「生命」カテゴリーアーカイブ

飽きがこない

飽き性か否かと言われれば飽き性だと思う。
せっかちでもある。
そんな性格だ。

でも、ずっと見ていても飽きがこない。
飽きるということすら、頭の片隅にもなく、飽きないねと言われて気がついた。
いつのまにか、ずっと立ちっぱなしで何時間も見ていた。

普段は飽き性で、大好きな山も旅もできるだけ新しいところに行く。

赤ん坊は動くし大人より顔は変わるが、話せるわけでもない。寝てるかボーッとしてるか泣いてる。

なのに飽きない。

不思議だ。大人はどんな美人やイケメンでも3日で飽きるというほど。

これは、不思議で、単純に親のこころの持ちようというか、心の前提の違いな気がするのだが。
自分を見ているように、赤ん坊は自分の鏡のようだからか。自分の分身だからなのか。
もしくは、言葉を話せないからこそ、言葉でコミュニケーションできないからこそ、全身から発せられるもの全てから理解しようとしてみているのか。

うん、不思議で愛おしいものだ。

新しい世界へ

全く初めての経験だった。

長いはずなのに、あっという間の出来事だった。

同じような時間が流れるのに、なぜかそう感じない。

遮光カーテンが引かれた室内は、時間感覚を失い時の流れすら忘れていた。

そして、何もできない自分がいるのに、ここまで自分のことのように感じる不思議な感覚。

この時間を共にするなかで、女性の精神と肉体の特異さ、自分との絶対的な違いを一層強く感じ、尊敬と感謝の気持ちで溢れ出す。

未経験すぎて、今まで見たことなさすぎて、次に何が起こるか分からない。

少しの不安がありつつ、冷静に心を落ち着ける自分、それなのにどこか自分ではないという感覚が残る。

頭では分かっているのに、人の中から人が出てくるという不思議を全身で味わった。

髪の毛を見、頭を見、体を見、泣き声を聞いた時、こみ上げてくる安堵感と感謝の気持ち。

今、始まり、これからどんな時を一緒に過ごすのだろう。

そして、彼女は僕の知らない世界をどれだけ見るのだろう。

いいもんだね。

ありがとう。

父ちゃん、早口で、いろいろ話しかけちゃうけど、いろいろ気になってなんでも質問しちゃうけど、仲良くしてね。

たとえ親であっても、
子どもの心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。
ただひとつできることは、
いつまでも見守ってあげるということだけだ。
その限界を知ったとき、
なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる。
星野道夫

人生における大きな変化

一人暮らし
経済的自立
家族の増減

この3つが人生の大きな転機と12年ほど前に書いた。まだ大学2年か3年生の頃だ。大きな転機は、冷静にジャッジしないといけないし、その機会を有効活用してよりよい人生にしたいので、変化のスタート時点で習慣化など気をつけようと思ったことがある。

最近思うのは、能力と体力の変化。これは能力やスキル、世界を見る視界が変わることと逆に衰えること。一方で、体力がつくこと、年を重ねて衰えること。どちらも、大きな影響がある。これを加えて4つがおおきな人生の転換点だろうなとつくづく思う。

一人暮らし
経済的自立
家族の増減
能力と体力の変化

そろそろ家族が増えるわけだが、どうなるのか想像がつかない部分も大きいが、いろいろな先輩でもある友達から話を聞くに、楽しくもあり大変でもあるっぽい。子供が生まれると、考え方が変わるという人もいる。自分の思い通りにいかないんだということを一番学ぶとか。確かに自分の今までの人生は、自分の責任だけ取ればよかったのがそうではなくなる。自分でコントロールできないし、そもそも他者なんだからコントロールできるはずもないし、するべきではない。それでも、責任は自分に存在する。こういった権限と責任が分離していることは珍しいし、だからこそもどかしくもあり、大切でもあるのだろう。

まあ、今までにまったくなかった環境だし、視点なのだ。だからこそ、今までは切り捨てていたような考えとか、重要でもないと考えていたこと、排除していた立場の考えなどに共感したり、自分が興味をもって行動するようになるかもしれない。

なにはともあれ、人というものは、親の遺伝子を受け継いでいる。一方で、子供は親ではない。双子の兄弟が全然違う性格だったり能力であるように、1人の人間として個性が生まれ持ってあり、それが最も活かすことができる人生を歩むのがいいのだろう。だからこそ、自分自身で意思決定し、自分自身で責任を取る。とはいえ、赤ん坊がそんなことできるわけではないので、そういった能力や個性が発揮できる環境や愛情というものを適切に注いで、自分自身の意志というものが芽生えてきたときに、自身の意志と責任で生きていける人になって欲しいと思う。

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一人暮らし、物理的に親から離れる
社会に出る 自分で稼ぎ経済的自立
結婚 家族が出来て、家族への責任感、どこに住むか子育てはどこでするか、どんな育て方かなど
親の死 親の目がなくなる。魂の中には届くかもしれないが。介護が必要になった時に自分はどうするか

