「art」カテゴリーアーカイブ

「幻の光」「ワンダフルライフ」是枝裕和監督

「幻の光」’95
「ワンダフルライフ」’98
「誰も知らない」’04
「歩いても歩いても」’08

ツタヤにあった是枝監督の4つの作品を全て借りてきた。4作品借りて、作品の公開順に見はじめた。

作品発表順に「幻の光」’95と「ワンダフルライフ」’98を、まずは見終わった。一人の監督作品を立て続けてみたのは初めてだ。

そもそも映画をあまり見に行くことがない。
DVDもほとんど借りたことがなく、久しぶりにレンタルカードを作り、DVDを借りた。

大学時代に一時期DVDを見ていたことがある。理由はあまりにも映画を見たことがないので、人並み程度に映画も見なければと思い見ていたことがあるのだ。ただ、習慣化することはなかった。
だからといって、映画が嫌いな訳では全くないのだが、本や音楽や写真のように常に手元にある友達には今のところ至っていない。

話しを戻そう。是枝裕和監督は知らなかったが、監督の映画は様々な映画賞を受賞したというニュースで知っていた。その程度であった。今回、是枝監督の作品を見るきっかけ(是枝監督にお会いするのだが、その理由はまた書きます)があったので、立て続けに見た。

以下その感想。

幻の光

夫を自殺で失った一人の女性の喪の作業(グリーフワーク)の過程を、心理描写を廃したロングショットの積み重ねによって描いていく-。

自転車の鍵とその鈴がこの映画全体をひとつにしている。映画全体につながりを持たせている。後半に出てくるこの鍵や鈴の音で、映画の前半のシーンの記憶を呼び覚まし、映画全体をつなげている。

映画の終わりに近づいたシーン。

なんで自殺したか分からん。
あのときに何で線路を歩いとったのかがわからん。
あんた分かる?

海に誘われることがあるって親父が言うとった。

このシーンが強く印象に残った。

ついでにカメラの構図が好きだった。

ワンダフルライフ

人生のたった一つの思いで。その思い出を胸にあの世へ行く。
上記の幻の光とワンダフルライフの2作を見て、死との関わり方というテーマを描いている監督なんだなという気がした。こういったテーマにも関わらず、是枝監督の作品は後味がすっきりしている。

この作品単体での感想は色々なタイプの人がいることを上手く表現していると感じた。ああ、こういったタイプの人間もいるなーという感じに思わせてくれる。見た目、話し方、考え方。それがこの映画をドキュメンタリーの様な印象を与えている理由だろう。

ああ、自分は何とともにあちらの世界へ行くのだろう。もう既におこった出来事なのか、これから起こる出来事なのか。いつ、どこで、何を、誰と。


「おわり」のない最後
を思い出した。

人は亡くなった時、天国の入口でこう言われます。「あなたの人生の中から大切な思い出をひとつだけ選んで下さい」その問いかけに死者たちは自分の人生を振り返り、後悔し、思い出に浸る-。この世とあの世の境界を舞台に、ファンタジーとドキュメンタリーの融合した物語が展開されていく。

送信者 四国

アラスカ極北飛行

電車で星野道夫さんの最後の著作である「森と氷河と鯨」を読んでいた。この本はアラスカの各地を星野さんが旅し、老人からワタリガラスなどの神話を聞いて、まとめあげた本だ。以前にも読んだことがあるのだが、トカラ列島へ行き神や文化の伝播などについて興味がわき、また読み返したくなって読んでいた。ちょうど今日の帰りに読み終わり帰宅した。

日付が変わった頃、仕事から家に帰りつきポストを開けてみると、アラスカ極北飛行というDVDが届いていた。3月に見に行った湯口公さんの写真展で予約購入していた映像が完成し届いたのだ。楽しみにしていたので、早速20インチディスプレイのiMacにDVDを入れる。こういう時は、PCのディスプレイが大きくてよかったなと思う。

