「art」カテゴリーアーカイブ

無題(母型) 内藤礼 横浜トリエンナーレ2008@三渓園

本当はいくらでもあるのだが、静かな場所がない。

そんな賑やかな社会に、静かな空間を作り出し、自然と細やかな動きに注目させる。そしていつの間にか引き込まれている。小さな動きに見とれる。小さな動きに気づく。

紅葉したイチョウやモミジの葉が鮮やかな園内にある、古びた小さな茶室に「無題(母型) 」は展示されていた。天井からつるされたピアノ線(or釣り糸のようなもの)は、最下部におおきな輪が作られていた。輪の結び目には透明なビーズ(の様なもの)が着いており、天井からビーズまでの糸は一本まっすぐ、ほとんど揺れることもなく垂直に降りていた。ビーズの下にある輪は、電熱コイル2つから発せられる暖かい上昇気流によってカオスでありながら、意思があるように、生きているかのように揺れ動いていた。それは何かが始まる最も初期段階の小さな変化、ゆらぎのように感じた。まるで宇宙の始まりのゆらぎのようなエネルギーを感じた。細やかな動きの中に最も躍動的なエネルギーが詰まっていた。

電熱コイルと動く糸を見て、熱気球を思い浮かべた。つい最近熱気球を見たばかりなのだろう。暖かい空気は上へと昇っていく、その力を利用して熱気球は空を飛ぶ。ゆっくりとふわりと空へと昇っていく。内藤さんの今回の作品も、電熱コイルで空気が暖められ、上昇する力を使った作品となっていた。同じ原理を使ったもの同士として、関係性を感じたのであろう。どちらも柔らかな存在でありながら、力強さを持っている。

そして、雲の糸にぶら下がった枯れ葉を眺めていた日のことを思い出した。木の枝から伸びる蜘蛛の糸に枯葉がからみつき、風に揺れていた。そんな枯葉の一定ではない動きをベンチに座りながら眺めたことを思い出す。

作品を見ていると、引き込まれていき、何も考えず、ただ見ていた。引き込まれるという表現は大げさな表現なきがする。ただ対流によって動く糸を眺めていてしまう。何かを考えているわけでもなく、自由に動く糸を眺め、部屋に入る光をを感じ取る。部屋に差し込む光を通して何か遠くにある存在、翻って自分を見ている。そんなことを思いめぐらしながら、ぼんやりと見ていた。気がつくと時間が経っていた。こう言った方が良い。後ろを振り返ると人が並んでいたことを思い出して、あ、迷惑をかけたかも知れないとドキッとした。誰もいなければ、ただ見続けていただろう。

横浜トリエンナーレは前回も行ったのだが、あまりコレといった印象がなかったので、今回は行く予定がなかった。しかし、最終日前日に友達から三渓園の内藤礼さんの作品(無題-母型-)がすばらしいと聞き、行くことにした。

人が多すぎることを除いて、三渓園はすばらしい場所であった。紅葉のシーズンでもあり、園内を楽しむことができた。かやぶきの家に色づいた紅葉とそれを照らす光。

http://yokohamatriennale.jp/2008/ja/artist/naito/

見てはいけない写真

星野道夫さんの「イニュニック 生命―アラスカの原野を旅する」」に書かれているし、池澤夏樹さんが星野さんについて書いた「旅をした人―星野道夫の生と死」(P310)にも書かれている。星野道夫さんがアラスカの大地で、カリブーの群れを10年近く追い求め、やっと撮れた写真がそれだ。アークティック・オデッセイ―遥かなる極北の記憶という、すばらしい写真集にその写真はある。

