日別アーカイブ: 2007/11/4 日曜日

サヨナラだけが人生だ。名づけえぬものに向かって

アップルストアで茂木さんと布施さんの話を聞いてきた。
芸大の授業を思い出した。
そうしたら、3年ぐらい前に芸大に通っていたころの芸大のメンバーもたくさん来ていた。

その後、芸大のみんなと飲みに行った。
自分の人生は逃げているなと思った。
もっと、自分で自分の生き方に納得できるように生きたいと思った。

【メモ】

2007年10月31日 19時~ アップルストア銀座

名づけえぬものに向かって、進んでいく。
突き抜けたものとは何か。
フェルメールは紛れもない芸術としかいえないもの。魂をとらえられるもの(絵)だけみればいい。

ブッタやキリストも昔は変な奴、怪しい奴あつかいされていた?今の新興宗教は怪しいだけ、ああいった怪しい奴が何百年後にはブッタやキリストのようになるのか?もし、そうだとしたら、どういった人か?今、見分けがつく何かがあるのか?何をきっかけにブッタのようになるのか?

何か気になるものや人は最初批判する。無関心ではなく、何か引っかかるから批判する。後に評価が変わることも。いっけん敵に見えるものがスゴイ自分にとって大切。毒が甘美なモノになることがある。

洗練されるということは、生命力が弱くなること。そう簡単には洗練されてはいけない。美術とは生命原理の一部。

美しさには「生」と「死」の2つがある。生はデザイン。死は芸術。人生の最終的な課題とは以下西と言うものと向き合うか。

【自発性】自分の作品にケリをつけること。それは、死に近づくこと。若い時は大切なものをいつまでも抱えていたい。それがうれしい。でも、それじゃあ作品にならない。サヨナラしないと物は作れない。自発的にやめる=死に近い。作品がコレで完成という、最後の一筆の判断は限りなく難しい。終わりは自分で決められるから。茂木さんにとって、クオリアとサヨナラする時がけりをつけること。行き着くところ。

全てが自分の周りから消えている。世界に対して辞表を出すこと。サヨナラをすること。

ネットには入らせない自分の場所が必要、ネットにサヨナラ。道具としては使うが、ネットにはサヨナラして、何かほかの事をする。

空間を見ること時間を見ること。「芸術と脳科学の対話」ゼキ著
光にとって時間はたたない。固有時とタウの関係。

インターネットは瞬時だから、深みがない。変化がない、つまらない。

ITだけでは、フェルメールや夏目などがうかばれない。本物がうかばれない。坊ちゃんは別れの哲学。

茂木さんは非人情に行くのではないか。非人情は光の世界、時間がたたない。
サヨナラだけが人生だ。井伏鱒二。
責任やアカウンタビリティは生命から最も遠いもの。生きるうえでどんな意味があるのか?責任からサヨナラしたい。

狂気を秘めている。危ない人は常識人としてのふりをできる。普通でタダのいい人になってはダメ。危ない、悪いんだけど不通の人の不利をするのが大切。でも、バカはダメ。

生きるってことがとんでもないこと。生きるものは殺戮の歴史。社会っていうのは殺す心を抑えている。人間の社会生活が以下に奇跡的な常態か。みんなが、感情をおさえていきている。ITはこれを加速させている。

残すともったいないということは、人間が物を管理しているという前提の感情である。野生なら、生き物を食べて残したとしても、他の動物がその生き物の残りを食べる。だから、もったいないなんていう概念はない。もったいないは、人間が食べ物を管理しているというずうずうしい感情の上に成り立っている。

いきなり何かをする。縄文人に近づきたい。布施さん。イノシシ狩りをした。
はたして縄文人は食べるためだけに狩をしていたのか?それ以外の自分本位の感情でただ狩りをしていた可能性はないのか?縄文人は食べるために狩りをしていたという発想は現代人の発想。過去を現代の基準で美化する発想。そこから現代の「生」を考える必要がある。

自分のイキイキとした創作の時間とサヨナラして送り出すこと。

美とかクオリアとか定義するのは居心地が悪い。分からないあいまいなものなのに、無駄な定義の意味なんてない。

「行き詰ったら、物に返れ!」
美しさが何か分からなかったら、これは美しいと思うものを思い出して、そこから考えろ。