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考えれば理解できることだけど、想像もしない仮定で世界はあふれている

推論というものがある。

状況を理解し、そこで起こることを筋道立てて考え、経験のないことをイメージする。推測する。
これは、人間が持つ重要な能力の一つだと思っている。

でも、考えれば分かるけれど、考えるきっかけとなる状況の前提(仮定)が世の中には無数にあって、その状況の前提(仮定)を認識することがないものが大半だ。そのため、結局のところ考えれば理解できるけれど、想像もできないことばかりで世界は溢れている。

ただ、考えれば理解できちゃったりもするので、結論を聞いてそんなん当たり前じゃんと、自分がその仮定を思いつかなかったことを棚に上げて、そういった発言が多々飛び出すのだと思う。

本来、自分が想像もしなかった新たな前提(仮定)に出会うと、人間の脳は活性化する気がする。仮定を言われて、そんなん当たり前ジャンというのではなく、その仮定を前提に、どんな事が起こるのかと考えを巡らすことの楽しさ、脳の刺激は、そこにある。

どれだけ多くの前提(仮定)に出会えるか。これが、楽しみでもあったりする。

出会うだけじゃなくて、より多くの前提(仮定)をほんとうの意味で理解できるようになるために、多様な経験、ひとつの物事の深い経験を積むかが鍵となる。

仕事でもそう。やったことある仕事は、いつも限られている。常に新しい状況の連続。だからこそ、今の状況を短期間で把握して、その状況を自分の頭のなかで整理する。それらを踏まえて、成し遂げたいことにいかに近づけるかを考え、施策を決めて実行、実行、愚直に実行しつづける。みたいな。

先日、5人姉妹という人にあって、お風呂が3時間待ちだと話していた。まるでテレビに出る大家族のようだ。5人もそれも女子ばかりいたら、確かに大変そうなのは想像できるが、自分の普段の生活とはかけ離れているので、そんな家族構成という前提(仮定)を想像もしたことがなかった。

同様に、トレランで100マイル40時間以上も走るって、日常の生活をしている一般の人は、この前提(仮定)を想像すらしないだろう。ノーベル賞を受賞した後の、自分を取り巻く環境の変化を想像すらしないし、まあ、そんな仮定で世界はあふれていて、自分にとっては仮定の世界でも、この世界に生きる誰かにとっては仮定でも何でもなく、それが目の前の現実なのである。だからこそ、より考えもしない仮定をイメージしながら、いろいろな人と接していきたいと思う。

http://teratown.com/blog/2012/11/27/naiaeeoaeyaectheiinai/

新たなスター誕生

もっぱら音楽はyoutubeで聞く。レースに向けて今回も聞いていた。

ふと、気づいた。
特に洋楽でだが、有名な曲を若手がカバーしてる。それも、かなり歌唱力がある人。そして、キャッチーなアレンジ。

有名な曲だし、アレンジがライブっぽかったりと、ついついいろんなパターンを聞く。

そっか、若手の歌手が、自分を売り出す方法が、有名な曲のカバーをする。そして、yotubeにアップする事なんだ。

理由を考えれば簡単だった。メインのプラットフォームの仕組みを知り、それを踏まえて先手でやることが重要。

yotubeは、関連動画をレコメンドする。有名な曲はたくさん再生される。カバーは、有名な曲と同じ曲なんで、レコメンドされる可能性がたかい。無名の新人でも、有名な曲のカバーならレコメンドされる。

すると、聞いてもらえる可能性がたかくなる。上手ければ、さらに聞いてもらえる。そして、名前が知れ渡り、オリジナル曲も聞いてもらえる。売れる。

面白いなー。洋楽は、やけにいいカバーがあると思ったら、こんな理由なんじゃないかな?邦楽はそんなにカバーがない気がするが、そのうち増えるかな。

CDが売れなくなった時に、コスト削減でカバーアルバムがたくさん出たのとは違う理由だ。

面白いなー。型は行動を規定する。メインプラットフォームの仕組みを踏まえて、先手で仕掛けることがビジネスの基本だなとつくづく思う。

職業としての小説家ではないが、趣味としての小説家になってみたい

村上春樹『職業としての小説家』

村上春樹さんとの出会いは、走り始めた頃に、「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んで感銘を受けたことだ。普通は小説から入ることが多いかもしれないが、僕は走ることについて語ったエッセイが出会いの一冊だった。走ることにハマり始めたタイミングということもあって、村上さんが走ることに対する思いや理由、そして走っている時に感じる感情の機微を、細かに表現されていて、強く共感したことを覚えている。その後、いくつかの小説やエッセイを続けて読んだ。が、僕の中で「走ることについて語るときに僕の語ること」を超える作品はなかった。

