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知るということが人を変える世界を変える

情報距離とでもいうのか、インターネットで世界はコミュニケーション距離が圧倒的に縮まり、ほぼ距離という概念がなくなった。日本も海外もない。国家が違うし法律も違うが、そんなもの気にならないでやり取りできる。

すぐ近くで起こった事件でも、ネットで知る方が早いこともあるし、近くにいる人ともネットでやり取りしたり、遠くにいる人と変わらなかったり。唯一違うのは、一緒に顔をあわせる頻度だが、ネット上で遠くにいる友達の写真なんかを頻繁に見ていると頻繁にあっているような気さえする。一度、何かを共にして、分かり合った仲間なら、その後物理的距離が離れても、ずっと近くで頻繁にあっている気になるのが、この世の中。

もちろん、交通機関の発達で物理的距離も縮まったのも事実だと思う。人間という生き物自体が物質として存在するため、その制約からは逃れられないと思うから、移動手段の発達は今後もっと進むだろうし、それが進むとまた一段世界が変わっていく。

世界のこの流れは止められない。世界はひとつになろうとしている。世に言うフラット化するというやつか。資本主義という概念があり、お金があるとやりたいことができる、やりたいことに変えられる。それを世界の人は知ってしまった。お金なんて、ただの紙切れで絶対的な存在でもなんでもない、けれど資本主義という概念は、それ以外の概念などを全て包み込んで、自分のルールを適用させるぐらいの構造になっている。

もちろん、そうではない生活を思考する人も一定数存在するし、ある程度の存在感を示していくことになるだろう。

ただ、学問をする、人と人がつながる、新たに商売をする、医療を受けるといったことには、外貨が必要だ。ここで外貨というのは、資本主義バリバリじゃない生活を思考する人たちでも、学問を受けようとすると学費でお金がいる。医療を受けようとしてもお金がいる。新たなことにチャレンジしたり、何かしようとするとお金がいる。このお金のことを外貨と言っている。自給自足でも生きていけるが、そこにお金というネックが生じる。

この資本主義という構造の、さらに根底を流れるエネルギーは、知るということ。知ってしまうということ。これが全ての根源であると思う。人間の最も大きなエネルギーの源は知るということ。知るということは、人の欲求を掻き立てる。その欲求たるものが、人間を最も突き動かす。だからこそ、この「知る」という行為を根本から変えてしまったインターネットは革命なのだ。これに、資本主義というものが掛け合わさると、最強のエネルギーを持ち始め、世界をひとつの価値観というかひとつの構造に覆い被せられ、世界は収斂されていく。

昔の帝国とかもそうだったから、それが地球という規模で起こっているだけとも言える。というのは、鎖国していて、外国の暮らしを知らなかったら、あれしたい、これしたいなんて思わない。今の現状の生活に不満も抱かなければ、政府にだって反発することもない。昔の人も全て、ここを統制すれば、なんとかなると知っていた。だから、江戸時代も国を統治しやすいように鎖国したんだろうし、社会主義・共産主義国家なども情報統制をするんだろう。今知っている範囲で、幸せに暮らすのだ。何も知らなければ、もっとあれしたい、これもしたいという、欲求のスパイラルには向かわない。そして、この欲求スパイラルと資本主義の相性が抜群なのだ。

となると、今後はそ世界がシームレス、ボーダレスなコミュニケーションになっていくなかで知るということをどうやって統制するか、もしくは知ったあとに人々が抱く感情や欲求をどうコントロールするか、どのような行動を促すかが世界を統治する上で鍵となる。これって、悪く言えばマインドコントロールっぽいことだし、よく言えば企業のブランディングとかだ。知り、資本主義の構造をうまく扱うものが勝ち抜いていく。

まあ、うまくまとまらない。このことを1ヶ月ぐらい前に考えていて、こうなっていくんだ世界は!と思ったのに、しっかりと書き残さなかったのが反省だ。まあ、自分が考えたことの3分の1も伝えられないのが常なので、諦めずに考えていこうと思う。

