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お金の流れを可視化する

街を歩いていて、怪しげな募金活動をしている人がいた。これって、募金のお金を自分のポケットに入れてるんじゃないかな。そう思えてしまう。もちろん、そうじゃないかもしれないし、俺の失礼でうがった見方だけなのだが。

それをきっかけに、証明できる方法ないかなと思ってみると、もしお金にチップをつけて追跡できたら、それが判明するんだろうなと思う。まあ、当たり前だ。でも、今の時代はお金がコインとか紙じゃないことのほうが多い。データなので、そのデータの動きもすべて可視化できたらすごいことだ。

もし、世界中で受け渡しされるお金が、誰から誰に、いつ、いくら支払われたか。その通貨は何だったか、外貨と両替の場合の為替レートはいくらか、そのお金は現金かポイントかビットコインか、そんなことがすべてデータとしてある。超膨大なデータ量だが、それがあれば、世界の大きな流れが瞬時に把握できる。

経済活動の結晶でもあるし、人間の行動の結晶でもある。そのデータから何がわかるか想像もつかないぐらいで、だからこそ面白そう。

そもそもお金は価値を示す指標としてのメディア(媒体)なわけだし、世界中にいろいろな国の通貨があり、最近はポイントという企業が発行する通貨もあるわけだし、ビットコインのようなものも生まれている。

今回のギリシャ危機で、自国通貨を持っていたほうが経済政策がしやすいということが言われたが、まあそりゃそうだろうと思う。国家なりがお金をコントローラブルなほうが、ハンドリングがし易いのだから。

ただ一方で、インターネットが世界を変えた。世界がつながった。どんな情報でも知ることができるようになり、世界はいわゆるフラット化した。プログラム(コード)というもので、世界中の人が仕組みを生み出すことができ、それを広めることができる社会になった。

こんな社会だと、国境、国という単位、政治影響範囲ってなんだろうなーと思う。そういった未来社会になった時に、お金ってどういう役割になって、どんな姿をしているのだろうか。例えば、10年後とか。30年後とか。50年後とか。テクノロジーをベースとして新たなサービスや仕組みが生まれ、それを使う人間の生活スタイルがかわり、国の姿や法律もお金の姿も変わっていく。

まあ、長く続いてきたものは、それなりに本質的な価値があって、すぐにはなくならない気がするが、もしお金の流れがすべて可視化できるようになったのであれば、究極的にはつけで払って死ぬときに精算するとか、先物取り引きが超発展するとか、お金って実は価値がないんじゃないってことになるとか、今まで価値がつかなかったアートや個人の思い出の品にも価格がつくとか、究極の一物一価の法則が成立するとかetc ちょっといろいろ調べたり、真剣に考えて、友達と議論したら面白そうなネタだなと。

送信者 パプアニューギニア2011

知るということが人を変える世界を変える
http://teratown.com/blog/2015/05/14/知るということが人を変える世界を変える/

時間の変化、人生の変化。原始感覚美術祭2015

東京芸大に通っていたのは10年以上前のこと。
そして、木崎湖に通い始めたのは5年ほど前かな。

大学院の授業に潜り込もう、それも東京芸大という多くの大学とは異なる世界に。今思えば、ちょっと無茶なことをした。まあ、結果的にあの一瞬の判断が、これだけ長く続く関係になるのだから人生のきっかけは面白い。

当時の芸大で一番ぶっ飛んでいたスギさんが、長野の木崎湖周辺で始めた芸術祭。5,6年たち町にも根付いてきたし、多くの作家が参加し、観光客も増えている。続けることの重要性を改めて思う。

いつもの夏に、いつもの場所へ。
木崎湖の周りは、いつ来てものどかで良い風景だ。

でも、変わったなと思う2日間だった。

いつものように、新宿発のあずさに乗り、松本まで。3時間ほどの電車では、久しぶりに会った仲間と盛り上がる。茂木さんの研究室メンバーが中心なので、東京芸大と東工大出身者ばかり。松本につくと、東京と同じように暑く、蕎麦屋へ行き、レンタカーを借りる。1時間ほどドライブして、信濃大町のオープニングイベントで杉原さんに顔を見せ、定宿である稲尾のあたらし屋さんに到着。

今回は茂木さんが遅れてくるのと、幹事役の植田さんが原稿の締め切りに追われていたこともあり、みんな近くをぶらぶらしたり、昼寝したり、買い物行ったり、のんびり気ままな時間。芸術祭を見に来たはずなのに、何も見に行かないw

