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植村直己物語 彼がどうしても大切にしたい気持ち

植村直己物語をやっと見た。
やっとという表現が、本当にしっくりくる。
何年も前に映画化されたものを。
彼の生きることに対する姿勢に、本当に心から敬愛している。

そんな映画の中でのワンシーン。
彼がどんなことがあろうと譲れない、その気持ち。
彼がこの信念を破ったら、生きていないことと同じなんだろうと思う。

「みせもんなんかじゃない、
人間が自然と戦って、
どこまで耐えられるか、その限界に挑むことなんだよ。
知恵と体力を振り絞って、
生きることへの限界を試すことなんだよ。

金使って近代的装備の助けを借りることがいけないって言うんだったら、
登山だって同じじゃないか。
近代的装備と集団の力さえあれば、今は登れない山なんてないよ。

でもそういう登山は、人間を歯車にしちまうんだよ。
俺が感じたいのは、たった一つのこの体。
たった一つのこの頭なんだよ。
生きる最小単位としての俺自身なんだよ。」

2008年3月5日

バナナを手に取った、そして宇宙のはじまりを知った

バナナを手に取るという日常の何気ない行動も、宇宙のはじまりも実は同じこと。
どちらにもその瞬間に次元は生まれ、世界のはじまりがある。
「バナナを手に取った、そして宇宙のはじまりを知った」

宇宙のはじまりは無だったのか?時間も空間もないとは何なのか?
人間の意識とは何か。人間というものの進化の過程はどうなっていたのか?

そんなことを語っていたときに、気がついたこと。
宇宙のはじまりって後から理由付けをしようとするからたいそうなことに思えるが、本当は何気ないことだったのではないか。
日常の一コマにある、バナナを手に取るということ。そんな行動と宇宙のはじまりは何ら変わらない。
おそらくそうなんだろうと思う。
バナナを取るという行動によっても、新たな次元が生まれ、世界が生まれている。
友達3人ですき焼きをした後、夜中まで語った水曜の夜。

まあ、これだけ読んでも意味が分からないと思いますが、この時は本当にバナナと宇宙のはじまりがつながったのです。
2008年3月5日

感動をつくれますか? 久石譲

「努力して美しきものを生み出せる人々っていう」昔のエントリーでは久石さんのことを思って書いた。

久石さんの曲では菊二郎の夏の「summer」やあの夏、いちばん静かな海「Silent Love」キッズリターン「KIDS RETURN」や「MEET AGAIN」そしてAsian Dream Songなど最高に好きな曲がいくつもある。特にsummerなんかは最高だ。自分のプロフィールの好きな音楽にも「久石譲」と書いてあるぐらいだ。

他にも好きな曲はある。久石さんの作る曲は本当に素晴らしい曲ばかりだと思う。そんな風に常に継続して素晴らしい、美しい曲を作り続けている。

そんな久石さんを見ていると、努力して音楽を作り出しているような気がする。久石さんに会ったこともなければ、話したこともない。本も読んだことがない。ただ、少しテレビで見たことがあるだけ。久石さんのことを何でイメージしたと言えば、数回のテレビと様々な映画音楽やCM音楽を作っているという事実から。

特に、映画音楽などを作っているその数やクオリティなどを勝手に自分で解釈して、久石さん像を作り上げていた。そんな風に勝手に僕が想像した彼は、努力して美しいものを作り続けられる人。ビジネスの世界でもベストな音楽を作り続けられる人。すごい人だと思っていた。そんな久石さんは、どんなことを考えて、普段どんな行動を取っているのか知りたいと考えていた。

先日、本屋でうろついていた。時間がある週末は本屋をうろつく。これが欲しいと思って本屋に行く時もあれば、何となく行くこともある。本屋が好きだから、理由もなく行く。
だいたい毎日本は読むが、毎日本を買っている訳ではないので、たまに本を大量に買うことがある。先日も10冊ぐらいまとめて買った。これで、しばらく買いにいく時間がなくてもダイジョウブなのだ。

そう、そんな目的もなくふらっと行った本屋で、いろいろと本を眺めていた。すると、久石譲「感動をつくれますか?」という文字が目に入った。僕は即買いだった。タイトルで買う時もあれば、著者名で買うことも、本文を少し読んで買うこともあるが、今回は著者名「久石譲」をみてすぐに買うことを決めた。