そんなことを思ったのも社会主義国家キューバへ行ったから。あの国の人々の価値観、ネットなどの情報コントロール、そして西洋人が来ることによって知る彼らのライフスタイル。それらが合わさって、変わっていく国民。国民の変化と世界の変化が押し寄せ、そろそろ国が回らなくなるという危機感から、政府・国も大きな政治的決断をして国を開こうとしているという今。

技術の進化や発展途上国が先進国化していく中で、いろいろな国を旅したり、仕事で行ったり、海外にいる人たちとネットで簡単にコミュニケーション取ったり、まあ、いろいろな経験を重ねていく中で感じ、考えてきたこと。実体験として国境なんていう概念が薄れていっている。そして、音楽もビジネススタイルも食事も似たり寄ったりになっている。お互いの前提となる文化が似てきて、相互理解が早くなるともいえる。

この流れは止められない。そうなっていく中で、自分はどんな価値観を大切にして、どうやって生きていくか。それだけだ。

ただ、全く想像もつかない文化や価値観の人たちが世界には存在している、多様性という表現よりも、バラバラで未知があり続けることに喜びを感じる自分としては、どこか寂しさが常にあり続ける。

送信者 キューバ201503

知らなきゃ、愛せないということばブログに昔書いたことを思い出した。

絵はがきが持つ不思議な力

絵はがきが好きだ。
それは小説を書くとしたら、絵葉書をテーマにするぐらい。

いや、そんなに好きではないかもしれないが、何か気になる存在なのだ。だから、絵葉書について何度も書き残している。

そう、このブログを読んでいる珍しい人は、何度も絵はがきネタが、このブログに登場することを知っているかもしれない。

3月にキューバにいった。いつものように、街で絵葉書を買い、日本へと送る。今までの経験上、ロストする確率は低いのだが南米は怪しい。過去の経験上そんな感覚を持っていて、このキューバも届くか怪しいなと思っていた。

ひとまずキューバから、絵はがきを実家へと送った。届かないかもという第六感をもとに、現地で書いたけど送らず日本に持ち帰った。キューバから送った絵葉書が届かなかったら、日本で切手を貼って送ろうという思いで持ち帰ったのだ。

案の定、届かなかった。何度か届いたか母にメールで聞く。本人はとっくに日本だし、なんなら岐阜の実家にも帰っている。キューバから送ってから2ヶ月ほど届かないので、自分で持ち帰った絵はがきに日本の切手を貼り、東京の郵便局から送ったのが先週のことだ。

ちょうど昨日、不思議な絵はがきが届いたと母から連絡があり、事情を説明。そりゃ不思議だ、中身はキューバのことだし、2ヶ月前の日付も書いてあるし、でも日本の切手。なんじゃこりゃと。状況がつかめたようで、それで、まあ、気長に待とうという感じで終わった。

仕事とか短期の海外旅行を除き、自分が旅だと考えて出掛けたときは、いつも絵はがきを送っている。なんだろう、その国で書いたものがどんぶらこどんぶらこと、日本まで時間をかけてやってくる。その国の空気を吸ったものが、届くってなんだか想像力を掻き立てて好きなのだ。

すると、今日キューバからの絵はがきが届いたよと、メールが来た。えっ!?嘘っ!?本当!?

なんだろう。偶然に過ぎないのだが、あれだけ届かなかったら絵はがき。諦めて、日本からもう一通を送った。それが届いた翌日、キューバからの絵葉書が2ヶ月の旅を終えて届く。すこし、長旅が好きなのだろうか。迷子になって、楽しんでいたのか、不安がっていたのか。

この時間が、タイムスリップして、その絵はがきを書いた瞬間に僕らを連れ戻してくれる。そんな力が絵はがきにはある。まるで、日本から送った絵はがきが呼び水みたいにして、翌日にキューバから絵葉書が届く。

