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俺の脳をもうひとつ作るという人工知能研究

おそらく、こんなにもブログを書き続けている人は珍しい。1万人に1人とか、もっとレアかもしれない。

さらに写真もかなり撮ってる、すなわち自分が見たことある風景のデータもたくさんある。

ライフログを自動的にとっている人だと写真データとGPSの位置データはもっとあるだろうけど、頭のなかの考えを書き記している人はそんなに多くないのだろうと思う。

で、何が言いたいかと。

こんなにデータがあれば、それを読み込ませて、俺の脳に似た人工知能作ることってできるんじゃないか?そう思うのだ。データというものは多ければ多いほど、より精度が上がるから。

世の中にある多くのデータから人工知能作る研究は良くあるけど、もし1人の脳を模倣する研究をしててデータ使いたい人がいたら提供したいって思う。日本語なんで、それを解析してる研究者に限られるので、日本人に絞られてしまいかなり限定的だが。

これらの文章や写真データを元に機械学習させて、自分とどれくらい似た意志決定するかも気になるし、自分が意思決定する前のことを人工知能に質問として出して、自分はその人工知能の答えを知らないまま自分の結論を出して合う確率とか調べたい。そうすれば、さらに精度は上がるはず。と同時に自分が今後どうなるかを予測してくれても面白い。

さらに、俺みたいなデータをたくさん残している人やfacebook、twitterなどの解析をして、自分とキャラや思想が似た人のサジェスチョンとかしても面白いな―と。この1週間ぐらい暑さになれ&涼しくなって、そんなことを無駄に考える余裕ができてきた。

お金の流れを可視化する

街を歩いていて、怪しげな募金活動をしている人がいた。これって、募金のお金を自分のポケットに入れてるんじゃないかな。そう思えてしまう。もちろん、そうじゃないかもしれないし、俺の失礼でうがった見方だけなのだが。

それをきっかけに、証明できる方法ないかなと思ってみると、もしお金にチップをつけて追跡できたら、それが判明するんだろうなと思う。まあ、当たり前だ。でも、今の時代はお金がコインとか紙じゃないことのほうが多い。データなので、そのデータの動きもすべて可視化できたらすごいことだ。

もし、世界中で受け渡しされるお金が、誰から誰に、いつ、いくら支払われたか。その通貨は何だったか、外貨と両替の場合の為替レートはいくらか、そのお金は現金かポイントかビットコインか、そんなことがすべてデータとしてある。超膨大なデータ量だが、それがあれば、世界の大きな流れが瞬時に把握できる。

経済活動の結晶でもあるし、人間の行動の結晶でもある。そのデータから何がわかるか想像もつかないぐらいで、だからこそ面白そう。

そもそもお金は価値を示す指標としてのメディア(媒体)なわけだし、世界中にいろいろな国の通貨があり、最近はポイントという企業が発行する通貨もあるわけだし、ビットコインのようなものも生まれている。

今回のギリシャ危機で、自国通貨を持っていたほうが経済政策がしやすいということが言われたが、まあそりゃそうだろうと思う。国家なりがお金をコントローラブルなほうが、ハンドリングがし易いのだから。

ただ一方で、インターネットが世界を変えた。世界がつながった。どんな情報でも知ることができるようになり、世界はいわゆるフラット化した。プログラム(コード)というもので、世界中の人が仕組みを生み出すことができ、それを広めることができる社会になった。

こんな社会だと、国境、国という単位、政治影響範囲ってなんだろうなーと思う。そういった未来社会になった時に、お金ってどういう役割になって、どんな姿をしているのだろうか。例えば、10年後とか。30年後とか。50年後とか。テクノロジーをベースとして新たなサービスや仕組みが生まれ、それを使う人間の生活スタイルがかわり、国の姿や法律もお金の姿も変わっていく。

まあ、長く続いてきたものは、それなりに本質的な価値があって、すぐにはなくならない気がするが、もしお金の流れがすべて可視化できるようになったのであれば、究極的にはつけで払って死ぬときに精算するとか、先物取り引きが超発展するとか、お金って実は価値がないんじゃないってことになるとか、今まで価値がつかなかったアートや個人の思い出の品にも価格がつくとか、究極の一物一価の法則が成立するとかetc ちょっといろいろ調べたり、真剣に考えて、友達と議論したら面白そうなネタだなと。

送信者 パプアニューギニア2011

知るということが人を変える世界を変える
http://teratown.com/blog/2015/05/14/知るということが人を変える世界を変える/

手に入りにくいものが宝ものになる。そして手に入りづらさは時によって変わる。世の中が求めるものの大きな潮流

もう10年以上の友達に会いに、先日沖縄に行った。彼とは、10年ぐらい前にイベントで同じテーブルになったのがきっかけで、その後いろんなことをしてきた。3年ほど前に沖縄に引っ越し、そして何度も会いに行っている。

二人で初めて会ったのは、新宿の思い出横丁にある居酒屋。オニオンスラシスというメニューがあった店で飲み、その7,8年後かに再び懐かしいねと、思いで横町で飲んだ記憶を思い出した。

