自分で終わりを決めることは難しい。
最初から明確な終わり(ゴール)があれば、別だ。
100メートル走であれば、100メートル先がゴールだ。
マラソンであれば42キロ先にゴールがある。
頂上を目指す登山であれば、ゴールが明確だ。
試験なども、それをパスすることがゴールだ。
でも、そうじゃないものが生きる根幹であったりする。
ゴールがないもの。
例えば、
絵の最後の一筆をどこで終えるか。
大きな経営の意思決定をいつ行うか。
世界を旅する旅人がいつ旅を終えるか。
料理人が最後の味付けをどこまでするか。
ただ長い時間かけて料理をすれば美味しくなるとも限らず、手早く作るからこそ美味しい料理になることもある。手を込めるということは、時間が経過するということ。それによるプラス面とマイナス面。
もちろん、100メートル走にはゴールがあるが、100メートルの選手をいつ引退するかは自ら決める終わりだ。
その終わりを決めること。
自分で終わりを決めること。
どうやって決断するのか。
論理的や経済合理性などで解がでるもことは簡単だ。答えの出ないものに、いかに答えを出していくかが生きることそのものである。そこに、その人の人間性というか、人間の深みがでるんだと思う。
井伏鱒二は「サヨナラだけが人生だ」と言ったが、さよならをすることにより、人生が積み上がっていく。
そして「大切なことは、出発することだった。」と星野道夫は語った。
逆説的だが、スタートするにも終わりを決めることが重要なんだと思う。終わりを決めなければ、次の始まりはない。
送信者 奄美大島と加計呂麻島 |
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ただ、終わりを決めるという意思決定も大きいけど、終わりを決めないということも意思決定なのだ。終わりを決めないことによってリスクが高まることやチャンスを失うこともある。もちろん終わりを決めないで良いことがあることも。慣性というか慣れて続けていることも、本来は意思決定なんだという意識を常にもって生きていきた。
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