自分の体をえぐりとられるような

引っ越しの荷物を片付けている。
ゴミをどんどん捨てる。
この家に引っ越す時に段ボールに入れたまま、一回も開けてない箱もいくつかあった。
6年半以上も閉ざしたままの段ボールを開けた。
学生の頃に旅した地の電車のチケットやレシート、パンフレットなどが入っていた。
しわくちゃなまま。
砂が付いていたり、インクがこすれていたり。

どう考えてもいらないし、実際にもう何年も見てすらいない。
自分にとってもゴミ同然だし、ましてや世の中における価値なんてない。
でも、これをゴミ袋に入れる時、自分の体をえぐりとられるような感覚になった。
それだけ、自分にとって旅というものが大きな存在で、今の自分を作ってくれたものだったんだろう。
その経験が自らの血となり肉となっている。
だからこそ、体をえぐりとられるような気持ちになったんだろう。

断捨離とかで、1年使っていない者は捨てるということがあるけれど、そう割り切れない。
僕は未練たらしい人間なんだろう。
過去にすがりついている人間なのかもしれない。
過去も未来もない、今しかないとか言いつつも。

片付けていると、手がストップする。
絵はがき、手紙、年賀状、自分の日記、写真・・・
それらを読み返す。

他人が全く価値に感じないものこそ、自分にとっては大切なものなのだ。
社会的に価値がないものほど、自分にとっては価値が高いのだ。

以前にもブログに書いているが、それは自分の中で核心だ。確信だ。
だから、お金に左右されずに生きていられるし、自分の中で大切なことが、経験などを通してはっきりしているので決断に悩まない。

そう考えると、結果的に引越を重ねても10年以上も捨てれずに持ち続けてきたものは、自分の大切にしているモノや感覚や経験そのものなんだろうな。

迷ったらモノにたち帰れとか未来は分からないけど自分が歩んできた道は紛れもなく自分そのものだと書いたことがあるが、そんなこととつながった。

本当に価値ある物と貨幣価値は反比例する

「行き詰ったら、物に返れ!」

未来は分からないけれど、自分が歩んできた時間、経験は事実であり、自らの意思決定の結晶だ。

人生というものは、楽しいことも、辛いことも色々あればあるほど、味わい深いものになるんだろうなと思う。
それらを越えてしまった究極が悟りとか中庸とか、お釈迦さんがいきついた境地なのかもしれないが。

送信者 南米

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