月別アーカイブ: 2013年5月

浮かんで揺れるやすらぎ

自分が無意識のうちにとった行動を後から意味付けしたくなる性格だ。

自分だけじゃなくて人一般の行動も。

プールのあとに風呂に入っていた。東京体育館の風呂は大きく、足を伸ばすとちょうど足が浴槽の縁に乗っかるぐらい。頭を倒し、足を投げ出して浴槽のふちに乗せる。すると、体はお湯のなかに浮きゆらゆら揺れる。

ふと、思った。いつもこうして風呂に入っているのはなぜか。お尻をお風呂の底につけて座って入ってもいいのに、何故かいつも浮かびゆらゆら揺れて風呂に入っていた。

こっちの方が心地よいのだろう。ためしに、座って入ったが、やはり解放されたやすらぎはない。固定されてしがらみにとらわれている気持ち。

そうか、ハンモックも、ダイビングも同じか。

お母さんのお腹のなかと同じと言ってしまうと簡単な結論に逃げている気がするが、浮かびゆらゆら揺れる心地よさは確かだ。大切にしたい感覚。動的平行じゃないけど、1/fゆらぎじゃないけど、なんだろうか、止まっていない適度なゆらぎは心地よいのだろう。電車の揺れが眠りやすいとかいうし、もう少し調べてみると面白そうだな。

送信者 八重山2008

死の中にも生が内包されている

昨日、日比谷公園のオクトーバーフェスで芝生に座りながら、話しながら、飲んでいた。

空には、満月かと思うような大きな月が輝いていた。
でも、満月になる1日前の月。
真ん丸くないからこそ、真ん丸よりも美しく感じる月だった。
それは、三日月にならない、二日月のぎりぎりの存在感と似ていた。

帰りの電車で、考え事をしながら、ふと思いだすことがあった。

生の中に死が内包されているのは分かるが、死の中にも生が内包されていること。

というのは、生きていても、いつ死ぬかもしれない。
町を歩いていても、車が飛び出してひやっとしたり、突然の病気だったり、自然の中での危険だったりと。
寝ている時間というのも死に近しいものかもしれない。

生きていながらにして、死は身近な存在としてあり、かつ自分の心の中に死がつねにある。

一方で、死の中にも生があるんだと思った。気づいた。
生死の共存。

例えば、100年という長寿の方がいた。大きな病気もなく、元気に暮らしていた。
しかし、ある朝、突然、死を迎える。
ただ寝ているだけのような、睡眠の延長で死を迎えたような死。

こういった死をみていると、死んだ人であろうとその人の中にまだ生が宿っている気がしてくる。
それは死ではなく、生の状態が少し変化しただけなのではないかと。
こういった感覚は身近な人の死でより深く感じるようになるのだろう。

茂木さんの本のタイトルをもじるとこんな感じかな。

生きて死ぬ私
死んで生きる私

送信者 大分、熊本、宮崎

振り返ると、色々な経験をさせてもらっている人生だと思う

過去の自分のブログを引用しようとした。
書いたことの概要は覚えていたが、キーワードで検索しても見つからない。
そこで、1記事ずつ順番に見ながら遡っていった。

全て自分の書いた文章だし、自分が考えていたことだし、自分が感じてきたことだし、自分が経験してきたことだ。

それにも関わらず、すこし他人事のように、色々な経験をしているなと思った。
言い方を変えれば、色々な経験をさせてもらっている人生だと思う。
さまざまなことを経験している渦中にいると見えないけれど、こうやって振り返ってまとめて見ると、改めて感じる。

当事者としてまっただ中にいると、特にいろいろなことをしているという認識はなかったが、ブログと写真を見返してみると、いろいろ経験して、いろいろ考えてたんだなと思う。
ありがたい。もう、これは周りに感謝するしかない。

そして、思うのがブログを書き残し、写真を撮ることを初めて、思いで巡りをする楽しさをもらったと思う。
まあ、まだまだこれからの人生なんで、過去だけ見ている訳じゃないけれど、未来も過去も今も楽しみながら生きていけたらと思う。