この写真のストーリーを知り、本を読みながら頭に浮かんだこと。それが「この写真は見てはいけなかったのではないか」ということ。見てはいけないという訳ではないのだが、どれだけの偶然の積み重ねで起こったことなのか、どれだけ待ち続けないと出会えない風景なのかを勘違いしてしまう。言葉で聞いたり、10年ずっと追い求めて撮影できたと想像しても、想像したレベルのことではないはずだ。それなのに、写真集をめくればその風景に出会える。これは凄くありがたいことだし、幸せなこと。その写真から感じ取れることもたくさんあるし、作者の想いもあるから写真集になっているのだろうから。

ただ写真で簡単に見れてしまうと、その写真一枚に出会うための年月を忘れて見てしまう。こうすることによって、その風景を安直に捉えてしまう可能性がある。それが良くないんじゃないかと思う。本来それが持っている意味とか価値とか時間の流れを過少に捉えてしまうことがある。もちろん、そうすることによって、慈しむ心を失ってしまうのではないか。そして、実際に大切に出来なくなってしまうのではないかということが最も大きな危惧っである。

「見てはいけない写真」これは写真に限ったことではなく、映像であろうと何であろうと。「見てはいけない写真」を見ることは、現代のような文明や科学技術が発達していなければ見ることが出来ないものを見るということ。そういったものを見る世界と「島の時間」、小さな島の世界は相反するものだと思う。そこにあるものしか見ない世界が「島の時間」に近いのだと思う。特に島のおじいやおばあに関しては。その世界はどんなコトをも慈しむことが出来る心を持っている。だからこそ、島では知らぬ間に、落ち着いている。「見てはいけない写真」を見ない生活がそこにはある。

でも僕は「見てはいけない写真」をこれからも見続けるだろう。それは未知なるものに対する好奇心を押し殺すことなんて出来そうにもないからだ。でも、こうも思う。写真家を肯定するかのように、自分を許すかのように。「見てはいけない写真」その域に達する写真であれば、撮影者がその1枚に時間の流れや偶然性など、背景にあるものもすべて表現しているのではないか。だから、見る者は写真をただ素直に見れば良いのだと。頭の片隅で写真の背景を思い描きながら。


島にしかない時間
http://teratown.com/blog/2008/10/28/aceetho/

送信者 八重山2008

[静寂の海](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 200 露出: 1/320 秒 絞り: f/6.3 焦点距離: 16mm)

圧巻である

「高画質で見るとひとしお」とメールが送られてきた。
マットハーディングのムービーだ。マットは世界中で踊った映像をまとめてyoutubeで流した人だ。
彼については何度か書いている。
http://teratown.com/blog/2007/04/07/eeecauiic/
http://teratown.com/blog/2006/07/21/ethaaiaieaaauaiyyaeye/

その映像が高画質で見られるという。そういえば、ネットのどこかのサイトでyoutubeを高画質で見る技が話題になっていた。
そこで、高画質の映像を見た。ああ、圧巻だ。以前にも見たことがあるものでも、高画質で大画面で見るとこんなにも印象が違うのか。

20インチだか22インチだかの家のマックでフルスクリーンで見ると、いいもんだ。
ああ、旅って良いねと思う。そうそう、年末は久しぶりに海外へ2週間ほど行こうと思っているし。

ついでに、ビリージョエル(Billy Joel)のコンサートに行ってきた。東京ドームのコンサートは初めて。大学の2、3年ぐらいにBilly joelは良く聞いていた。彼のメロディーラインが好きなのだ。
生で聞くと違う。圧巻だ。スケールがでかい。波のように伝わってくる振動。観客一人一人の声や動きの重なり。閉じられたドームという空間で、数万人がステージに集中しているという統一感。

映像の画質が良いかどうか何て、ささいなことに感じるんだけど、実際にその映像を見ると感じられるものは全く違う。同じ映像でも高画質と低画質ではここまで、沸き立つ感情が違うのかとも驚く。もちろん、ビリージョエルの生の演奏とスピーカーでも全く違う。