これらの時は、人生の転機だな。

http://www.teratown.com/blog/archives/001154.html

宇多田ヒカルと母

宇多田ヒカルが6年ぶりぐらいに歌手復帰したらしく、テレビに出ていて糸井重里さんと話していた。その内容が非常に興味深く聞いていた。宇多田ヒカルは去年、母になってそんな事もあって、彼女の歌は歌詞は変わったようだし、その経験を通した彼女の変化や気付きに基づく話もとてもおもしろかった。おそらく、この世界に我が子もお目見えするというのもあって、特に面白く話を聞いたのもあるんだろう。

どん詰まりのときに唯一できることはユーモア
本当にどん詰まりで、にっちもさっちもいかないような状況にできることはユーモアしか無い。その打開策というよりも、それでしか、自分を救えないし、他にできることはない。結果的に、ユーモアで拓かれることがある。

自分の根源の無意識さによって、自分がなんたるかを悩む
その人の世界観や、価値観、人格形成の一番大きな影響となる生まれてからの1,2年。このときに経験したことや感じたことなどで、人格の基礎が作られる。この影響は大きいのに、おとなになるとその当時に経験したことは、何も覚えていない。思い出そうとしても思い出せるはずもなく、何も記憶も記録も残っていることはない。だから、大人になって自分という人間について考えたり、悩んだり、もがいたりしたときに究極の答えが見つからない。いくら、自分を辿っていっても、生まれたことの幼い記憶はない。でも、そこに根源があるのだから。まあ、だからこそ人は悩む。そうだなと思う、だからこそ、小さい頃の映像が残っているとおとなになってから見れて良いなと思うし、俺が(無駄に?)ブログを書き続けているのもその理由。幼いときでなくても、おとなになっても結局記憶は薄れ、書き換えられるのだから。明確に残っている拠り所がある方が、自分を遡って解き明かすには好都合なのだ。

子育てで、自分が育った過程を値体験
親になることで子育ての過程で、自分がどのように育ってきたのか、成り立ってきたのか、それが追体験のように経験できる。だからこそ、改めて自分の成り立ちというものを理解できて、自分をより知ることができる。

宇多田ヒカルが「道」という曲を歌っていて、なんか、この曲を聞きながら、宇多田ヒカルは母になったんだな。そんなことが、自然と頭によぎった。そして、約1年間、自分の子供をお腹の中に抱え、いだいていた。そのことが、とんでもなく代替不可能なことだなって、思い、それが母と子の特別な関係と言うか、感情をうむんだろうなって。別々の人間なのに、一体となっていて、それも1年弱も。その経験って、生まれてからではありえないことで、母と子って不思議な何かでずっと繋がっているんだろうなと思った。おそらく、宇多田ヒカルの母藤圭子の死と、宇多田ヒカルと彼女の子の話が出たから、特にそんな印象を得たんだろう。

星野道夫写真展×2

星野さんが亡くなってから20年。
ということで、写真展や雑誌がいろいろと発売された。いつも銀座松屋で開催される写真展に足を運ぶ。大きく引き伸ばした写真と言葉の数々。

やはり、カリブーの移動が圧倒的だった。あの写真の持つ力の総体は圧倒的だ。1頭1頭のカリブーがアラスカの原野を駆け抜ける、その世界。海に潜ると小さな魚が群れて一斉に向きを変えたりして泳ぐ姿を見ることがある。まるで小学校の教科書に乗っていたスイミーのように。そういった海でしか普段は見ることができない群れが、アラスカの大地でも起こっている。僕らの知らないときに、僕らの生きている同じ時間に。

あと、面白かったのはメジャーなカットの写真とセットで撮った一連の写真をネガフィルムでライトボックスで展示していた。その時の一連の写真を見れたのだ。動物の動きなどが分かるし、まるでコマ送りの動画のように星野道夫さんが、どんな瞬間を味わい、切り取ったかが少し分かったような気がした。

展示の最後はこの言葉で締めくくられていた。

短い一生で
心魅かれることに
多くは出合わない
もし見つけたら
大切に… 大切に…

自然の中で遊ぶようになって、世界のいろいろな地域を旅をして、海も山も夏も冬も、そうしていくうちに星野道夫さんの言葉の意味をより深く深く噛みしめるようになっている。

銀座松屋の写真展が終わって、糸井重里さんのtobichiで小さな写真展が開催されるというので、こちらも行ってきた。表参道の狭い場所ながら100枚の写真が展示されるという。理由はこんなもの。

テーブル大の巨大ライトボックスを用意し、
その上に、星野さんが撮影した
「35mmフィルム」を100枚ならべて、
ご来場のみなさまには、
ルーペを使って、
1点1点、作品と1対1で向き合うように、
ご観覧いただくという趣向。

星野さんがフィールドで撮影した写真を、家に戻って写真に初対面したのと同じように、ルーペを使って写真を見る。ルーペで覗くと、それ以外のものが視界に入らない。いくら大きく伸ばした写真であっても、展示会場の壁や床、証明、隣の写真が目に入る。けれど、ルーペで覗き込むと、写真以外何も視界に入らない。この視界の違いが非常に没入感を作り出してくれた。

今まで見たどの写真展とも写真集とも違って、もっとも写真と正面から向き合えて楽しむことができた。ただ、最終日で混んでいたので見れれる時間が短かったのが残念なところ。でも、アラスカの風を感じ、東京という街にいるのに、悠久の時を感じられる、そんな素敵な展示だった。