思い出をより彩り豊かに再現してくれる写真と文章を残しておいて良かったなと思う。

でも、経験を重ねることによって、見えなくなることがあることも忘れてはならない。
経験した人しか分からないことがあるということは、経験していない人は分からないということ。
経験していない人の気持ちが分からなくなってはいけない。
一度経験すると、していない時のことを想像するのは難しいが、なんとかその感覚をもっていなければ。
それだけは肝に命じておこうと思う。

送信者 小笠原

無意識の処理能力が脳の回転速度を決定する

この人は地頭が良いとか、頭の回転が速いっていうけど、それは何なのか。

一般的に言われる頭の回転が速いってことは、以下のような可能性があると思う。

・経験が抱負で過去に同様の経験があり、対応方法が分かっている。
・タグ漬けというかレッテル(思い込み)があり、意思決定が速い
・具体的な経験を抽象化して脳にストックできており、新たな具体的事象にも類似の出来事を当てはめて考えられる
・1を聞いただけで様々な可能性を予想して展開をイメージでき先に打ち手が打てる
・無意識の情報処理能力が高い

で、今回は無意識の情報処理能力について思うことを。

習慣化することによって、意識でコントロールする脳の部分を使わなくても良くなる。
そうすると、無意識でできることが積み重なる。

意識で動かせる脳(処理)はある瞬間で(同時に)ひとつ。
一方で、無意識で処理できることは2つ3つ・・・無限な感じ。

様々な経験をしたり、職人のように体が覚えたり、習慣化することによって無意識にできることが増える。
すると、無意識で処理できることが増える。

意識で処理できることは皆1つだから、無意識の処理数が増えれば増えるだけ、短時間でより精度の高いアウトプットができるはず。
さらに、同時に3つのことを脳が処理した場合と、1つ1つ処理して3つのことを脳で処理した場合では、かかる時間が長くなるだけではないと思う。
無意識も使って同時に処理したときの方が、3つのことの関連性も踏まえてベストな解をアウトプットできる気がする。
まあ、根拠はないが感覚的にそう思うのだ。

イメージとしては以下のような感じ。
みんな【意識】処理は1つだけだが、無意識処理できる数が違う。
ここではCさんが一番、脳の回転速度が速いと言われるはず。

A:”無”意識処理1+”無”意識処理2+【意識】処理1
B:”無”意識処理1+”無”意識処理2+”無”意識処理3+【意識】処理1
C:”無”意識処理1+”無”意識処理2+”無”意識処理3+”無”意識処理4+【意識】処理1

まあ、無意識って本当にスゴイと思う。
無意識で処理できることを増やしていきたいと思う。
そのためには、経験を重ねたり、習慣化したり、感じたり、考えたことを、自分の中にしみ込ませる必要があるんだろうな。

※ちなみに、深い思考と頭の回転が速いってのは別だと思う。

送信者 五島列島(上五島)と軍艦島

一人で旅にでれば、誰もが詩人になる

フェリーのデッキで潮風を感じ、海を眺めている時、詩人になる。
インドで寝台列車に20時間も揺られ続けている時、詩人になる。
ヒッチハイクをして、ドライバーと会話が尽きた時、詩人になる。
南の小さな島で透明な海に沈む夕陽を眺めている時、詩人になる。
山に登りテントを張って、天の川を見上げている時、詩人になる。
葉が散る季節、焚き火を眺め、酒をちびちびやる時、詩人になる。

想像を圧倒的に超える美しい自然を目の前にする。
文化も価値観も異なる世界で人の優しさに触れる。
旅ではこんな世界に出会う。

そして、1人であれば、それを共有する人がいない。
自分の中に、その世界を全て受け止める。
だから、その感情が詩となって沸き上がってくる。

一人で旅にでれば、誰もが詩人になる。

送信者 八重山2008

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自分が過去に書いたブログを探していて、アタリをつけて検索キーワードで調べても見つからない。
しかたなく、過去の記事をひとつひとつ遡っていった。
ついつい過去のブログを読みながら、こんなこともあったなと思いで巡り。
ふと、旅をしたときの文章がいつもと違う表現、いつもと違う言葉をつかっているのだ。

なんでかなって、考えれば、そりゃそうかとも思える。
それで、一人旅は、人を詩人にするんだなって思った。