数年、村上さんの作品を読んでいなかったが、ずっと気になる存在であることは変わりなく、新作が出ると気になっていた。

2,3ヶ月ほど前、クリエイティブライティングでお世話になった新井さんと食事をしていると、社運をかけて村上春樹さんの「職業としての小説家」という本を作り上げた。と話してくれた。本や雑誌不況の中、新井さんはSWITCH、coyoteの編集長をし、MONKEYという雑誌もSWITCH PUBLISHINGから出している。単行本も毎年いくつか。20年前のように雑誌が売れる時代でもないし、広告もつきにくい。coyoteも一回休刊している。しかし、新井さんの思いが復刊へと導いたほど。

そんな時代背景の中、村上春樹さんの本を出すという。出版業界の中では、村上春樹さんは大御所で前払い制というのはよく知られているし、普通の作家よりも取り分が多いというのは周知の事実。ただ、そんな目先のお金のことよりも、新井さんは村上春樹さんの「職業としての小説家」を世に出したかったのだろう。もっと私的な視点で言えば、新井さんが小説家としての村上さんの考えを聞いてみたかった、知りたかったということなのかもしれない。

新井さんと話しながら、新井さんの編集者、インタビュアーとしての強い思いを感じたのだった。出た際には、すぐに買って読もうと思っていた。

しばらくして、茂木さんが、職業としての小説家を献本されて、非常に良いとFacebookに書いていた。あまり、この本が良いと書く人でもないので、本当にいい本だと思ったのだろう。茂木さんもしばらく前から、小説を書きたいと話していたから、ちょうどこの本が刺さったのかもしれない。

販売初日に本屋へ買いに行ったら、帯に柴田元幸さんのコメントが。ムーンパレスなど大好きな小説の翻訳者だ。ああ、揃った。これだけ、好きな人が揃う本ってないなと。

さっそく、楽しく読ませてもらった。

改めて思うのが、村上春樹さんの世界の捉え方が好きだ。この世界をどのように見ているか、どのように解釈しているか、そしてどのようなスタンスをとるか。自分の価値観、考えに基づいて独立しており、でも世界の強い部分も弱い部分も含めて、等しく捉えてやさしく包み込む。いがみ合うのではなく、妬み合うのではなく、正々堂々と前を向いて生きていこうじゃないか。そのためにも、そして口だけじゃなく、自らを律している姿勢がなんとも清々しい。

だいたいにおいて、人をの好き嫌いは世界の捉え方、そしてそれを踏まえてどう行動しているか。これが、素敵な人や共感できる人を好きになるんだなと、この本を読んでいて思った。

そして、僕は小説家ではないが、小説を書いてみたいと思い始めた。本を3分の2ほど読んだ頃、ふと小説というスタイルで表現してみたいと突然ふってきたのだ。

どんなことであろうと、なかなか考えていることが伝わらない。仕事でも趣味でも、プライベートでも、これは、誰しもそうで、永遠に自分の思いは伝わらないものだ。そんなことは、分かっている。具体的な例や喩え話をつかって伝わりやすくする。手段としては正しいが、これでも伝わらない。何をしても伝わらないのは分かっているが、僕の表現のような説明的な文章だけではなく、ストーリーや世界観を醸成したうえで、メッセージを伝える小説的なアプローチも試してみたいな。そう思ったのだ。

もちろん、絵やスポーツ、音楽も同様にアプローチのひとつではあるが、この本を読んで小説というものを書きたくなった。

ドッグイヤーを無数につけたので、気になった文章を引用しきれない。。。ということで、ぱっと開いたページの言葉

P42

しかし、理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニー(epiphany)という言葉があります。日本語に訳せば「本質の突然の顕現「直感的な真実把握」というようなむずかしいことになります。平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによって物事の様相がいっぺんしてしまう」という感じです。

