「できない理由」ではなく、人の中には「やらない理由」しかない。
けれど、自分は「できない理由」だと思い込んでいる。それが俺であり、人間である。
「やらない理由」だけなのに、「できない理由」と思い込むには、それなりの理由があるはずなのだ。
それは、自分の今を肯定する理由だったり、金銭的なものだったり、家族だったり、体力だったり、法律とかのルールだったり、なんだかの理由を作って「できない」ことを後付けで証明しているだけ。
でも、できないことはない。やろうと思えば、本気でそういったモードになってスイッチが入れば、もしくは追い詰められて背水の陣になれば、今まで自分が「できない理由」だとと思っていたことが、自分が勝手に思い込んでいただけで、自分の後付けのやらない理由だったことに気づく。
スイッチは、いろいろな偶然の出会いとかきっかけにより、ONになることもある。すると、「できない理由」じゃなくて「やらない理由」だったんだと気づく。もちろん、これは少し前の自己を否定することでもあるから、意識的に自己客観視の癖をつけていないと気づかないことでもあるが。人間とは一貫性とか自己肯定をしたがる生き物だから。
常に、「できない理由」じゃなくて「やらない理由」だと意識しておいたり、スイッチがonになる出会いとかに巡り合った際に、その出来事がスイッチだと気づけるようにしておく。アンテナを張り巡らせ、アンテナの感度を上げておく。自己客観視と自己主観視を両方限界ギリギリまでしておく。
だって、チャンスなんていくらでもありそうで、チャンスなんて滅多にない。それが現実だから、チャンスは常にもぎ取る必要があるのだ。だからこそ、決めたら、えいやっと、飛び出すこと。
とは言っても、今まで持っていたものとかに未練とかあるのが当たり前。それは、今までの自分の選択が正しかった証拠。未練がないなんて、それまでが満たされていなかった証拠。環境に恵まれていた証拠。そこに感謝しつつ、でも、居座るんじゃなくて次の世代に場を提供するのも重要。でも、恵まれた環境だって永遠には続かない。だから、人間はえいやっと定期的に飛び出さないといけない。えいやっとできない人は、うじうじしてる人で、魅力的じゃない。常に自戒をこめて。
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