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高速なPDCAができない仕事

今の時代は情報が整理されている。だからこそ、ある行動をした結果がすぐに数値で見れるようになってきた。

それはインターネットのサイトであれば当たり前だけれど、台風とか希少予報などの自然現象もデータを取り、それぞれの場合はどんな結果になるかを数値で読み取り、次はこうなると予測して精度を上げる。飲食店などの店舗
経営も天気による来店の影響とか、来店した方のプロファイル情報や購入履歴も全てデータとして分析できる。だから、早いサイクルで仮説・実行・検証・改善(PDCA)を繰り返し、いろいろなものは改善されていく。

もちろん、この流れは全ての物事に反映されてきているけれど、例えば農業はまだまだだ。といのは、新しく花や野菜を育て始めたら長いと1年サイクルだ。これを試行錯誤して改善するにはそれなりの時間がかかる。デジタルデータとして存在しないので、仮説から改善のサイクルもなかなか難しい。そう、期間の長さとデータ化されていないものは、高速なPDCAができない仕事なのだ。こういった仕事は、最善のアウトプットを出すことが難しい。

その最たるものが、人間だと思う。生まれたばかりの人間が年を重ねて物事を経験し、学び大きくなっていく。なんといっても期間がとても長い。20年とかかかる。いや、その人が社会に出すアウトプットまで見ようとしたら生まれてから50年、60年は必要だ。もちろんこれだけ長いし、データ化もされていない。この期間の長さとデータ化されていない状況は他にはない。それだけでなくN数が少ないのだ。1人の親にとって、子育ては1回きりだ。2人子供がいても、結論がわからないタイミングで2人目を育てるのだから、1回なのだ。20歳で子供を産み、子供が50歳になる頃に、再度子育てをすれば2回経験することになるが。まあ、それだけの期間が経てば、社会環境が大きく変わっているので、結局またゼロからスタートな気がする。

高速なPDCAが可能な世界で生きてきて、そういった仕事やそういった思考でいる僕らの世代には、なかなか戸惑いを隠せない。昔であれば、全ての物事がデータ化されていなかったので、まあ一緒だよねと思えただろうけれど。今の時代の人が拠り所とするデータと高速なPDCAでの改善が通用しないというのだから。子育てというのは、難しさの極みだと思う。ある意味、職人的な仕事のような。

こうなると、過去の人々の一般化されたデータ(統計)とかに頼るか、経験者の世代の知恵を聞くとか、まあ、あとは信念しかないんだろう。こうだと親が信念を持ってやっていくしか無い。最後は、全ての個体は本来違うものなので、その子の持ち味が社会にもっとも活きるようにサポートするしかないのだろう。

一度原始的な方法を試してみる

家電製品などが発達した現代社会は便利だ。ホームベーカリーもそうだし、炊飯器、給湯器、電子レンジ、パソコン、スマホ、自動車、洗濯機、冷蔵庫、エアコンなどなど、挙げだしたらきりがない。非常に簡単で便利だけでなく、自動化されているのでミスが少ない。家電製品のアウトプットは並以上のものが常にできあがる。

ただ、フタを閉じ、スタートボタンを押したらできあがるまでがブラックボックスなのだ。スタートから完成(アウトプット)までの間にどんな行程が行われているのかが分からない。まだ、俺らぐらいの世代は、全自動の物が少なかったので過程を知っているが、今の子供達は生まれた時から家電製品が身の回りに溢れ、かつ全自動のものが多いのでどんな行程が行われているか想像もつかないかもしれない。

ホームベーカリーを手に入れる前に、粉を捏ねてオーブンでピザを作ったりケーキを作ったので、どんな行程があるか分かっているが、ホームベーカリーしか使わなかったら、どんな風にできるか分かっていなかっただろう。だって、はかりの上にホームベーカリーのパンケースを置いて、分量通りの強力粉などを入れホームベーカリーにセットしてスイッチ押せば出来上がっているのだから。いったい何してるの?状態。

