長距離を走る理由「自分との対話」

山にしろ道路にしろ長距離を走る事をしている。
昨年から始めた水泳も同じような要素が多い。
ずっと一人旅しているのも、この理由からだ。

「自分との対話」

自分との対話をするために、走り、泳ぎ、本を読み、文章を書き、写真を撮り、旅をしている。
もちろんそれ以外にも理由があるが、全てに共通する根底を流れるものだ。

「自分との対話。」
自分の何と対話しているかと言えば、肉体であり、精神である。
そして、自然と対話し、社会や文化と対話し、人間の原初の感情と対話する。
走ることによって、様々なことを考え、感情を捉え、それら全てを自分の中で整理する。

特に長距離を走っていたり、知らない国を旅していると、感覚や感情の全てが繊細になる。
長距離を走っていれば、肉体が敏感になり体の少しの変化にも気づくようになる。
肉体を長時間に渡って極限に追い込むので、足の小さな痛みや変化に気づき、今どうなっているのかが想像がつく。
まるで、小さなものを虫眼鏡で見て、ハッキリと見えたときのように。
普段は気づかない肉体と精神に気づく事が出来る。

これは、肉体だけではなく精神においてもだ。
もうダメだと思ったときの感情、自分が諦める瞬間の心などが増幅されて現れてくる。
自分の精神の弱さと強さ。

知らない文化や言葉の国を旅すると、分からない事ばかりだ。
その国の人にとっては当たり前の事でも、知らない旅人にとっては全てが驚きの連続だ。
だから、自分のアンテナがピンと張り、センサーは繊細になる。
これは欧米なんかよりも、現代日本とはできるだけ接点が少ない国の方が、敏感になる。
こんな文化があるのか、こんな習慣があるのかと。

そんな「自分との対話」

そう言ったことをしていると、動物としての本能が呼び覚まされ、肉体と精神と対話する。
山を走れば自然が見えてくる。少しの変化に気づく。動物の足あとに、口に入れる野草の不安、食べる事の意味を考え直す。動物としていく抜く事を考え直す。

そして、100キロも走っていると、人間の本能がむき出しになる。
些細な事で苛立つ人、自分が限界に達していても相手に声援を送る人、自分は走らないけれどドリンクや食べ物などを提供し精一杯応援してくれる人。
人間の感情に出会える。

真っ暗な夜道を1人で歩いていると、遠くの足音に敏感に気づく。これと同じ原理だ。
現代社会では、こういった環境を意志を持って作り出さないと、自分との対話の機会がなかなかない。

極論かもしれないが、ひきこもりも長距離走も一人旅も一緒だと思う。その現れ方の違いだけだ。そう言うわけで、僕はああだこうだ無駄なことを考えて、楽しんでいる。

こんな偉そうなことを書きつつ、最近走ったのはいつだっけ?と思うぐらいだ。水泳10に対してランニング1ぐらいだな。たまには走りに出かけよう。

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