アラスカについて書かれていた星野さんの本を読んでいたので、DVDを見てさらに気持ちは高まった。湯口さんはアラスカで飛行機を自ら操縦し写真を撮影されている方だ。空から見るアラスカの風景は完璧としか思えないほどだった。世界にはこんな美しいところがあるのか。もちろん、そんな土地には厳しい自然環境、そして野生の動物もたくさんいて、人間の自分勝手なキレイとか感動するといった感情とは無関係に成り立っているのは言うまでもない。

そんなアラスカを撮影した写真と映像、そしてBGMにオープニングから圧倒される。「なんだよこの自然は!」「ああ、もう、アラスカよ。アラスカ!たまらん。」と、行ったこともないのに、そんな感情が沸き上がる。それほどまでに、アラスカは俺を魅了する。

そして、DVDを見ていると「もうひとつの時間」が流れていることを再認識し、この世界に対してほっとする。

「あわただしい、人間の日々の営みと並行して、
もうひとつの時間が流れていることを、
いつも心のどこかで感じていたい。 」(星野道夫)

この「もうひとつの時間」は「遠い自然」という考えとも重なり合うことだと思う。

人間にとって大切な自然が二つあるような気がします。

 一つは、皆にとっての身近な自然です。 例えば家の近くの森や川、鳥だとか、そういう日常に近い自然の大切さがありますよね。 それは日々の暮らしの中で変わっていく自然ですが、もう一つ、遠い自然も人間にとって大切なのではないかと思うんです。

 そこには一生行けないかもしれないけれども、どこか遠くにそういう自然が残っていればいつか行くことができるかもしれない。 あるいは、一生行けないかもしれないけれども、いつも気持の中にある、そういう遠い自然の大切さがある。

 それはアラスカだけに限らず、アフリカであれ南米であれ、また日本であれ、たとえ自分がそこに行かなくても、日常の暮らしに関わりがなくても、ただそこにあることで人の気持が豊かになる自然があるのだと思います。(星野道夫 魔法のことば)

この星野さんの本や言葉を思い出しながら、湯口さんの映像を楽しみ、自分の中で様々な思いにふける。そして、アラスカに対してさらに興味を持っていく。

アラスカに行くには休みが少ないとか、行かない理由を言ってないで、さっさとアラスカに一度行ってみよう
と決めた。

PS このDVD一般発売は6月からのようです。ぜひ、ご覧になってください。非常にオススメです。

湯口さんのブログより。
アラスカ極北飛行DVDの完成!!
http://husky-ricky.blogspot.com/2009/05/dvd_22.html

過去の関連エントリー

男が見た夢~自由の翼~ アラスカ極北飛行 : 湯口 公 
http://teratown.com/blog/2008/07/22/aeiaiiiaa-ycyeyyeeieoo-aoy-o/

3月に行われた湯口さんの写真展にも足を運んだ。
「アラスカ極北飛行」~翼が見たアラスカ~
http://teratown.com/blog/2009/03/07/ueeeia4aeth/

聖地巡礼

野町和嘉さん聖地巡礼という写真展を東京都写真美術館で見てきた。せっかく見に行くついでなのでギャラリートークの時に行くことにした。

それにしても背中がゾクゾクする写真展だった。
入り口付近に展示してある超巨大な「ライラトル・カドルの礼拝」というメッカにあるカアバ神殿の大きな写真。写真を前にそのパワーに圧倒される。微動だにできず、ひれ伏すような感じ。
イスラム教徒の信仰の強さが真っすぐに伝わってくるのはもちろんのこと、その写真がとんでもなく大きいことも圧倒された要因だ。大きいということは凄い力を持つ。とんでもなく大きいとか数が無茶苦茶多いとか反対に超小さいといったこと自体に人を惹き付けるものがある。

そして野町さんの写真を見ていて、ふと気づいたことがあった。写真が全く色あせていない。展示してある写真は昨年撮影したものから30年以上前に撮影したものまであった。しかし30年前の写真でも全く古びた感じがしない。色褪せてるなとか、古くて安っぽくなっているなという感じが全くない。今まさに目の前に存在する現実そのものであるかのように感じる写真ばかりであった。それは色あせないものを撮影しているからなんだろう。人間や自然の根っこの部分にがっぷりよつで向き合って、撮影しているからなんだろう。

