社会的に評価されないけれども、身近にある本当に大切なものを大切にして生きる人たち

大学4年生の時に無人島で身を持って知ったのは一日が食に関することだけで過ぎていくこと。

朝起きて飯作って昼飯を探して作って食べる。
昼からは夜飯探して作って食べて、朝飯の準備したら夜になってる。

文明といわれるものは食に掛ける時間が少なくなったからうまれた。そんなことに気付いた。
これが10年前。

それから食べるということについて、ちょくちょく考えていた。
ブログにも何度か、そんなたぐいのことを書いている。
カテゴリーで「食」なんてのも作っていたりする笑

弁当を作っていたこともある。
しかし、めんどくささが勝ってしまい、なかなか食生活は改善しない。
自分を作り上げる上で非常に大切なはずなのに、毎日それも3回も訪れるありふれた行為になってしまい、ないがしろにされている。

これって、非常にイケてないなーとつくづく思う。
前からずっと思っているし、今回の徳島でもそう感じた。

偶然にも、6年ぐらい前から運動を始めて、食べることの大切さを別の側面から痛感し、大切だと考えるようにもなった。
いろいろな国を旅して、いろいろな土地でできたものを、いろいろな調理方法で食べた。それらによって作り上げられる肉体は地域によって異なっていた。旅では、その他にも、旅の途中に一人で食べるよりも、誰かと食べるとおいしく感じた。

バイトをほとんどしたことないが、まかないを狭い事務所で壁を目の前に食べたときに、息が詰まると思った。死ぬまで壁を目の前に見ながら食べないと決めた。

今回の徳島では、いろいろな方とご一緒させていただいて、いろいろな食とその場を楽しんだ。同じ釜の飯を食うというが、まさにそうだと思うし、食べるという行為は個人の肉体と精神を作り上げるし、人と人との関係も作り上げる。

世の中、本当に大切なことって実はすごく身近にあって、ありふれたものなんだろう。
それは、食べることだけじゃなく、衣食住のすべてだし、家族だし、普通の日々が送れる健康だし。
しかし、身近にありすぎて、大切さに気づけない。
大切だと知っていても、頻度多く接触したり、当たり前になりすぎて、ありがたさ、大切さの気持ちを注げない。

なんでかなって考える。
こうした本当に大切なものを大切にしても、社会的に評価されたりするわけでもないからだろう。そんな場合が多い。
しっかりした食生活を送っても、誰も評価してくれないし、自分が健康でいられるのがメリットぐらい。
副次的には、健康でいられるから家族が幸せになる。
ただ、テキトーな食生活をしてもすぐに不健康になるわけでもない。

こうしたことは、刺激的ではないし、細く長い自分自身だったり、本当に身内の幸せだったりする。
ここがポイントで、この部分に対して本当に想いを込めれるかどうかだ。

そういったことに大切さを感じれるには、なかなか精神の成熟が必要な気もする。
特に、僕みたいに効率的になってしまったり、刺激のあるものに喜びを感じてしまう人間は。

そんなことを感じた。

こんな偉そうなこといいながら、なかなか食の改善は難しい。まずは、よく噛んで食べることぐらいから始めよう。

送信者 徳島の旅・神山と祖谷
送信者 徳島の旅・神山と祖谷

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