ああ、クオリティの高いもの、本物とは実にいいなと思った日であった。

ちなみに、ブログに貼付けられている、下の映像は低画質バージョンです。

作るという行為が自分に与える影響

作るという行為が自分に与える影響は計り知れない。
それは作りはじめる前の想像という行為、
作っている最中の試行錯誤し手を動かすという行為、
出来上がったものを見る、触れるという行為。
これらを通しての影響。

料理。それが僕を「作ると言う行為」に目覚めさせた。
それは言い過ぎだが、料理を作るということを通して、作ることが与える影響を考えた。

まあ、僕にとっては写真も「作ると言う行為」の一部だろう。
こうして文章を書くことも。

何かを作るときのきっかけは数限りない。
心を躍らされるモノに出会い自分でも作りたくなった、友だちの話を聞いて、社会に苛立ちを感じそれを主張するために、純粋に作りたい衝動が沸き上がって、想いを伝えるために、作るためにイメージすることが楽しくて、落ち着かなくて手を動かしたくて、心が折れた時の気晴らし。こんな時に何かを作りたくなる。

それがどんな理由であろうと、自分の心という実態の見えないものを、実際にモノを作り、目に見えて手で触れられるモノを通して心を見る。
自分の心がその作ったモノには表れるとおもう。
ワクワクしている時、心が風邪を引いた時、苛立っている時。

箱庭療法については詳しく知らないが、箱庭を作るということもそう言うことなのかな。

そんな自分の見えない気持ちを形あるモノとして見たいから何かモノを作るのかもしれない。
そして、自分の心にあって溜まり続けていたものを、自分の外に出すために、実存するモノを作る。
いくら話しても溜まったものはゼロにはならないが、作り実存するモノとなり外へ出て行く気がする。
だからカタチあるものを作る。

色々と考えて、アイディアを出したものが、実際にカタチとなって外に投げ出される。
投げ出されたモノは自分でも見ることが出来るし、さわることも出来る。
そして、また自分の中に入ってゆく。
再び作るという循環。

こんな文章を書いていたら、迷ったときはモノに帰れということを思い出した。1年ほど前の銀座でのこと。
「行き詰ったら、物に帰れ!」

http://teratown.com/blog/2007/11/04/yuyeyeyeaiaaiaiaiethaae/

送信者 いろいろ

[作る。毎日少しずつ、毎日少しずつ。](PENTAX K10D DA18-55mm ISO: 1600 露出: 1/125 sec 絞り: f/5.6 焦点距離: 55mm)

探検とは、知的情熱の肉体的表現なのだ

「探検とは、知的情熱の肉体的表現なのだ。」
「Exploration is the physical expression of the intellectual passion」(A. Cherry-Gar-rad)

「あなたが知識への欲望を抱き、それを自分の肉体で表現する力を持っているなら、迷わず外の世界に飛び出してゆくべきだ。・・・略・・・
多くの人々は、「行って何になるんだ?」と問うだろう。私たちは資本主義社会に暮らしている。目の前の利益に直接結びつかないことに夢中になったり、金を生まないことに目を向ける者はめったにいない。だから、あなたはほとんどの場合、結局は一人でソリを引くことになるだろう。もちろん、いっしょにソリを引いてくれる仲間がいたとしたら素晴らしいことだ。その仲間こそ、あなたがもっとも大切にすべき人間だろう。
今こそ、大いなる旅に出発しよう。得るものは必ずある。それが、結果的にはたったひとつのペンギンの卵であったとしてもだ。
五人の男たちは、吹き荒れるブリザードの中で、今でも私たちを旅に誘っている。私たちに知的情熱があるかぎり、未知の場所への旅や探検への欲求があるかぎり、スコット探検隊は私たちの中で永遠に生き続けるのだ。(世界最悪の旅)」

何も言うことはありません。
無駄な言葉なんて付け加える意味がない。

送信者 雲取山08

[自らの肉体をもってのみ理解できること](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 100 露出: 1/500 sec 絞り: f/5.0 焦点距離: 45mm)