夜はカレーを作り、だらだらと飲み始める。哲学者の塩谷さんもいらっしゃって、囲炉裏を囲って、ああだこうだと。茂木さんも到着し、再び乾杯。アートや哲学、サイエンスに関して話す姿は同じだけれど、昔みたいにバトルがなくなった。大人になって、受け入れるようになったということなのか。

翌朝、1000年の森へと足を運ぶ。雪解け水が流れる小川でビシャビシャと遊び、パフォーマンスを2つほど見て、いつもの神社へ。今回は、茂木さんと塩谷さんのトークの間に、植田さん、蓮沼さん、杉原さんの芸大3人組の、アートバトル。1時間という制限時間で、作品を作り観客による投票で1位を決めるというもの。

植田さんはマリア様を、蓮沼さんは鳩を、杉原さんはキャンバスを石で殴りつけ、ぶっ壊した。10年以上の付き合いだけれど、3人が同時に作品を作っている姿は初めて見たし、その時の顔の表情は真剣そのものだった。3人共アーティストとして生きているが、顔を見たら改めてアーティストなんだなと妙に納得した。いつもは、飲んで話している位だから。

そして、あたらし屋へ戻って、乾杯をして東京へと戻った。大半のメンバーはもう1泊して、宴会をして東京に戻ってきたはず。今年も夏の儀式が1つ終わったな、と。毎年、これが最後かなと思っているので、また、集まれて嬉しかった。

見ると落ち着く風景になった木崎湖だけど、なんだか今年はいつもとちょっと違う気もした。それは、一言で言うならば「時間は変化だなと、変化は人生だな」と思ったということ。

今年は、東京芸大物語を茂木さんが書いてくれた。あの時代が1つの本という形で記録された。

みんな、いろいろなコンペで賞を取り、日本でも有数の芸術祭に呼ばれたり、連載を持つようになったり、芸術祭の総合アートディレクターとして大きく育てたり。普段の生活でも結婚し、子供を授かり、性格が丸くなっていく。大切な仲間であることは変わりないけれど、それぞれに抱えるものも大きくなってきた。多くの日本人からすると、そうなるのは遅かったかもしれないし、今でも自由なのかもしれない。でも、抱える物が大きくなる経験をし、受け入れるという心が育ってきたのかもしれない。

いつもと同じ木崎湖の風景を眺めながら、ああ、人生って面白い。でも、変わることって、すこし寂しいもんだなと思いながら、夕日に染まる空を眺めながら、この地を後にした。

送信者 原始感覚美術祭2015

1語で変わる印象

導入部分の読みやすさとインパクトの関係。
最後の締めの部分の盛り上がり。
全体としての読みやすさ。

どこまで情報を入れ込むかという判断。
~した。~だ。などの連続による、単調さ。
長いカタカナ単語の連続による、読みづらさ。

文章を読んでイメージがわくか。

作家の友達の原稿を読ましてもらった。
2パターンあって、どっちがいいか。
相談されたのだ。

最後の部分のエピソードが違うだけで、こんなにも違うのかと驚いた。
さらに、導入部分の1語で大きく変わる印象。
一言で変わる印象。

そして、その一言さえも、一人ひとり抱くイメージが異なる。
富士登山というワードでも、雨の日に徹夜で渋滞の登山道をフラフラになって1回登った人と晴れた日に空いたルートでサクッと登り美しい形式を見た人と。

感覚として理解するって、なんなんだろう

聞いていてもわからないけれど、やってみると分かること。
じゃあ、何が分かったと具体的話しても、それでは相手に伝わらない。
言葉としては通じても、感覚としては理解していない。

新しいことにチャレンジするときも、調べる。
今の時代、いろいろな人が、文字や動画などで、説明している。
それを全て読んで、見て、理解する。
けれど、感覚としてわからないことがある。

でも、実際にやってみていくと、いつの間にか、ああそういうことね、と全体感が理解できる。

これって、いったいどういうことなんだろう。
脳の中では何が起こっているのか。これが解明されたら、人間が何かを修得することが根底から変わると思うんだよな。

見えない世界を見る

ダイアログ・イン・ザ・ダーク

もう10何年前から知っていたが、一度も行ったことがなかった。真っ暗な世界を視覚障害の方のガイドで体験する場。確か、芸大に通っている時に講演に来てくださって、知っていたのだが、なんだか機会がなかった。千駄ヶ谷から少し歩いたところに常設の場ができて数年ほど。R卒業祝いで友達のタクさんの会社のSOWギフトをもらって、その中のひとつがダイアログ・イン・ザ・ダークだったので、予約して行ってきた。