また、世界の様々な地域の聖地を展示してあったのだが、自分で訪れたことのある場所の写真もあった。年末に行ったイランのエスファハンやマシュハド、そしてアンデス、チベット、インドなど。それらの写真を見て感じたことがある。こんなことを言ったら当たり前すぎて失礼きわまりないのだが、俺も行ったことがあって野町さんと同じ被写体を撮影している写真もいくつかあった。例えばイランのエスファハンなど。それで思った、同じ被写体を撮っているからこそ強く感じられるのだが、野町さんの技術は凄い。同じものでもこう撮れるのかと。明るさとかフォーカスの精度とか全く違うなと。全然違うなと。もちろん技術だけではなく、その向かい合う姿勢も違うんだけど。

一連の野町さんの作品を見て、じっくりアフリカを巡りたいと思う一方で、日本の土着の神をもっと深く知りたいと思った。聖地とは人が関わっている場所である。そんな場所を訪れたい。が、そうではない人を寄せ付けない広漠な自然にも触れたいなー、とやっぱり欲張りだ。

《野町さんがギャラリートークで話していた内容で印象に残っていること。》

・これからはインドを続けて取材・撮影したいのとアンデスにも行きたい。

・野町さんクラスの写真家でもグラフ誌が減ってきているから大変だ。

・アフリカでは自分の車で移動して取材している。

・最近は野町さんもデジタルだとか。フィルムの作品もスキャナで取り込んでプリントしているとのこと。

・行動の源泉は好奇心だ、野次馬根性だとおっしゃっていたが、すごく共感できた。見たい、触れたい、感じたい。それがあるからこそ突き動かされる。後付けのそれっぽい理由なんて二の次だ。

・37年前に撮影したアルジェリアの家路を急ぐ少年という砂漠の写真がある。それからなんどもアフリカの砂漠を訪れているが、おなじような風景に出会えないという。それは、自分が何度も砂漠に通ったことによって感覚が麻痺してしまったからじゃないかと。

・メッカの撮影の依頼がサウジアラビアから正式にきて、ムスリムになる必要があったので実際にイスラム教徒になったらしい。まあ、それでカアバ神殿に入れて撮影できるならと。

それと図録に書かれている風の旅人編集長の佐伯さんの文章がいいです。

送信者 イラン

カミサマホトケサマ

先日、新宿のエプサイトで開催されている、船尾 修さんの写真展 「カミサマホトケサマ」を見てきた。ちょうどギャラリートークがあることを知ったので、そのタイミングで行ってきた。

きっかけは、2つのブログ。

1つ目はどんな経緯で知ったブログかは覚えていないが、RSSリーダーに登録していつも読んでいるブログがある。その方のことは名前も何をしている方かも知らないが、ブログの記事を読んでいると自分と共通した志向性を持っていると感じる。多岐にわたる内容を日々書いている方なのだが、その内容には自分もほぼ興味を持つ。それは銭湯についてであり、お祭りについてであり、山歩きについてであり、本についてであり、旅についてであり、生きていく価値観である。さらに、志向性だけでなく、そういった興味を持った後の行動のしかたも似ていると思う。

その方のブログで、紹介されていた本が船尾 修さんの写真展と同名タイトルの本「カミサマホトケサマ」だった。そして、そのブロガーの方は本を読み実際に本の中に出てくる国東半島の祭りに行っている。そのエントリーを読み、興味を持っていた。そして、船尾さんのサイトも拝見していた。

しばらく時がたった先日、いつものようにRSSリーダーを見ていたら、「風の旅人」という雑誌のブログに船尾さんの写真展「カミサマホトケサマ」が紹介されていた。「おぉ」と思いギャラリートークの日に行くことにしたのだ。

船尾さんは、自分のやってきたことや写真展全体の説明をした後、展示会場を歩きながらいくつかの写真の解説をしてくださった。船尾さんはもともとアフリカなどの辺境の地をじっくりと回りながら、写真をとるスタイルをとってきた。しかし、10年近く前に国東半島を訪れ、偶然にもケベス祭りを見ることになる。その時に、この国東半島という地に引き込まれ、今は住みつき写真を撮っていらっしゃる。国東半島は土着の風習が今でも薄まることなく続いているレアな地域であり、そこには昔からの信仰が今もあったのだ。