ただの偶然に過ぎないのに何か絵はがきに、不思議な力を持っているように感じてならない。

送信者 Aconcagua&Patagonia

そんな、不思議な時間のマジックを絵葉書はアコンカグアの時も起こしてくれている。

同じ時間をどんぶらこ

絵はがきにつて過去に書いたブログ

送信者 ドロップ ボックス

型が行動を規定する。数字が行動を規定する。

型が行動を規定する。
数字というか見える化が行動を規定する。

よく書いていることだが、いろいろな体験を通して再度認識することによって、この考えが自分の中でより強固なものとなっていく。これに限らずとも、考えというものは、いつもそういうものだ。もちろん、一方でそれによって思考が固定されるっていうことも意識しなけりゃだが。今回は、それは横に置いておこう。

youtubeは動画を見る前に広告が流れる。googleはそれを商売にして、youtubeを無料で提供しているからなんだが、5秒はスキップできない。その後は、スキップ可能。5秒でいかに惹きつけるかがポイントになる。

ここで2つのパターンがある。どうせ5秒でスキップされるなら企業名をすりこもうという発想、もうひとつは最後までじっくり見てもらおうという思想。

ひとつめの典型例は企業名とコーポレートメッセージのジングルを最初に持ってくるCM。テレビだとCMの最後にジングルが流れるけどその逆。すぐスクップされるから、一番最初にブランドを刷り込みたいという意図。

もうひとつは、どちらかというと、商品名を連呼するとか安っぽいCMじゃない。ブランディング系のCMだったり、思想を伝えたり、作り手の気持ちを伝えるCM動画が多い。最初は何のCMかわからない感じで興味をひきつけたりと、見せるCMだ。

テレビCMよりも凝ったつくりじゃないかと思うほど。

ネットの動画は儲からないから本当に良い映像がないという意見もある。一方で、テレビと違って世界中がマーケットになる。どこかが権利を持っていて、海外ではテレビ局かなんだかがその権利を買ってとかない。良いものを作って世界中の視聴者ファンにつければ、企業はいくらでもお金を出す時代になるはず。1億回以上も再生されている動画も結構あるし、数千万回ならざらにある。これって、テレビと比べてもすごい数だよな。

予算がつけれたりしたら、利権とかなんだかそういったしがらみがない、本当によいものが生まれていくんじゃないかと、これからの世界がもっと楽しみになる。

あと、見える化。この行為は偉大だ。なんとなく分かっているのと、数値とかグラフ、図などでまとめたものとは、持つ威力が違う。テレビのCMだって真剣に見ていない。けれど、どれぐらいかは数値でわからない。ネットだと何人が見て、何人が何秒でスキップしてというのが全て、手に取るようにわかる。だから、それを踏まえた上で作ることになる。結果として、上記のような動画のパターンが生まれてくる。これらは数値の見える化によって作り出された産物とも言えるだろう。

そんなことを考えつつ、選挙も方法変えれば、何の価値もない選挙カーでの連呼も減るんだろうなと、つくづく思う。ルールを変えれば、そのルールに従って行動しないといけない人たちの行動は変わる。価値のある選挙にしたければ、方法を変える、ルールを変える。ルールを決めれる側の人たちは、このことを常に意識して行動しないといけない。もちろん、自分自身もルールを決める側の人間にもなることがあるし、決められたルールにのっとって行動することもある。どちらの場合も、意識していないと自由な発想は無くなるし、世界を楽しめない。

なによりも、自分自信のルールを決めるのは自分であって、その自分の決めたルールとか選んだ物に規定されているのも、また自分であることを忘れてはならない。だから、何かを意思決定するときは、自分の行動がどう変わるかを常に意識し続けること。これが最も重要かもしれない。

送信者 三宅島手銛漁

テレビ?動画?youtube?

