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原始感覚美術祭 2013 懐かしくないのに、懐かしい場所

原始感覚美術祭へと稲尾へ向かう。なんだか毎年の行事でこれがないと8月が始まらない。今年で4年目ぐらいだろうか?みんなは金曜から現地に行っており、僕は土曜に1人で特急あずさに乗って追いかけた。すると、電車と車が衝突して電車がストップ。予定よりも3時間ほど遅れて稲尾に。

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この駅に辿り着くと、どこか懐かしさを感じる。幼少期に来たこともなく、自分にとって懐かしい場所ではない。しかし、どこか懐かしいという感覚が自分を包む。原風景のようなものなのだろうか。

何とも不思議な、懐かしくないのに、懐かしい場所。

送信者 art
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いつもの宿である、あたらし屋に到着すると植田さんや茂木さんなどなど、いつものメンバーがそれぞれ話したり、昼寝したり、料理をしたりしていた。各所に点在する作品を見に、ツリーハウスや火であぶって描く絵、湖に浮かぶ作品など、今年もいろいろな作品に触れた。

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そして、夕方になると毎年恒例になった無人の駅にみんなでぞろぞろと歩いていって電車を待つ。そして信濃大町へ。麻蔵で茂木さんの講演会。久しぶりに聞くけれど、だんだん聴き手に合わせて寄り添うトークスタイルになっていた気がした。って、偉そうですいません。。。

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印象に残っているのは、

「意識は流れて二度と戻ってこない。フローオブコンシャスネスほんの一部しか気づかないし、さらに一部しか記憶に残らない。記憶は流れていってしまうけど、それだとしても豊なんだ。豊かさという感情が包んでくれる。」

「ただ楽しそうというだけじゃなくて、この人は何かを掴んでいるという人物は魅力的」

といったあたり。こういう考えが茂木さんのベースを作っているから、茂木さんのことをカッコいいと思うし、信じられる存在なんだろう。そして、話しを聞いていて、「人間を理解しようとして、意識とか肉体とかに分割していくと、それぞれには人間の本質はなく、複雑に絡み合ったものや時間もふまえて、人間であるんだな。分けても意味がない。」そんな風に思った。

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講演も終わり、そこで飲み会。阿佐ヶ谷を旅立った本郷さんも来ていて、久しぶりにいろいろと話しをした。蓮沼さんともお互いいじり合う話し99%真面目な話し1%。電車で再び稲尾へ。宿での見直し、語り直し。今回の合宿は芸大&東工大の知っている仲間が80%以上で、10年前の上野公園を思い出すような感じだった。そして、ここが自分の原点でもあるなと。いろいろな人が集まり、夜な夜な真剣に語りながら、何かを感じ、何かがうまれてくる。去年、寺町君の笑顔を見て、信じられると思うようになったときいたり、哲学者の塩谷さんとはなぜか山の話しをしてみたり、お金の概念について話したり、金杉さんとはメディアについてや社会の捉え方を話して企みに加えて頂くことになったり。夜は更けていった。

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朝になると、いつものように佐々木さんがご飯をつくって下さっていて、食べ終わるとそれぞれ作品を見に。杉原さんのストーンサークルや本郷さんの写真などなど。1時ぐらいにみんな松本へ向かうということだったので、宿に戻った。電車を調べたら稲尾発が12:55だったので、一足先に信濃大町へ向かい北アルプス登山に向かった。同じ時期に、同じ場所に、仲間が集う。参加者は毎年異なっても、毎年来続けている仲間がいる。今年も本当にいい時間を過ごさせてもらって、これからも大切にしたい懐かしい場所。

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美しいものがすぐそこにあることを知っているのに。

人生は楽しいことばかりなんだ。と俺が話した。
特に意識することなく、いつも思っていることを口にしただけだった。

その後、南米に行きたいんだよねと。
旅の話しになれば、まあ、これもいつもの話しだ。
学生の時に行って以来、ずっと話している。
世界中行きたいところがいくらでもあるし、やりたいことは無限にある。
そして、どんどん新しい世界に出会い、増えていく一方なのだから。

やりたいことはできるだけやるという考えなんだけれど、南米に行ったらついでに雨期のウユニ、友達のいるブラジル、エクアドルもと。
ただ、なかなか休みがそんなに長く取れないんだよねと。

そしたら、出来ないと決めているのは自分の気持だけで、何でも出来ると指摘された。
まさに、俺もいつもそう思っているし、人にもそういっているのに。
この矛盾があるってことが、自分の気持が制限している証拠だろう。

美しい世界がすぐそこにあることを知っているのに。

みすみす、逃しているのは何ともったいないことだろうか。

それをやれば楽しいことが分かっているのに。

みすみす、逃しているのは何ともったいないことだろうか。

得るものと失うものを天秤にかけているのだろう。
1年が、3ヶ月働いて、9ヶ月休みだったらいいなと思うけれど、9ヶ月も休みだと何もしないのも事実だろう。
時間なんて持て余しているから、なんでも出来る訳ではない。

結局は”Personal Definition of Success”がはっきりすれば、ブレがなく迷うことは少なくなるんだろう。
とはいいつつ、自我の欲求と社会との瀬戸際で生きている訳だし、そこにこそ意味があると思っているので、なかなか難しい。
時間がない中で、フル回転であれこれ考えて、パズルみたいに組みあわせることが面白い。