この本を読んで、彼はビジネスの世界で美しい音楽を作り続けることを自分の領域として割り切っていると感じた。その姿勢を尊敬した。その前の30歳ぐらいまではミニマル・ミュージックという前衛音楽を突き詰めていいたらしい。自分が完璧だと思う芸術的としての音楽を追求していた。現在の方向性とは大きく異なる。僕としては、どちらの姿勢も覚悟の決まった途轍もないことだと感じる。自分の体の奥底から湧き出てくるものを表現することも本当にすごいと思うし、何らかのオーダーがあり期日があっても美しいものを作り上げる、これもまた本当にすごいと思う。意識的に美しいものをつくり続けられる人ってすごいと思う。

本自体は文章ごとにつながりがあまりなく、分断されている感じがするし、文章もあまりうまいとも思えない。さらに、もう少しこの内容について突っ込んだ考えを読みたいと思う箇所が多いのも事実。ただ、そんなことはどうでもいい。彼は文章書きではないのだし。ただ、取り上げていることやその考えは、僕にひとつひとつが突き刺さってくる。自分もそうしたいと思っているのに、目を覆っているような自分の価値観やこうしたいという気持ち。それがいくつもいくつも書かれている。そして、それらを久石さんは実行している。圧倒的にすごい。

自分の情けなさを気づかせてくれるし、取り上げられている考えや価値観、そして行動指針のようなものを自分なりに深く考えるきっかけをくれる。僕の考えている(憧れている)価値観のかなり多くに触れられている。自分の価値観や姿勢について、ちょっと横に置いてあったことを再び考えるきっかけをくれる一冊。

一部引用

仕事は”点”ではなく”線”だ。集中して物事を考え、創作する作業を、次へまた次へとコンスタントに続けられるかどうか。 ー中略ー 優れたプロとは、継続して自分の表現をしていける人のことである。

自分の曲の最初の聴衆は自分だ。だから、自分が興奮できないようなものではダメだ。 ー中略ー 最初にして最高の聴き手は、自分自身なのである。 

理論が肥大すると、実質は瘦せる。

どうやって音を節約するか、無駄な音を省くかをひたすら考えることになった。

譜面を書かなくなったことで、逆に感覚的なものが磨かれた。譜面を書くことが作曲家の仕事ではなくて、音楽をつくる一プロセスとして譜面があるというだけ。

理念には限界がないが、現実には限りがある。

お産という冒険

テレビをつけるのは日曜の夜ぐらいだ。
日曜の夜に家にいたら、情熱大陸を見る。
信念を持って生きている人が好きだから。

先日、助産師の永原郁子さんについてテレビでやっていた。
助産院を経営していることもあって、赤ん坊を取り上げる場面が何度かあった。

それを見て思う。
冒険家に男が多い理由を。

女の人はお産という冒険をしているから、男みたいに冒険をしなくても良い。

死ぬ可能性もあるような冒険、そうではないにしてもマラソン、トライアスロン、高い山登り、これらをやるのは男が多い。
生と死を感じるために、死に近づくような行為をする男が多い。
神経を研ぎすまし、張りつめた感情を冒険に求める。
死に近づくことによって生を実感する。
男はそうやって、生きている人が多い。

お産は母親の命にも関わるようなことである。
女性はこのお産という体験があるから、死の瀬戸際をいくような冒険をしなくてもいいのだろうとおもった。

お産がまさに冒険なのだから。

ちょうど読み終わった。ポール・オースターの「ムーン・パレス」の訳者(柴田元幸)あとがきにこうあった。
「人はいったんすべてを失わなければ何も得ることはできない、とか、自分の死を実感することを通してはじめて生の可能性も見えてくる、とかいった感慨が、この小説にはくり返し出てくる」

そうなんだろうな、自分の死を実感することを通して生きている実感を得る。
以前、野口健さんがテレビで、同じ猫でも飼い猫ではなく、アフリカの大地を駆けるチーターのように生きていたいと言っていた。研ぎすまされた感覚をつねに味わっていたい、と。僕もそう思う。このムーン・パレスという本が面白いと思ったのも、この感覚を共有できたからだろう。

今日も どこかで 小田和正 ライブツアー@代々木体育館

5列目。
すぐ目の前だ。

iPodであの歌声を聴きながら会場へ向かった。
会場には5時30分に到着。
気合い十分である。
ポカリとパンを2つ食べ、準備も完了。

アリーナ席のチケットを持っている人だけ、「オンステージシート」抽選ができた。
「オンステージシート」とは小田さんとバックバンドのすぐ後ろの席。
抽選で当たれば、自分の席ではなく、すぐ後ろの席で聞くことができるのだ。
もちろん、エントリーしたが残念ながらハズレ。