P98

これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。もしあなたが何かを自分にとって重要だと思える行為に従事していて、もしそこに自然発生的な楽しさや喜びを見出すことができなければ、それをやりながら胸がわくわくしてこなければ、そこには何か間違ったもの、不調和なものがあるということになりそうです。そういうときはもう一度最初に戻って、楽しさを邪魔している余分な部品、不自然な要素を、かたっぱしから放り出していかなくてはなりません。

P141

長い仕事をするときには、規則性が大切な意味を持ってくるからです。かけるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません、だからタイムカードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。

P187

僕は生きて成長していく過程の中で、試行錯誤を重ねつつ、僕自身のやり方をなんとか見つけていきました。

P238

だからこそ僕は、いろんなサイズの自分のものではない靴に自分の足を入れ、それによって、今個々にある自分を総合的に検証していることになるのかもしれません。

P285

現実社会のリアリティーと物語のリアリティーは、人の魂の中で(あるいは無意識の中で)避けがたく通底しているものなのです。どのような時代に会っても、大きな事件が起こって社会のリアリティーが大きくシフトするとき、それは物語のリアリティーのシフトを、いわば裏打ちのように要求します。
物語というのはもともと現実のメタファーとして存在するものですし、人々は変動する周囲の現実のシステムに追いつくために、あるいはそこから振り落とされないために、自らの内なる場所に据えるべき新たな物語=新たなメタファー・システムを必要とします。その2つのシステムを上手く連結させることによって、言い換えるなら主観世界と客観世界を行き来させ、相互にアジャストさせることによって、人々は不確かな現実をなんとか受容し、正気を保っていくことができるのです。

P304

ちなみに僕の場合の「悪魔祓い」は走ることです。かれこれ三十年ほど走り続けているんですが、毎日外に出て走ることで、僕は小説を書くことで絡みついてくる「負の気配」をふるい落としているような気がします。

P304

僕らが会って話をして、でも何を話したかほとんど覚えてないと、さっき申し上げたわけですが、実を言えば、それは本当はどうでもいいことなんじゃないかと思っているんです。そこにあったいちばん大事なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。我々は何を共有していたか?ひとことで言えば、おそらく物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。

文字が文字である必要がなくなる日

TOEICで鉛筆かシャープペン、そして消しゴムが必要になり、探してみた。
すると、見つからない。

やっとこさ見つかったのは、10年以上前にスタンフォード大学で買ったシャープペン。グリップのゴムがネチョネチョするぐらい、使っていなかったようだ。

そうか、文字を書いて消すということがなくなった。おそらく10年以上は書いて消してという作業をほぼしていない。

あるとすれば、ホワイトボードぐらい。あとは、旅に出た時はボールペンで日記をつけるが、それ以外はすべてキーボードによるタイピングだ。

タイピング95%、ボールペン2%、ホワイトボード2%、その他(鉛筆・筆ペンなど)1%ぐらいか。直感的で、エビデンスがあるわけではない。

そっか、あたりまえだけど鉛筆で字を書かなくなったなと思う。それをきっかけにいろいろ考えていたら、文字が文字である必要がないのではないかと思えてきた。

本→新聞→雑誌→テレビ→漫画→アニメ
ホームページ→ブログ→2ch→SNS→twitter→LINEのスタンプ→vineなどの動画

テキストコミュニケーションはなくなりはしないが、よりテキスト量は減り、絵や動画のような非文字情報が増えていっている。それは、主に雰囲気や感情を伝える場合に多用される気もする。多分この流れは継続するはず。そう考えると面白いもんで、人間が文字を発明する前は、壁に絵を書いて記録していた。それが再び複雑な文字を経て、絵に回帰しようとしているのだろうか。もともと、絵だと直感的に言葉がなくても伝わるから、古代の人は絵を描き、記録した。しかし、人間が絵を描くのに時間がかかるし効率が悪い、人によって絵の上手い下手もあるだろうから誤解の可能性もある。ということで、簡易的な文字が生まれたと推測される。文字は、上手い下手はあるが、指し示すものは特定のものに限るので、誤認のリスクも減ると。