仕事自体も楽しいし、意味があると思っているし、今の与えてもらっていることは最大限成し遂げたいし。
2兎を追うものは1兎をも得ずというが、そこはなんとかしたいし、そこをなんとかすることに面白さがある気がする。

とまあ、あたりまえなことを当たり前に思う月曜日。

送信者 座間味島'08

野生的でありたいか、人間的でありたいか。

「野生的でありたいか、人間的でありたいか。」

単語のレベルを「人間的」そろえるのであれば、「野生」という言葉を「動物」に替えた方が良いだろう。

「動物的でありたいか、人間的でありたいか。」

逆に、単語のレベルを「野生的」そろえるのであれば、「人間」という言葉を「文化」に替えた方が良いだろう。

「野生的でありたいか、文化的でありたいか。」

世の中には色々な考え方の人が60億人程いるけれど、この人々の思想の分岐は「野生的でありたいか、文化的でありたいか」ここにあると思った。

動物的でありたい人は、管理されることが嫌いで、自分の思いに従う人が多い。逆に人間的でありたい人は、そんなのいやだ動物的に野性的になるくらいなら死んだほうがまし。人間的なまま死にたいと。

そうかこの考え方が違ってたのか。最近まわりとの根本的な考え方の違いはここなのかと思う。

比較的、いろいろな国をぶらぶら旅して異なる文化や価値観を知った人や山や海など自然が好きな人は野性的で、同じような人間しかいない世界で生きてきてブランドバッグとか好きな人は文化的でありたい人が多いと思う。

人間的すなわち文化的すなわち論理的、資本主義的、ブランド志向、科学技術への絶対的信頼、社会のモノサシ。
動物的すなわち野性的すなわち感覚感情的、自然主義的、アミニズム、自分の価値観のモノサシ。

僕が、ここでいう「人間的」になりたいとはもう思うことはないと思う。しかし、大半の人は人間的でありたいのだ。ということは、なぜ多くの人が人間的でありたいと考えるのかを理解したい。そうすることによってお互いの理解が深まると思うから。

送信者 沖縄最北端と久高島

旅先三日目

野性的であること、ストイックであること
アニミズムと言う希望

肉体性と性格と生み出すもの

先週、芸大時代の友達の植田さんのアニメーションの個展に行った。
1年間RISE GALLERYで続いていた、一連の展示も今回が最後。それと、ずっとアニメーションを作りたいと話していた植田さんのアニメーション展示ということで。

植田工 個展 
「背景が人物より近くへ 人物がより遠くの風景へ」

胸に釘の刺さった少年のアニメーション。かわいらしいんだけど、なんとも物悲しさを抱え、やるせなさが伝わってくるような少年。なんだか重松清さんの小説の空気感に通じるものを感じた。

そこで、植田さんと話していた。この少年のラインがやわらかくて、植田さんの体のようだと。すると、昔は陸上の長距離の選手をやっていて、体が引き締まっていたとか。その当時も絵は描いていたけれど、その時は硬い線しかかけなかったとか。人間の肉体性と作品は似てくると。

なんだか、そうなんだろうと思う。精神と肉体はかなり強い関係性にある。肉体が元気であれば精神も元気であることが多い。逆に言えば、精神が弱った時に、たくさん食べたり適度に運動すれば精神も元気に戻る可能性が高い。

精神というものは、人間と言う肉体の上にのっかっているものだし、その人から生み出されるものは頭でなにか処理が行われ、そのイメージを肉体を通して自分の肉体の外に出す。だから、肉体と性格(精神)とアウトプットはやはり強く関係するのだろう。

勝手なイメージだけど、長距離向き、すなわち遅筋の人はおだやかな気がするし、短距離向き、すなわちソッキン(早筋)の人は短気なのかな。

まあ、それよりも芸大に通った2年間があったからこそ、あれから10年たってもこうして友達の作品を見に行ったり、友達の作品の変化を味わわせてもらえるのはありがたい。

そして、今年も夏の長野へ行くことに。もう、何年目だろうか。あの青い空が楽しみだ。

送信者 記録

浮かんで揺れるやすらぎ

自分が無意識のうちにとった行動を後から意味付けしたくなる性格だ。

自分だけじゃなくて人一般の行動も。

プールのあとに風呂に入っていた。東京体育館の風呂は大きく、足を伸ばすとちょうど足が浴槽の縁に乗っかるぐらい。頭を倒し、足を投げ出して浴槽のふちに乗せる。すると、体はお湯のなかに浮きゆらゆら揺れる。

ふと、思った。いつもこうして風呂に入っているのはなぜか。お尻をお風呂の底につけて座って入ってもいいのに、何故かいつも浮かびゆらゆら揺れて風呂に入っていた。

こっちの方が心地よいのだろう。ためしに、座って入ったが、やはり解放されたやすらぎはない。固定されてしがらみにとらわれている気持ち。

そうか、ハンモックも、ダイビングも同じか。

お母さんのお腹のなかと同じと言ってしまうと簡単な結論に逃げている気がするが、浮かびゆらゆら揺れる心地よさは確かだ。大切にしたい感覚。動的平行じゃないけど、1/fゆらぎじゃないけど、なんだろうか、止まっていない適度なゆらぎは心地よいのだろう。電車の揺れが眠りやすいとかいうし、もう少し調べてみると面白そうだな。

送信者 八重山2008