これは炊飯器も、自動車の動く原理も、なにもかもしかりだ。自動車だってクラシックカーが多く走っていたキューバでは、誰しもが工具を持って修理をしていた。

そう、一度自動化された機械に頼らず原始的な方法でやってみる。するとどんな原料で、どんな行程で作られるかわかる。どんな風に動いているかが分かる。すると、応用が利くのだ。作り方や材料もアレンジできる。機械を使うときもアレンジできる。そうすると、楽しみの幅が広がるし、いろいろ発展する。

自分の体も同じ行程を経て、人間の体の原理を知り、アレンジできる。トレランとか長距離走るのも、筋肉の動き、骨格の挙動範囲を理解してからだと、効率的に動けるようになったりと。と、まあ、一度原始的な方法を試してみて、原理原則を学び取る。そうすると、応用がきいていいなということ、当たり前だけど常に頭の何処かに。

常に今がピークと思えるような日々を歩んでいきたい

葉桜になりかけた週末、小田急ですぐに行ける大山へ。家から1時間弱で行けるのが便利だ。何度も行ったことある山で、感覚的に自分でどれぐらいの時間がかかって、どれぐらいの負荷かを知っている。だからこそ、トレランしてて衰えたなと思った。運動量減ったから当たり前だ。

そんな自分の衰えを感じながら、ふと考えた。衰えたとすると、いつが一番肉体としてピークだったのだろうか?。が、明確には分からない。分かるはずもない。毎日体重を測っていて、今日が一番軽いとか思いなら判断がつく。しかし、肉体のピークって明確な指標がない。さらに、肉体がピークでも、精神が伴ってなかったり、経験不足でノウハウがないと肉体の価値を完全に出し切れないから、ピークは明確に分かりっこない。

ただ、今が肉体のピークでないことは明らかだ。運動をあまりしていないから。

そんなことを考えていたら、いつも今がピークかもしれない、今がピークだと言い続けられるように情熱と練習をし続けていたいなと思った。今がピークかもしれないと思える、期待できるということは、それだけ日々トレーニングをしているからこそだ。

トレランに限らずどんなことでも、こうしてありたいなと思える人生のスタンス。その方が人生楽しい。英会話もそうだし、車の運転も、ビジネススキルもそうだし、自分の性格もそうだし、他者とのコミュニケーションもだし、料理の腕もだし、スキーとかも、本当になんでも。どんなことでも今がピークかもしれない、ピークだと思えるぐらいの日々を送り続けたい。

いい友に囲まれることはかけがえのないことなんだと、ただそれだけを教えてもらった

いい仲間に恵まれているなと思った。

芸大の友達、大学の友達、旅の友達、トレランの友達、山の友達、仕事の友達、昔会社やってた友達、ディベートの友達、阿佐ヶ谷の友達と、まあ、ジャンルが幅広いし、みんな価値観違うし、やってること全然違うし。

でも、どの友達も自分の素で接していて、分かり合える友達ばかり。全然ちがうように見えても、つながっている部分がある、強く共感できる部分がある仲間ばかり。

ちょっと癖がある人ばかりだねwと言われたけど、実際にそうだと思う。それだから、いいんだとおもう。やはり、芸大の友達は独特のセンスが溢れている。それは、芳名帳の文字もだし、ご祝儀袋が自作の絵だったり、作品だったり、服装も。自分の価値観があるので、それにしたがって生きている友達なんで。それ以外の山の友達とかも、世の大半のサラリーマンして人生つまんなさそうな属性とは大きく異る。

みんながそれぞれに、好きなように生きてて楽しそうだし、僕の人生にいろいろな視点や世界を与えてくれた友達ばかり。正直、こだわった部分とかは無いけれど、せっかくきていただくなら、楽しんでもらったり、不便なこと無駄なことをできるだけ省いて、この友達とこの友達がつながればいいなとか、新たな仲間や世界に触れる出会いの場になればいいなと、それぐらい。