ただ、再び文字から絵に回帰しているのは、デジタルの世界が発展し、絵を人が描かなくてもキリンと入れれば動物のキリンの絵が変換されて出る時代だから。で、なんで、同じキリンを示すのに、絵が使われるか。より多くの情報を絵が持っているからだろう。キリンにしても、大人のキリンか子供のキリンかは「キリン」だけでは分からないが、絵なら1発で分かる。走っているキリン、何かを食べているキリン、それも1つの絵で完結する。さらに、キリンは1つの動物をさすが、イメージするものがずれるリスクが有る。絵を示せば、イメージがずれるリスクが減る。こんな理由ぐらいか?あとは、絵の方がかわいいとか、絵の方が言いづらいことでも言いやすいとかかな。

まあ、白川静先生の本を読むと、この辺りも書いてあるのかな。買って読んでない本でも読んでみよう。

で、話を本題に戻す。手で文字を書かなくなったということは、今のような文字でなくてもいいと思うのだ。あれは、手で鉛筆や筆で書くのに適している文字。筆で書く文字のスタイルと鉛筆で書く文字は、同じ漢字などの文字でもスタイルが違う。行書体とか楷書体とか。英語もブロック体と筆記体とか。

ということは、これだけキーボードでタイピングする時代になったのであれば、今の文字というものがぜんぜん違うスタイル(形)になってもいいのではないか。

すでに、ビールと入れれば、LINEなどはジョッキビールのイラストやスタンプが出るが、これがもっともっと進化すれば、文字コミュニケーション(聞くのではなく、見るコミュニケーション)における、文字の形は変わってもいい。

あくまで、手で書くのに適したスタイル(形)が今の文字であっただけなので。それは、絵文字かもしれないし、もっと情報量の多い新しい文字かもしれない。新しい文字(現在の文字に取って代わるサイン)が発明される日も、実はそう遠くないのかなと思う。

僕らは記憶を見て生きてきた

見えないものを、見えると思い込んでいた。
明るい世界から、真っ暗な闇の世界へ。
特に、見えるとか見えないとか意識することなく、その明暗の異なる世界を行き来する。

真っ暗な闇の世界は本来見えないはずだ。
でも、見えると思い込んでいた。

見えないのに見えると思い込んでいるということは、何かしらを見ていたわけだとも考えられる。
その何かしらとは、記憶だと思う。

おそらく15年だか20年ぐらい、真っ暗にしてお風呂に入っている。
湯船に浸かる身体・精神へのプラス影響とか、1日一回真っ暗な空間で視覚を閉ざし、無になることのメリットは計り知れないと思っているのだが、いつも書いていることだから、今回はさておき。

真っ暗な風呂の中で何も見えないはずなのに、見えていると思い込んでいたのは、記憶を見ていたことにほかならない。

そうか、人間は今を見ていると思っているけれど、日常生活でも半分ぐらいは記憶を見ているんじゃないかと。特に日常のよく見る風景は、目の前の出来事をほぼ見ていなくて、記憶を見ている。だからこそ、歩きスマホができたりする。記憶の地図(空間地図)を頼りに自動車や人だけを見ている。過去の地図と今の人や車の動きを重ねあわせてみているから、実質的に視覚および視覚に伴う脳の利用率は低くなる。本来なら空間を見ていた視覚とそれに伴う脳はスマホに使われている。

ついでに、初めて訪れる場所や景色に興奮する。南の島の少年が雪を見る。山奥に住んでいた少女が海を見る。砂漠を見る、ジャングルを見る。新しい刺激を脳が受ける。その瞬間は記憶の映像や空間記憶が全くない世界だから興奮する。ただ、似たような景色であれば、過去の類似イメージ記憶が想起され、衝撃だとか刺激は少ない。

ああ、僕らは記憶を見て生きていて、今を生きているということには変わりないんだけれど、同時に過去も生きているんだなって思った。そんなことを風呂に浸かりながら考えていた。

http://teratown.com/blog/2015/06/28/見えない世界を見る/