ここ最近youtubeを良く見る。

きっかけは。

スマホを変えたことだろうか。

音楽もyoutubeで聞いていて、デバイスに所有しなくなってきた。
ミュージシャン公式アカウントにある音楽を聴くことも多い。
海外のテレビ番組もyoutubeで見る。

きっかけは、スマホが1台になったことである。
なぜか。

スマホを使うのは移動時間。
それ以外はなんらかのメッセージが来たら見て、返信するぐらいだから。

今までは毎朝1つの携帯(スマホ)でTEDを流しながら、もうひとつの携帯でニュースサイトを見ていた。
しかし1台になると、両方できない。
そこで、TEDではなくてもう少しわかりやすい動画でも見ようとyoutubeで探したのだ。

いい動画を発見し、そのチャンネルの他の動画も見る。
いい映像をを作る人は、その他の動画もいい。
そして、レコメンドの動画とか、ググって調べていると他の新しい情報に出会い。

ほんとうに色々な動画があるな。
いろいろなチャンネルがある。

世界には70億人いて、それぞれの人に機会が与えられるってことは、そういうこと。
想像もつかなかったコンテンツが増えて行く。
個人がクオリティの高いものを作っていたり。

そして、talentedな人が世界には多い。
限られた情報源では入ってこない、そんな人に出会えるインターネット的なものはいい。

一箇所に集まるものと集まらない情報。
SNSとか動画は一箇所に。
ブログのような文字データは一箇所に集まらなかった。
でも、それをgoogleが実質的に一箇所にまとめあげた。

1箇所に集まり、人が多く集まり、その場がエネルギーを持ち始めた。価値が一箇所に集まり明確になった。
すると、場は加速して変化し、情報は集まる。

youtubeが出た当時、デバイスが進化していけば動画の時代が来るとみんな言っていたし、それに疑いの余地はなかった。
でも、youtubeにはカスみたいな動画しかなかった。しかし、こうして良質な動画が集まってくると、その場の世界は変わる。この良質な体験を味わう感覚はなかなか、味わってみないとわからない。

こうして起こり来る未来を、振り返って体験し、自分の中で未来が過去となる。想像が体験になる。こうした一人の人間を通した経験という歴史を繰り返し、未来の骨格というものがより具体的につかめるようになるのだろう。

この世界は面白い。

気持ちは言葉で伝わらない

気持ちは言葉で伝わらないっていうと、ネガティブな話みたいだが、そうではない。純粋にそうじゃないかと思っただけ。

英語で事実を伝えるのは容易だ。
なぜかとか背景を伝えるとなると、格段と難しくなる。
感情や気持ちを伝えるとなるとなおさらだ。

英語でいろいろな国の人と話していると、ネイティブのスピードとかスラングはわからないことがある。でも、ビジネスでしっかりした英語でやりとりする分にはあまり困らない。それは、そこに明確な事実というかが存在するから。

たぶん、お互いのビジネスモデルを理解しているし、自分たちがお互い儲けたいと思っている。ゴールがわかりやすいし、そのゴールにたどり着くには、具体的な行動しか道はないから。だからこそ、背景が明確で、それを理解し合っているから、コミュニケーションは簡単だ。

しかし、理由を伝えるとなると難しい。プライベートの何かに関する理由とか背景には、国の文化が絡んでくる。それをどうやって簡潔に伝えるのか。難易度は上がる。ましてや、さらにハイコンテクストの感情とかって、難しい。

日々いろいろな国の人と話しながら、そのあたりを難しいなと思っていた。逆にいうと、用件ベースでは話せるようになったから、よりラフにプライベートのことを話して笑ったり、ふむふむと納得したりするようになったから、その難しさを実感しているのだろうけど。

まあ、そんなことがあって、真っ暗な風呂に浸かって考えていたら、感情というものは言葉で伝わらないんじゃないかと。これは、言語が違うから気づいたことであって、実は日本人同士でも、言葉では伝わっていないのではないかという思いが湧き上がる。そう考えると、感情という存在は言語ではないので、それを言語に置き換えている時点で、完全な説明は不可能なのだ。そんなこと、ずっと前から考えていたし、気づいていたけれど、英語でコミュニケーションしていくなかで、新たアプローチで気づいたことが面白かった。