日別アーカイブ: 2011/6/13 月曜日

偶然すぎる偶然は必然だと思う[3.11と同じ道を歩く]

偶然すぎる偶然は必然だと思う。
それは確率論では説明つかないこと。

今日は朝からずっと仕事で出かけており、夕方に東京に戻った。
いつもなら、新宿か東京駅で解散し、仕事か家に帰る。
しかし、今日は水道橋で解散した。
そして、急ぎの用件があり道端で電話をしていた。
用件も済ませ、電車に乗ろうと思い駅の改札へと向かった。

すると、声をかけられた。
???
すると、本郷さんだった。
同じ阿佐ヶ谷に住む、友達だ。
僕が阿佐ヶ谷に引っ越したすぐ後は、よく会っていた。
ベースとなる価値観が似ているからだろう。
ただ、最近はそんなに頻繁に会っていなかった。
それは、運動をするようになったり、日食を追いかけたり、瞑想を始めたりといったこともあり。

なぜ、こんなところで?
こんな時間に?
不思議で仕方なかったのだが、友達の展示を見て、一駅ぐらい歩こうと思いお茶の水から歩いていたのだと言う。

会うなんて確率論で考えたら、限りなくゼロに近い。
けれど、偶然にも会った。
そんなものに、偶然も必然もないのかもしれないけれど、
偶然すぎる偶然は必然だと思えてくる。
確率論では説明がつかないからこそ、人は後から意味づけをしてしまう。

ついでだから、水道橋から歩いて阿佐ヶ谷まで帰った。
3月11日に帰宅難民となり、家まで歩いた時と同じ道を。
3時間30分ほど。

ずっと、話しをしていた。
もしかしたら、3.11以降初めて会ったかもしれない。
いろいろと話したいことがあり、途切れることなく話した。

原発をどう捉え、どのようなスタンスかという話し。
代替発電の話し。
6月11日にあったデモの話し。
東北でのボランティアが楽しかったという話し。
3.11の当日に何をして、何を感じたかという話し。
3.11の震災をどう捉えているかという話し。
スペインでの村上春樹さんの演説の話し。
高校時代に原発をテーマにディベートをしていた話し。
3月10日に仙台転勤を言われ、自分も当事者として感じた話し。
阪神大震災、オウム事件とは違う捉え方であるという話し。
自分の意見を述べる際の、主観と客観の踏まえ方の話し。
今年の夏に行われる原始感覚美術祭の話し。
リスクを確率論で捉えることの限界の話し。
仏教における悟りの話し。
山を走ることと、自転車の旅、瞑想の共通点の話し。
それは、内と外を見るという行為であり、自分の体を客観的に捉えることという話し。
何かを成し遂げた後に起こる偶然。
それは、当初目的としたことを成し遂げた時に、副産物的についてくる感情や出来事など。

本当に盛りだくさんの内容を、それぞれの捉え方や考え方を率直に。

地震から3ヶ月。
自分の中でストンと腑に落ちる所までは至っていないが、
自分の中でごちゃごちゃしていたものが、整理された気がする。

送信者 岐阜

最近のスピリチュアルとかってことは、あまり好まないんで、偶然すぎる偶然が必然ってのも、そういう意味合いじゃないんだけど、自分の捉え方、意味づけの仕方としてって言うことです。