていた。
しかし、仕事、休み調整、技術、体力、事前のコース確認、気持ち、お金といろいろな要素が絡んでくる。

エントリーだけはしたものの、出場するかを決めかねていた。
UTMFが終わった今週3人で集まることにした。

技術や体力、仕事との兼ね合いなどをふまえて、3人全員の調整が難しいことから、PTLに出ないと3人で決めた、
意思決定をする。
曖昧なままではなく、3人で共通の答えをだす。
もやもやが晴れて、すっきりした。

また、来年挑戦しようと。
万全に備えて。

今年出ても、今のレベルじゃ正直完走できるかかなり怪しい。
昨年出場して、その難易度を知っているし、それから我々のレベルが著しくあがっている訳でもない。

完走できないかもと思いつつ、3人で話して行く流れになったら、なんとかしようと、そう思っていた。
しかし、今回は参加しないと意思決定をした。

すっきりした。
ほっとした。

一方で、大いなるチャレンジが目の前から消え去った。
どこか、心に穴があいたような、そんな気持ち。
何か新しくやりたいことが、目の前に現れるまでゆっくり暮らそう。
まあ、来年のPTLがそれにあたるのかもしれない。
でも、ちょっと先すぎるかな。
どうかな。

送信者 TEAMJAPON

先天的な性格と後天的な考え方、そして、それよりも大切なこと。

この人は、なぜこのような性格なんだろう。
先天的なものだろうか。

スキルや頭の良さというものは、なんなんだろう。
後天的なものだろうか。

では、考え方とか思想は、どちらだろうか。

先天的と片付けてしまうと、それで以上終了だから、そうは話を終わらせたくない気持ちもある。
いろいろな人を見ながら、そんなことを考えていることが多々ある。

つい昨日、岐阜に帰ったときに、自分がどのような人間だったか、学校などでどう言われていた、母親に聞いてみた。自分というサンプルで検証するために。

・批判的な視点とか先生が考えている方向性と違うことを、堂々と言って周りへの影響が大きい。
 →その意見に周りもついてくることが多々あった。

・リーダーっぽくないのに、結果的にリーダー的存在

・常識と違っていても自分の意見を言う。

・短絡的なこうあるべきというルールや社会通念に対しては反発した

・フラットな視点で判断する。
 →政治家が向いている。

・やると決めたら、絶対に最後までやる。
 →自分一人で、出かけて行って会いたい人に会っていた。

・うさぎと亀だったら、亀だった。
 習得するまでに時間はかかったが、本質を理解して確実に成し遂げた。

・ケン玉をやって熱中していた。集中力がすごかった。

・何にでも興味を示し、好奇心が強かった。

・人を信じなかった

とかとか、言われた。自分の息子なので、良いこと中心になっている気もする。
こう聞いてみると、今の自分の性格と似ている部分が大きい。
似ているというか、そのままな気がする。

性格というものは30年経っても変わらない。
そして、その性格の萌芽は幼稚園で既に持っていた。すると、先天的なものと考えてしまう。一緒に育った姉とも小さい頃から性格は全然違ったと言われると、なおさら先天的かと思えてくる。

俺という人間が、自分の性格を自己肯定して変えてこなかったのか、性格とは変わらないものなのか。

だとしたら、後天的なもの、変えられるものは何か。
思想(考え方、物事の捉え方)、価値観、スキル、性格は同じでも対外的にどう見せるかというコミュニケーション能力。

確かに自分の考え方とか捉え方、価値観というものは大きく変わっていると思う。

高校で胃潰瘍をして、物事の捉え方が大きな視点に変わった。
単純な貨幣価値ではなく、自然というものへの価値を大切にするようになった。
運動は嫌いだったが、運動をすることの価値を知った。

とかとか、考えていると「性格」ってそもそも何を指し示すのかが分からなくなってきた。どこまでが性格でどこまでが思想(考え方)、価値観なのだろう。明確な定義は難しそうだ。

こんなことをもやもやと考えていたら、この言葉を思い出した。

SWITCH 1997年 1月号 星野道夫、FORGET ME NOT
クリエイティブライティングでもお世話になった新井さんが編集長として作られた雑誌。

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「ロシアのカムチャツカで星野道夫がヒグマに襲われて死んだことはただただ悲しい」と始まる一文の下の方にこんなくだりがある。

“途上の人、星野道夫はよくカリール・ギブランの詩を引用した

-あなたの子供は、あなたの子供ではない/彼らは、人生そのものの息子であり、娘である。

彼らはあなたを通じてくるが、あなたからくるものではない。

彼らはあなたとともにいるが、あなたに屈しない。

あなたは彼らに愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない。

何となれば、彼らは彼ら自身の考えをもっているからだ。

あなたは彼らのからだを家に入れてもいいが、彼らの心をあなたの家に入れてはいけない。

何故なら、彼らの心は、あなたが訪ねてみることはできない。

夢の中で訪ねてみることもできないあしたの家にすんでいるからだ/あなたは彼らのようになろうとしてもいいが、彼らはあなたのようにしようとしてはいけない。

何故なら人生はあともどりもしなければ、昨日とともにためらいもしないからだ-”

タクジさんのブログより引用

SWITCH 1997年 1月号

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うん、そういうことなのかもしれない。

こどもは自分の子どもではあるけれども、同時に社会の子どもであり、生まれもって一人一人の子供が何か持っている。もちろん、親の遺伝子を受け継いでいるが、それをも超えた何かをこの世界から受け継いでいる。だから、先天的とか後天的という話は、あまりにも浅はかすぎる。まあ、日々の些末な日常やビジネスをする上では非常に重要で、その日々の瞬間が人に取ってはすべてでもあったりするのだけれど、もう少し俯瞰してみたら、カリール・ギブランの詩が言わんとすることがもっと大切なことを教えてくれる気がする。

送信者 パプアニューギニア2011