国東半島での日々の生活や祭りを通して、日本の宗教について感じ考えることがあったと言う。日本は神仏集合であるということを強く感じていらっしゃった。それは無宗教に近いのだと。ただ、いわゆる無宗教ではなく、無宗教という宗教であり、それは神仏集合といった概念に近いのだと(個人的な解釈が入っている気がします)

同じようなことを5,6年前にインドのブッダガヤで考えていた。外国に住んでいたり、長く旅をしていると絶対に宗教を聞かれる。すると、自分の宗教について考えるようになる。いったい自分は何教なんだろうか?と。自分で出した答えは、「文化的な意味において仏教徒」であるという結論。日々の生活で自分は仏教徒であるという認識を持ち、毎日お経を詠んでいる人は非常に少ないと思う。しかし、日常生活には仏教の考えが染み付いた言葉や行動が多い。それを人々は知らないうちに行っている。すると、仏教の考えがいつのまにか染み付いているのではないかということ。例えば、食事をするときの「いただきます」この時のしぐさは両手を合わせる合掌のスタイル。まさに仏教的なしぐさである。こんなことが日常の生活にはあふれている。だから、仏教徒だと意識していなくても、文化的な意味では仏教徒なのだろうというように考えた。仏教だけでなく、神道に関しても同様のことが言えるんだと思う。

こんなことを思い出しながら、国東半島のケベス祭りの写真や様々な行事や祭りの写真が多数展示されていた。「おひまち」の写真もあったのだが、船尾さんの解説で「はっ」と思った。「おひまち」は日を待つことである。すなわち太陽が昇ってくる事を待つ行為なのである。もちろんただ待つだけでなく会食をしながら。農作物が収穫できたことにたいして、太陽への感謝を示す行事だったのだ。そのなごりが国東半島にはある。僕の知っている「おひまち」は町内会の人が集まって食事をする会。太陽が全く見えないビルの中にある飲食店で行われる。国東半島の写真では神社の境内のような場所だった。ひとつひとつの言葉を改めて見つめ直してみると、いろいろなことに気がつくなーと思った。

写真はその写真自体も上手い下手はあるのだろうけど、それよりもその写真で何を表現したかったのかということが大切なんだと思う。写真、撮る対象、目の前にあるモノを通して何を見ているのか。何を思うのか。それを写真を通してどのように伝えるのか。船尾さんの今回の写真展「カミサマホトケサマ」では、それが伝わってきた。

船尾 修オフィシャルサイト
http://www.funaoosamu.com/

送信者 大分、熊本、宮崎

宮崎県高千穂

船尾 修写真展 「カミサマホトケサマ」
会期:2009年4月15日(水)~5月24日(日) 10:30–18:00
会場:エプサイト@新宿
http://www.epson.jp/epsite/

石仏や五輪塔などが数多く残存し、さまざまな祭り、民族行事が地域ごとに伝承されている国東半島。ここは千数百年ほど昔から、六郷満山文化と呼ばれる古代仏教文化が栄えた地であり、東の比叡山と並ぶ日本文化の発信地であった。山麓や中腹には当時、六十を越す天台宗の寺院が建立され、その多くは現在も残存し民衆の祈りを受け止めている。そのほかにも山中に磐座や修行場などの霊場は数え切れないほどある。また、全国の八幡信仰の総本山である宇佐神宮がこの半島の付け根にあり、国東半島はその神領と位置づけられていた。
国東半島では日本にもともとあった原初的な山岳信仰と大陸から渡来した天台密教を中心とする仏教思想が融合し、さらには八幡神をも取り入れる形で、渾然一体となった独特の信仰が発展していった。このような民衆の信仰の成立過程に、現在の日本人の心に深く根ざしている宗教観の原型をみることができる。この展覧会では日本文化の古層、日本人が持っている遺伝子に刻み付けられた信仰心というものの正体を表現する。