こうした仲間といろいろな時間を過ごしてこれたことが、ただそれが嬉しかったし、自分を作り上げてくれている。もちろんその場の楽しさを共有した記憶も、ものすごく辛くて死にそうだったことを協力して乗り越えた経験も。そんな苦楽をともにしたのは良いなと。そんな思い出を噛み締めたり、今の出来上がった自分に感謝するとともに、再びこうしてそんな仲間と笑っていられるという、そのことが何よりも幸せだなと。

そんな風に自分が最大に楽しみ、きてくださる人も最大に楽しむには、できるだけ社交辞令的なことを一切省くのがいい。無駄なものがない、無駄な気を使う人がいない。社交辞令的な雰囲気になると、無駄で誰も面白く無い時間だけが流れてしまう。誰にとっても意味が無い。だから楽しむには社交辞令を徹底的に省く、そんな信念を貫いてよかった。

あとは、何よりも両親が楽しそうだった。僕のブログで出てくる人たちに会えたのがよかった気がする。ブログはよく書くが、18歳で東京に来てからのことはあまり知らないので、14年間をぎゅっと凝縮して僕の人生を友達という軸で知ることができた感じがして。両親があんまり知らない友達と馴染めるかなと不安なところも合ったが、友達と両親が楽しそうに会話しているのを見ていいなと。そして、父が友達と話しているのを見て、ノリがけっこういいなと思い、そして僕はやはり似ているんだなと思っていた。14年間に出会っていろいろな経験を一緒にしてきた仲間を両親に結婚式という場で紹介できたのは何よりもよいことだったと思う。そのためだけにでもやった価値があった今は確信を持っている。みなさん、ありがとうございました。

政治と国

アメリカの大統領選のニュースが連日取り上げられている。トランプかサンダースか、ヒラリーか。みたいな。個性派がそろっていて、いろいろな政策や思想をぶちまける。誰が大統領になるかで変わる国。もちろん、国民がその国らしさを最終的に定義づけるが、大きな方針はやはり政治が決める部分が大きいと思う。

年末年始で行ったベネズエラ。

殺人など凶悪犯罪率世界一位、3000万の国民に対し拳銃1700万丁、原油埋蔵量世界一位だが、チャベス大統領が二年前に亡くなり、世界的に原油価格も暴落し、チャベス大統領からマドゥーロ大統領になり、国は衰退し混乱していった。国は貧しくなっていった。

でも、人間は強く1人1人が考えてより良い生活のために生きる。その力の総和は偉大で、国は回っていく。でも、政治の舵取りは大きく国民生活を決定づけるのも間違いない、先月の国会議員選挙では野党が多数を取り、マドゥーロ政権とねじれた。暴動が起きる。

原油価格下落の要因でもある科学技術の発達と政治の舵取りは、本当に難しく、国民にとって大きな影響を与え、生活を変える重要な要素だ。ある意味日本みたいな、大きく振れずいつも政治的に中途半端な国であれば、マイナスのリスクもないんだなと感じた。誰が政治を司っても大差ないという意味で。

一方で、誰が政治をするかによって極端な差が生まれる国は、うまくいくこともあれば、激しく失敗することもある。それを踏まえたうえでの政治。日本は、そのリスクを取りたがらない人々だから、どちらにせよ大差無いような政治になるのか。これを批判する人もいるけれど、大きな失敗がないということでは、ある程度のメリットも有るのかなとも思う。

ただ、なんだかんだ行って、世界のどこに行っても思うことは、人は強く生きていくし、日常はどんなに治安が悪くても、そこに人の笑顔や安らぎは存在すると。そんなことを改めて知ったベネズエラのロライマ山登山および旅でした。旅で、国を知る、政治を知る、人を知る。