そもそも、暗い場所が好きで、リラックスできるのでお風呂の電気を消して入るのは小学生ぐらいからやっていると思う。そして今も。アウトドアが好きになってからは山とか島に行って夜の自然も好き。静かな暗闇にいると心が安らいで落ち着くのだ。

ガイドである視覚障害の方の最初のインストラクションで、お客さんに不安だと思いますが安心してくださいねという言葉に、ああ、そういう気持ちになる人もいるのかと勉強になった。暗くなると不安という発想が自分の中にはなかったので。

まずは白杖という視覚障害の方が使っている棒をもらって、徐々に暗い部屋へと移っていき、目を慣らす。おお、行き届いたおもてなし。徐々に暗くなっていき、全く何も見えない世界に。おお、真っ暗だ。隣の人も誰も見えない。目を開けていても目を閉じても一緒ですから、頑張って見ようとせず、好きな方でリラックスしてくださいねと。まあ、当たり前なんだが、見えることに慣れているので、ついつい見えないはずなのに見ようと頑張ってしまいそうだった。

6月ということで、梅雨をイメージした部屋があった。地面には土があり、水の音やカエルの鳴き声が聞こえる。縁側に畳。そこに座って、寝転がる。見られていないと思うと、好き勝手な姿勢ができる。気楽だ。逆に視覚って重要なんだなと思う。いろいろと話す。芝生のエリアに座る。

暗い場所にはなれている。風呂とか山とかで、と思っていた。でも、山はなんだかんだ明るい。月とか星とか。風呂は窓がないので、ほぼ完全に暗くなるのだが、狭い。行動範囲が限定的なので、場所も全て覚えているし何の問題もない。広い範囲で、今まで見たことのない場所を完全に暗い場所で歩くとなると、慎重になる。白杖を持って、地面を探りながら。当たる音や反発の度合いでそれが何かを想像しながら。目が見えないから、もっと聴覚とか触覚が敏感になるかと思ったが、それほどでもなかった。

畳に座り、知らない6人が集まった会だったが暗い世界だと会話が弾む。ガイドのユカさんも話がうまいのだが、それだけじゃなく見えないと会話が弾むのは、変なコト言ってしまっても見られていないから恥ずかしく無いという作用があるからなのだろうか。

それから、カフェでビールを飲む。もちろん真っ暗なカフェ。瓶ビールとコップとおつまみが出される。ビールを暗闇でコップに注ぐ。こぼしてしまいそうで、ドキドキするが重さとコップに指を入れて量を判断。けっこうなんとかなるもんだ。

それにしても、視覚障害の方は見えなくてもコップを歩いて運ぶ際に水をこぼさない。平衡感覚が優れていることに驚く。次々と気になることが出てくる。自分が見えない世界を実体験すると、いつも見えない人たちはどんな感覚なのだろうとか。生まれた頃は見えたけどあとから事故などで見えなくなった人と先天的に見えない方との感覚の違いとか。

例えば、見えないから、形とかを立体的に想像する力が長けている?立体の算数のクイズとか得意なのだろうか?とか、聞いてみたが、特別そうじゃないと思うと。ただ、比較したことないので分かりませんと。目の見えない方にとっての色の概念とはなにか?これも、なかなか無茶な質問だった。明るいとか暗いとかそういうイメージは持っていて、それぞれが認知しているっぽかった。

また、顔とか見えないので、声を聞いただけで、イケメンだなともうこともあるのか聞いたら、視覚障害者友達とカフェに行って、声を聞いてイケメンそうだねと話たりするとか。

再び、少し明るい部屋へと移動する。普通の明るさからすると圧倒的に暗い部屋。ぼんやりとしたほのかな明かりがあるだけ。でも、そんな些細な明かりだけでも、真っ暗に慣れていたのですべての物が把握できる。完全に見えないという世界とハッキリではないが少しだけ見える世界。そこには大きな差があるんだなと気づいた。

最後に、ダイアログ・イン・ザ・ダークじゃなくて、ダイアログ・イン・ザ・サイレンスとかダイアログ・イン・ザ・タイムとか色いろあるらしい。面白そう。音のない体験や年をとった体験などなど。そして、聴覚障害の方がダイアログ・イン・ザ・ダークに訪れることもあるという。視覚も聴覚も完全に閉ざされた世界。果たしてどんな世界がそこにはたちあがってくるのだろうか。今回ガイドしてくれてユカさんは、目が見えないから、音がない場所に行く勇気はまだないと話していた。

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