永遠は一瞬だ。一瞬は永遠だ。一瞬は永遠になり、永遠は一瞬になる。

過去も未来もない、あるのは今だけだと思う。
そう思ったのは、2005年の冬。

過去にすがっても、何も解決してくれない。
未来に夢や希望を持っても、今という現実は何も変わらない。
別に悲観的なわけでもなくて、先を考えずに無茶をするってことでもない。
もちろん、過去を振り返り幸せに浸ることもあれば、未来に希望を持ち今のやる気がわいてくることもある。
それがネガティブな事だとも思わないし、それで幸せを感じることも多い。

ただ、今からは逃げられない。今判断するしかない。
まさにその瞬間は今だけで、過去も未来も関係ない。
今どうするか、そんな連続で全ては成り立っている。

良く言われる話で、レンガを積む話がある。
一人はただレンガを積み上げているだけ。
もう一人は家を立てる目的のもとに、家ができることをイメージして、レンガを積み上げている。
どっちが良いかと言ったら、出来上がるものを知ってレンガを積み上げている方という話。

確かに、先を、将来を、出来上がるものをイメージすることは大切だ。
ただ、実際に途方もないことの繰り返しの場合は、そんなに先のことを思っていると、やってられない。
ゴールが途方もなく先にある場合は、ゴールなんか知らない方が良いと思う。
ゴールを知ってしまうと現実的なものとして、考えられない。
一つのレンガを積んでも、ゴールにはほとんど近づかず、絶望する。

まずは、目の前の一つのレンガを積むことなのだ。
ただただ、レンガを積むことの繰り返しなのだ。
ゴールのことなんか考えず、無心でレンガを積み続ける。
徒労に思える事でも、手に取ったひとつのレンガを積むしか道はない。
限りある永遠の中においては、ゴールなんて知らずに、目の前のことを淡々とこなす方がいい。
そっちの方が、絶望しなくてすむ。
そんなふうに思う。

この重要性が、レンガを積む話からは抜けていると思っている。

野茂の200勝にしても、目の前の1勝なのだ。
72キロ、24時間のハセツネカップにしろ、今の一歩、真夜中の今、前に進むかリタイアするか。リタイアするか否かは、それまでに走った距離でもなく、これからの道のりでもない。今、まさに今、辞めると判断するか、前に一歩進むかの判断。それが、全体の意味合いというか、価値を決定づける。
数年前に東京から岐阜を目指して歩いた。これにしても、一歩なのだ。次の一歩。目の前の一歩。
それだけなのだ。今までの距離も、これからも関係ない。今の判断が全てだ。それで、全てが決まる。歩ききるにしろ、諦めるにしろ、まさにその時の判断で全体が決まる。結局は、今しかない。次の1勝でしかなく、次の一歩でしかなく、次のレンガ一つでしかない。

また、こんな視点からも今しかないと思う。
政治家や犯罪者が記憶にございませんという。
覚えているのに、嘘をついていることもあると思う。
けど、自分のことを振り返ってみても、忘れていることも多いし、かなり人生でインパクトがあることで記憶はあったとしても、本当に自分がやったかどうかが怪しくなることがある。もちろん、そんなインパクトのあることだから、自分でやった。そう思う。けど、ぼんやりとした怪しさが残る。

例えば僕はガラパゴスに行った。まぎれもなく行った。でも、あれ?行ったんだよな。夢じゃないよな。うん、確かに行った。というような曖昧さが残る。
東京から名古屋まで歩いたことも、確かに歩いた。辛かった。でも、今振り返ると、うーん、たぶん歩いた。あれは俺だったはず。と思うことがある。

そう考えると、過去はない。今しかない。今の積み重ねしかない。
言い換えれば、今はなくて、過去と未来しかないとも言えるのかもしれない。

永遠は一瞬だ。
一瞬は永遠だ。
一瞬は永遠になり、永遠は一瞬になる。

で、結局何が言いたいのかと突っ込みをもらいそうだけど、基本はただそう思っただけです。ただ、あるとすれば、今を楽しく、できるだけ今を乗り越えてゆこう、そういうスタイルで生きていこうという覚え書き。

数年前に書いた文章を、ちょっとだけ追加して、今さらアップしてみました。