いつから失敗を恐れるようになったのだろうか

赤ん坊は失敗を恐れない

ひたすらチャレンジする

失敗しても全く関係ない

またチャレンジする

すると、いつの間にかコツを掴んでできるようになっている

チャレンジする恐怖もないし、失敗しても恥ずかしいとかそういったこともないのだろうか

あんなにも失敗を恐れずにチャレンジしていた全ての子供は、いつの間にかチャレンジすることに躊躇するようになる

いろいろなことを理解し、リスクとか頭で考えるようになるからだろうが、ああのチャレンジ精神はどのように失っていくのかその過程を知りたい

と、同時に何でも挑戦しないと、新たにできるようにならないし、道は拓けないなと、0歳の赤ん坊に学ばせてもらっている

感情とオウム返し

産まれた直後は「泣く」だけだった。数ヶ月立ち、「笑う」ようになった。
そして、声を発することが多くなってから、いろいろな表情をするようになった。

例えば、

「恥じらいの顔」
「怒った顔」
「寂しそうな顔」
「不安げな顔」

こんな感じ。

他者の表情とか声、行動を見て、どんなことが起こるのかを予想できるようになってきたからな気がする。

それと関連してか、親の喋った言葉をオウム返しするようになった。ハッキリとした声にはならないが、似た音声&イントネーションで音を発している。
大人の思考プロセスと行動をたどることによって、感情というものを学んでいっているのだろうか。その結果として、細かな表情の変化が出るようになったと勝手に推測している。

例えば、喜んだりした時は拍手をしたりするのだ。それとか、甘えた顔をしてハイハイで乗っかってきたり。
あとは、掴んで食べることができるようになったのだが、初めて食べるものを手に渡すと、口に入れるのを躊躇して不安げな顔をする。手に持って見て、親が食べるのを見てから安心して口に入れたりと。

実に面白い変化。

思いを伝える声

言葉は話せないけれど、すでに感情は宿っている。
様々な概念も身につけつつある。
物理的な法則も理解しつつある。

お腹すいたというった生命の維持に関わることだけでなく、身体的な感覚、物を掴んだり、叩いたり、新しい人に会うと静かに間合いを探ったり、ただまだ言葉が話せない。
それを言葉にならない声で日々伝えてきてくれる。

週末に岐阜の実家に帰ると、大人5人。
普段は大人二人と子供一人。

それに、夜家に帰って、ご飯、お風呂、寝かしつけとスケジュールぎっちりにやらなければならないことがあり、会話は多くないのかもしれない。
さらに、大人2人だと会話に広がりが産まれづらい。
これはMTGでもそうだけれど、2人でブレストしても盛り上がらないけれど、3人だといっきにアイディアが出てくるのと同じ。

岐阜に帰ると大人がいろいろな会話をしてそれを聞いたからか、とても多くの声を出し始めた。
聞くことによって、自らも声を発することを学んだのだろうか。
発する声のトーンも違えば、叫ぶときも、フレーズの長さも、もちろんフレーズの音も違う。
手足の動きや顔の表情も異なるので、伝えたいことが違うんだろう。

そう思うと、いろいろな人に会って、いろいろな会話を聞いていくことが重要なんだなと改めて思った。
再びSkype英会話でもして、家庭内に新たな会話の風邪を吹き込ませようかと思う。

そして、ハイハイ。
今までもしていたが、家だと狭い。
1.5m四方の空間を作って、そこで遊んでいる。
しかし、ハイハイするにはせまい。そんな囲いのない広い空間だと、自由にハイハイをして、かなりスピードも出てきた。
こちらも、大人の目がたくさんあると、広いところで遊ばせておいても危険が少ない。

核家族化は、家事を行う面で子育てが大変だという話をよく聞いていたが、会話や広い空間でハイハイできることなど含めて多くの大人がいる家庭で育つと良いんだな−と。

食洗機や乾燥機付きの洗濯機を導入して、自動化できる作業はすべてそちらに任せて、少しでも会話を増やしたり一緒にハイハイしようと思ったのだった。

家庭という空間

病院から家に戻ってきた。

家に戻ると雄叫びをあげたり、手足をバタバタしたり、笑ったりすることが増えた。病院でも最後の方はすでに元気になっていたが、あまり笑うことはなかった。

家に戻ると、笑ったりすると親が思うのは、思い込みや、そうであってほしいという願望からバイアスがかかってるからかもしれない。

それをふまえても、やはり全然違う。病院で声を出すときは、鼻の吸引とかで泣き叫ぶ時ぐらい。

家に帰り、その空間に落ち着き安心してるから、自然と笑ったり、バタバタしたりするんだろうなと思う。本人は、意識的に家の方がこういう理由から安心でリラックスできてと考えてるわけではないが、鋭い感覚で感じとってるんだろう。

そう思うと、家庭という空間をどんな空気でマネジメントするか、マネジメントというかどんな雰囲気を、漂わせておくか、漂わせておけるかってすごい重要だと思う。

大人が意識的に作り上げる家具とか電気の色とかも重要だろうし、親の態度なども。親の態度は意識的にどのように怒るかとか誉めるかもあるが、本当に日常の些細な積み上げの方が重要だと思う。

子供に話しかけるときの声のトーンや話し方、表情、目を見て話すかとか。もちろん子供に話すとき以外の夫婦の会話の言葉使いや雰囲気、独り言も。そういったものの総体が家庭の雰囲気を作り出し、子供の精神形成に大きな影響を、与えてるんだろうな。

そんなことを入院生活と対比して思ったのである。

不在で存在感を改めて感じる

10日ぐらい前から子供の体調が悪かった。40度を超える熱が出て、咳が出て、ぐったり。ちょうど1週間前に呼吸も荒くなり、夜間病院に行き、大きな病院で診てもらうということで、夜の10時ぐらいに成育医療センターへ行き、夜中の2時ぐらいまで血液検査、尿検査、レントゲンなどを撮り、そのまま入院、そして現在も入院中。

命にかかわる病気ではないのだが、RSウイルスがかなり悪化してしまい、入院ということになった。SPO2が安定しなかったり、咳が治まらなかったりと長引いて1週間ほど入院している。

夜は付き添いで寝ないというのが病院の方針なので、両親とも家で夜は寝ている。まあ、赤ん坊の精神的な安心はあるが、親は病院にいても医療的に何かできるわけではないし、親まで疲れて倒れてしまったらさらにピンチということからも正しいとは思う。

で、そうすると家に赤ん坊がいない。今までずっと一緒だったから、なんだか不思議な感じなのだ。今までも寝ていたりして泣いていないときもあった。そうであれば、いないのとほぼ同じなのに、その状況と今は違うなーと思った。いるだけで存在感があった。この存在感と言うものは不思議なもので、家が空っぽになったかのような寂しさがある。

親の脳の中はいつも赤ん坊のことを気にかけているから存在感がうまれているし、そこに存在することで熱量とか寝息とか動いたときの小さな音など、いろいろな物が存在感というものを作り出しているんだろうな。産まれてきて1年にも満たないけれど、すでにそれほどの存在感を発揮してくれていて、我が家の中心的な存在なんだなと、不在になって改めて感じた。