そんな友達に会った沖縄から帰りの飛行機ではミスチルの特集が流れていた。さらに十年前に好きで聞いていた。すなわち20年前。イノセントワールドが流れる。アルバム予約して買ったなとか、プロモーションビデオを録画して見たなとか、ラジオで聞いてたなとか。カセットに録音してたなとか。それが大切で、当時は宝物だったな。と思い出す。

でも、今は思い出だけ。それらのカセットやアルバムは今は、宝物ではない。当時は永遠の宝物だと思ってだけど、宝物は変わりゆく。時を経てその事実を振り返ると、ああ、不思議だな。なんだか、人生というものを考えると、全てがいとおしくなる。

今は音楽はネットで探せば見つかる。ラジオから録音、テレビをビデオ録画、それがMDに変わり、パソコンでダウンロードしてCDに焼いたり、MP3プレイヤーが出て、iPodが出てきた、iTunesで音楽を買ったりyoutubeで聞く時代。そしてLINEmusicやapple musicなど、いつの間にかクラウドで聞く時代。いつでもどこでも手に入る。手に入るというか、所有しない時代。それは、大賛成。

でも、ありふれたものだから、大切な宝物にはなりづらい。音楽の価値が相対的に低下した。もちろん、音楽好きな人にとっては変わらないが、希少性が減り、いつでもどこでも聞けるという意味で、相対的に価値は低下した。

だからこそ、この現代社会はより不便で手に入りにくいものが、僕らの宝物になる。不可逆的な時間、今この瞬間にしかあらわれないもの、写真でも動画でも伝わりにくいもの。偶然の奇跡、自然の奇跡、人間の出会い、努力の結晶、無駄なこと、不便なこと、手で触れること、目で見ること、物語性があるもの。

体験とか、ストーリーとか、ありふれてるけど、不便で、めったに巡り会えない、めったいに手に入りにくいものが大切になる時代。もちろん、ビジネス的にも。不便だけれども、そこにストーリーがあったり、感情移入できるものが存在する何かが宝物になり商品価値がつく。

闘牛を見ても、体験だと思ったな。本気のぶつかり合い。舌だしは、辛い証拠。牛も、はやし立てる男たちもアドレナリンマックスで、戦う。動かない拮抗した戦い。その末の、勝負が決まるドラマ。食い入るように見た!次は徳之島で、闘牛見たくなった。

そして、2年前は小さかったうりちゃんは、大きくなってた。言葉を話すようになって、女の子らしくなっていた。すべては変わる、未来はわからないし、でも、いろんな生き方があり、そこには全て宝物になる種が存在している。
 

本当に価値あるものと市場価値が高いものは反比例すると昔書いたブログ

介護が抱える課題

別に介護の専門家でもないが、自分の年令、仕事でちょっと介護のことに触れる、なによりもNHKスペシャルで2,3年前に放送された相田さんがお母さんを介護するのを録画し続けた番組を見たから。電子立国などを作った相田さんの番組で、一時期相田さんが大学でゼミを持っていた頃のゼミ生が友達に多いので、その友達と一緒に番組を見た。番組で流れる情報よりも、生々しい話を聞きながら。

そんなこんなで、素人目線ながら介護が抱える課題ってとてつもなく大きく、このまま改善していくレベルでは何も解決しないだろうなと思う。

認知症 × 介護とか本当に大変だ。1,2年じゃなく10年単位とか。それは病院や施設に入れるにしても金銭的に、自身の両親をという精神的な面も。

何が大変にしているかといえば、以下の様なこと。

・認知症 × 介護
・介護従事者の疲弊(労働時間も給料も)
・老々介護
・一部の人への負担集中
・お金がかかりすぎる(施設に入ると月に25万とか)

で、なんでこのような問題が起こったかを考えると、以下の様なことが考えられる。

・医療の発達(死ぬタイミングで死なず治療で復帰する。長生き出来てしまう社会)
・核家族化(地方と東京に別れて住む。日本と海外など)
・後期高齢者でも独身が増えている時代(その人って誰が見るの?)
・独身の人が増えると、一部結婚して子供がいるその子供に両親+両親の兄弟も
・独身の兄弟が早く介護が必要になるリスク(65歳で85の両親を介護しながら70歳の兄弟を介護とか)

自分が直接目にしていないし、正確なデータを取っていないので不確かなことが多いが。

さらに、自分ではどうしようもないことだ。大学入試にしろ個人の努力、独り立ちして食べていけるかどうかも個人の努力、健康でいるために適度な運動・禁煙も個人の努力。でも、介護は周りの人の問題で、自分が何をしても完全に回避はできない。

ただ、自分が努力して対応できることは3つ。

・すごく金を稼ぐ
 →関係者が全員施設に入ってもOKな資金を貯める
 →自分がずっと介護して、稼ぎがなくても介護できる余力を作る

・できるだけ介護がいらないように、関係者を啓蒙し続ける
 →認知症にならないように、頭をつかう習慣をつけるように促す
 →定期的な検診など

・自分が介護が必要にならないように努力
 →適度な運動、禁煙、脳を使うなど

もちろん、自分が努力したからって、絶対に介護が必要な状態にならないとはいないが、極力努力をする。日本中の人がこれをやると、少しは改善するはず。でも、根本解決にはいたらない。