気を取り直して、自分の席へ。
アリーナ席の5列目は、ステージのすぐ前。
席についてみて、自分でも驚くような場所。
ますます楽しみになってきた。

音楽を聴きながら、本を読み、しばし待つ。
観客は9割がおばちゃん。
彼女らはパワフルでうるさいのである。
だから、音楽を聴き、もちろん小田和正、本を読んだ。

6時30分。
ライトが消え、大きなスクリーンに小田さんの小さい頃からのエピソード アニメーションが流れ、ライブは始まった。
アニメーションが流れている中、僕の席のすぐ横を小田さんが小走りでステージへ駆け上った。
初めて見た小田さんは、かっこいい。ただそう思った。
スマートだなっと、そんなイメージ。

始まった。透明な声だった。
気持ちいい抜群の歌声。
突き抜ける心地よさ。

ギター一本で歌い、マイクを持ってステージを走って歌い、そしてピアノでうたった。
手拍子をして聞き、立ち上がり口ずさんでノリノリで聞き、そして静かに聞き惚れた。

前半が終わり、今回のツアーで訪れた場所での小田さんの映像が流れた。
北海道に横浜に長野にetcと。
小田さんが行った、岩手だかなんかにある一本桜というのが気になった。
青空に草っぱら、そこに一本の桜。
こんな風景を見に行きたいと。

後半のスタート。

「ダイジョウブ」「今日も どこかで」「キラキラ」そして、オフコース時代の曲。
口ずさみながら、手拍子をして楽しんでいた。

「言葉にできない」体中が寒イボができ、心がぞくっとする。
心の奥底から涙がこみ上げてくる。

ライブ中にふと、「好きなことをやっていこう」そんな風に思えてきた。
どんなことも楽しく、生きていこう。
そんな風に。
そして、星野道夫さんの文章を思い出した。
星野さんほどの強い思いではないが、自然にそんな気持ちが生まれた。

中学時代からの親友が山で遭難したのである。ー中略ー 深いスランプに陥っていた。今振り返れば、その一年はいろいろなことを考える機会だったのだろう。これからの自分の生き方、人間の一生ーー親友の死から、何か結論を見いださないと前に進めない状態だった。

 ある日、本当に突然、それが見つかった。何でもないことだった。それは、好きなことをやってゆこうという強い思いだった。と同時に十九歳のときに行ったアラスカが心の中で大きく膨らんできた。なぜなのか、もう一度アラスカに戻ろうと思った。とてつもなく大きな自然にかかわってゆきたいと思った。アラスカが本当に自分を呼んでいるような気がしたのである。
coyote 2004 november(ペンギン/1993年冬号 「アラスカからのメッセージ」)

そんなことを思いながら、楽しんでいた。
ただ、僕は「あの曲」を待ち望んでいた。
今回歌うかどうかも分からないが、今日あの曲が聴けることに賭けていた。

憧れの土地、ウユニ塩湖を追い求めて行った南米で流れ続けた曲。
あのとき、僕の脳の中でただひたすら流れ続けた曲
「あの夏の空 きらめく海も」

ライブも終盤に差し掛かった。盛り上がる曲が続いた。
そのあと、小田さんがステージのピアノに座り弾き始めた。
「緑に輝くはるか遠い日々 いつでも風のようにうたが流れてた」

ついに「風のようにうたが流れていた」だった。
この曲が聞きたかった。

ピアノと小田さんの声に吸い込まれていった。
ただただ聞きいった。
そして、懐かしい「あの夏の空 きらめく海」を思い出し、旅の記憶が蘇ってきた。
もうたまらない。
僕の全ては、この曲に集中して、涙すら出なくなるほど。

この同じ空間で、響きを感じる。
実際に触れてみないと感じない、そして生まれてこない感情ばかりだ。

そんなことを感じながら、「楽器やりたいな。サックスいいなー」とか、そんなこともぼんやりと。

ライブが終了し、2回のアンコールがあった。
最後、小田さんがピアノに座った。
「生まれ来る子供たちのために」。

この曲を聴きながら、ライブの途中のMCで、この年になると「次に、また会いましょう」と約束できなくなる。
僕以上の年齢の人は、体に気をつけて。と話していたことを思い出した。

「生まれ来る子供たちのために」

ライブが終わり、人が帰る中、席に座り会場を眺めながら余韻に浸っていた。
そして家路についた。

駅に着き、ふと空を見上げた。
昨日よりも月が輝いていた。
昨日より空気が澄み切っているのだろうか。
それとも、僕の心が昨日より澄んでいるのだろうか。

人は心を通して見ていることに改めて気づいた。

今日も どこかで 小田和正 ライブツアー2008