趣味の業務化問題

今回の宮古島トライアスロンとUTMFで感じた1番のことは、趣味の業務化問題。
そんなもの問題でも何でもなくて、結論、お前の趣味なんだから好きなようにしろということだと思いますがw

それは、さておき、感じたこと、考えたことを。

昨年はPTL、アコンカグアと失敗続きだった。
本気でやりたかったことに、本気で勝負して、本気で負けた。
負け癖がついていた。
これは良くないということで、今年前半の最大のイベント、ミヤフジ(宮古島トライアスロンとUTMFの連戦)を両方とも完走したかった。
個別に完走するんじゃなくて、2週続けて(厳密には中4日)で両方完走することをミヤフジといい、それを達成したかった。
それは、トライアスロンとトレランの国内最高峰レースかつ長距離レースを連続で達成するということ。
個人的な意味合いとしては、体力、筋力、精神力、仕事の調整力、体調管理、事前準備など、総合的な自己管理能力の証明みたいなもんだと思っている。

これを確実に達成するために、ベストな方法をとる。達成する確率を上げる行為。それは、どうも業務的、仕事的になってしまう。

計画的になり、無理をせずリスクを避け、安全な選択肢を選んで行く。
もちろん、チャレンジングなことだからリスクとかは常に潜んでいる。
だからこそ、リスク低減の方法を徹底的に遂行する。

無理をしないことが最終的にベストな結果を生むことは正しい。
目標がミヤフジの完走であれば、それの達成のみを優先し、タイムは気にしないという判断が正しい。
正確には確率論的には正しい。

今回は、
一定のペースを保った。
登りは小股で歩いた。
足は蹴り上げず、擦るように走った。
心拍を上げるような走りはせず、鼻歌が歌えるレベルを保った。
水もたくさん飲み、塩分、アミノ酸なども。
マッサージも中間地点で受けた。

その結果として、ミヤフジ完走が着いてきたことは、まぎれもない事実。
我武者らにやっていたら、ミヤフジ完走はなかったかもしれない。

ただ、それが感情の盛り上がり的にもベストかというと違う。
業務的であると感情のワクワクがすくなくなる。

中庸という概念かもしれない。
平凡なのかもしれない。

ある種の無謀さの中に、何が起こるか分からない未知が存在し、そこにドキドキを感じる。
その場の雰囲気や感情に任せて、行動をとると、さらに感情は高ぶり、興奮し、アドレナリンが出て、強烈な楽しさなどを感じる。

感情の高ぶりで、スタート直後からスピードアップしてしまう。周りの声援も大きく、テンションMAX。
でも、これは最初飛ばすと、後半に足の筋肉が死んでしまう典型パターン。
計画的であれば、周囲がスタートで盛り上がっていても、淡々としたペースを保つのがベスト。

もちろん、宮古島トライアスロンもUTMFも堪能した。
好きでやって、楽しんで、結果が着いてきた。
多くのサポートをしてもらって、本当にうれしかったし、ありがたかった。
この上ないことだ。

しかし、張り裂けるような感情はなかった。
計画的だったので、筋肉も間接などもたいして痛くないし、胃腸も普通、制限時間も余裕ありだからだろう。
だから、こみ上げる衝動もなかった。
そういった、強い刺激物を欲してしまう。

感情的な生き物であるはずの人間にとって、無理をしないことは感情の起伏が少なく満たされない。
それを超えての、悟りの世界とは分かりつつ、まだ僕は刺激を求めてしまう。
分かりやすいものに、答えを求めている。

強い感情に最終的に求めるものが行き着くところなのか、どうかは分からない。
悟りという概念イメージからすると、違う気がしていて、その感情にすら左右されない何かがある気もする。ただ、そこに行き着くにも、感情に振り切った経験と、こうした趣味の業務化問題を合わせて経験を積み重ねた結果として見えてくるものなんだろう。

趣味がエスカレートして行き、難易度が上がると業務的にならざるを得ない。そうしたときに、どうやって向き合って行くかが今後興味があるところ。趣味を自分の中でどういった位置づけで向き合って取り組んで行くかという。すぐに答えは出ないので、引き続きの継続検討案件入りだ。

同じようなことを3年前にも思っていた。
全力でやり抜きたいのに、抑えなければならない辛さ。

送信者 UTMF2014

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