じゃあ昔って、介護はどうなっていたのか。50年前、100年前、200年前は?海外の事例は?気になることばかりであるが、いったん今日は今までの自分の知識と論理建てて考えた範囲内で書いてみる。

おそらく、3,4人を長期間介護することは金銭的にも精神的にも、肉体的にもほぼ不可能。でも、そうなる可能性っていくらでもある。人生で自分の両親どちらか一人ぐらいなら介護ができても、それ以上はお手上げ。両親、両親の独身兄弟、配偶者の両親、配偶者の独身兄弟、長生きした祖母・祖父の世代、早く介護が必要になる自身の兄弟、早く介護が必要になる配偶者の兄弟、数えていけばきりがないし、全てが同時に起こることだってある。

施設に入ったとしよう25万円/月×12ヶ月=300万円 10年間施設に入ったとして、3000万円。それが4人だったとしたら、1.2億円。さて、日本中で誰が払えるのでしょう?逆に、家族で介護したとしても、同時に3人、4人の介護って不可能に近い。違うところに住んでいたら?自分の子供が小さくて、そっちも大変だったら?普通の人はお金がないし、自分でやるにもノイローゼになる人多数だろう。

考えれば考えるほどバッドシナリオが思い浮かぶ。そもそも、なんでこんなことになったか。改善とかいうレベルだけでは、何も解決しない。日本がかかえる相当な課題だ。が、解決のための施策が実施されているとは思えない。

今の正しいとされている倫理感がおかしいのかもしれない。根本的に変える必要がでてきていて、でも、すぐには変わらないだろう。なぜだ?介護に直面する人は65歳で85歳の両親の介護とか70歳で92歳の介護といった老々介護が多いのも事実。介護する側が不満を持っても、アクションを起こすエネルギーもなくなっているし、抜本的なアイディアが生まれて実行まではいたらない。介護従事者もとても忙しすぎるし、介護従事者になる方は、人間的にやさしくて、ビジネスゴリゴリで、制度まで変えてやろうって人が少なそう。

じゃあ、昔はこういった問題があまりなかったとしよう。もしかしたら、あったけれどネットもないし、公に話しもしないので表に出なかっただけかもしれないが。まあ、徐々にこういった介護の問題が発生した理由を考えてみる。

・医療が発達しすぎて、死ぬタイミングで死なず、なんとか生き延びることができる。
・死が遠いところに行った。身近での死が減ったので、死をタブー視する風潮が加速。(マスコミや)
 →死を迎えればいいのに、そういうことが悪いことのように捉えるようになった社会

もちろん、死は辛い。自分は死にたくないし、身近な人には死んでほしくない。人間がつらいものを遠ざけるのは普通で。そりゃそうだ。より快適に、心地よく暮らしたい。当たり前。でもそれは不自然なことで、本来は辛いことがあるのが当たり前で、死があるからこそ、子供を可愛がれる気がする。死があるからこそ、子供を生む機能が生き物に備わっている。強いものが残り、弱いものは淘汰される。こいった当たり前の自然の仕組みからそれてしまった。

じゃあ、これらの発生原因を取り除いて、解決するしかない。その方法は2つ。

完全なる不老不死を科学技術で実現する。その代わり次の世代は産まない。
もしくは、食料とか地球環境が何百億人でも耐えられる仕組みを作り上げる。

もしくは、何らかの線引をして死を受け入れる社会にする。死を促す社会にする。科学技術がそこまで発達していない国では、実質的に死を促すことが結果的に起こっていたりする。これは、死ぬべき時にしっかり死ぬという社会の価値観を作ること。

これって、すぐにはムリだろうけど、俺の思いつきで適当なアイディアじゃなくても、本当に抜本的に変えないとますます問題は大きくなり、日本という国家は本当に厳しくなる。介護にお金がかかりすぎ、国の負担が膨れ上がる。労働人口が少ないのにその労働力が介護にまわっていく。介護以外の生産的な経済活動が滞る。まあ、今が一番人口構成比的にも厳しい局面だし、過渡期なんだろうから、これからは良くなるしかないという心をもって、自分にできることをやって、社会の仕組みを変えることを働きかける。これしかないんだな。政治的に制度を変え、マスコミ含めて国民の意識を変えて、今の介護を変えると。

立ち直れるギリギリの範囲の絶望

こんなことを昔twitterに書いていた。

「立ち直れるギリギリの範囲の絶望」

自分で、読み返していい言葉だなと思った笑。自画自賛w

それの繰り返しで、人は未知の世界にいける。

届きそうでぎりぎり届かない世界

見えそうで、見えない世界

だからこそ、立ち向かう

うまくいくことも失敗することも

どちらの結果になろうとも、そうチャレンジしないと見えない世界がある。

立ち直れるギリギリの範囲の絶望って、実は世界を明るく、面白くする第一歩。

送信者 TEAMJAPON