月別アーカイブ: 2009年6月

「誰も知らない」「歩いても歩いても」

先日、是枝監督の映画を4作借りてきて見ていると書いたが、残りの2作品も見た。

「幻の光」’95
「ワンダフルライフ」’98
「誰も知らない」’04
「歩いても歩いても」’08

このように公開順に見たのだが、後の作品ほど映画の細部にわたる表現方法が絶妙で、感情移入ができた。


「誰も知らない」

映画の中と同じような「東京」と言う町で暮らしていると言う不確かさ。
すぐそこで起こってもおかしくない出来事。

親子関係。
地域との係わり合い。
親との関係性において子供が育つということ。
都市社会と個別化。
その希薄さ。

非常に興味深いテーマの作品だった。

「誰も知らない」は日曜日の朝7時からみ始めた。
9時過ぎに用事で家を出なければならない。しかし、あと少しだけ映画が残っている。
もう行かねば間に合わない。でも、後ろ髪を引かれる。そんな映画だった。

都内の2DKのアパートで大好きな母親と幸せに暮らす4人の兄妹。しかし彼らの父親はみな別々で、学校にも通った事がなく、3人の妹弟の存在は大家にも知らされていなかった。ある日、母親はわずかな現金と短いメモを残し、兄に妹弟の世話を託して家を出る。この日から、誰にも知られることのない4人の子供たちだけの”漂流生活”が始まる。

送信者 いろいろ

「歩いても歩いても」

同じ家族とはいえ、人それぞれの人生がある。
そしてその一人の周りにも、いろいろな人生の人がいる。
そして、一人一人と社会との関係性がある。

微妙な心理が表現されていて、引き込まれていった。

この映画は重松清さんの小説を読んだ後のような気持ちになりました。
「ビタミンF」とか「口笛吹いて」とか

夏の終わり、横山良多は妻と息子を連れて実家を訪れた。開業医だった父とそりのあわない良多は現在失業中のこともあり、ひさびさの帰郷も気が重い。明るい姉の一家も来て、老いた両親の家には久しぶりに笑い声が響く。得意料理をつぎつぎにこしらえる母と、相変わらず家長としての威厳にこだわる父親。ありふれた家族の風景だが、今日は、15年前に亡くなった横山家の長男の命日。何気ない会話の中に、それぞれの思いが沁み出していく……。


「幻の光」「ワンダフルライフ」是枝裕和監督
http://teratown.com/blog/2009/06/14/oioyiyoyayoyeyeyyoathiuiaaeaea/

砂浜で夜空を見上げ、流れ星を待つような音

「エクアドルの空港で寝れますか?」
5年ほど前の、この一言が全てのきっかけだ。

夜エクアドルに到着する飛行機だったため、深いことは考えずにネット上のエクアドルコミュニティで聞いた内容だ。この質問に答えてくださった方にはエクアドルについてからも大変お世話になった。エクアドル以来お会いしていなかったのだが、1、2年前から日本で住みはじめ、那須の自宅でライブをするということを日記で知った。予定はなかったが日曜の夜で、調べたら終電がなかった。最初は諦めたのだが、僕の感性にあっていて、今回は逃しちゃだめ!南米より近いから!と言われ、よし行こうと決めた。

新宿駅からバス(那須リゾートエクスプレス)に乗り3時間程度で友愛の森という場所に到着した。5年ぶりの再開。エクアドルでお会いして、次は那須というのが不思議な感じもしたが、久しぶりの再会とはうれしいものだ。バス停付近から数分の家まで連れて行って頂いた。もともとギャラリーの予定で造られた家は、とても大きくてきれいな所だった。

到着すると、本日の演奏家である長屋和哉さんがいらっしゃった。長屋さんはガイアシンフォニーという映画に音楽を提供し、ご自身も第6番で取り上げられている。僕の好きな星野道夫さんも同じ映画の第3番で取り上げられている。長屋さんは僕よりも20歳ぐらい年上なのだけれど、気さくにお話してくださった。長屋さんと二人でライブの荷物搬入や設置のお手伝いをさせて頂いているときに、色々な話しをした。すると感性や興味が共通していたり、同じ岐阜県出身ということで一気に近づいた。


準備完了

その後、「耳をひらく、心をひらく」というワークショップ。

夜空を見上げ流れ星を待つようなワークショップだった。このワークショップは参加者が仏壇にあるおリンを鳴らすだけなのだが、周りの人が鳴らした音の余韻に浸りながら、自らも音を発する。その絶妙な駆け引きがいとおしかった。いつ誰がどのタイミングで、どんな高さの音を鳴らすか分からない。鐘の音色が細くなっていく。かすかに聞こえる音に耳を澄ませる。どこでなるか分からない次なる音に神経を集中する。まるで、夜空を見上げ流れ星を待つかのようだった。リンの音も高く澄み切った音であり、流れ星をイメージさせた。

音に集中すると自然と目を閉じ暗い世界になる。すると、本当に闇の中を流れ星が流れるように、リンの音が鳴り渡った。何度かリンを鳴らしていると、どんどん精度の高い空間になり、調和のとれた音の重なりに鳴った。何度か繰り返すと自然と参加者の心が通じ合うのか、音がきれいに重なり合っていったのだ。

砂浜で夜空を見上げ、流れ星を待つような音を楽しむワークショップだった。僕の中では、西表島にある船浮という集落のイダ浜を思い出していた。蛍が舞い、誰もいない砂浜に寝転がり夜空を見上げる。波の音に包まれていると、ふと星が流れる。そんなことを、長屋さんに話したら、長屋さんもかなりの旅好きで色々な場所を訪れており、西表島の船浮も行ったことあるよだった。

ワークショップの間に長屋さんが、五感の感じる絶対量は一定で、例えば視覚を閉じれば聴覚が鋭くなるという話をされていた。これにはすごく納得する。中学ぐらいから真っ暗にして風呂に入る癖がある。一日中目を使って生活しているから目を休めるにはちょうど良いのと、目以外の感覚器が鋭くなるから。
4年ほど前にも同じことを書いている。「お腹の中で聞いた鼓動」ついでに風呂に真っ暗で入るエントリー

その他にも、きれいな音だと長く感じない。汚い音だと長く感じる。ということ。最初3分だったが、参加者の心がバラバラで音はきれいではなく、長く感じた。最後は8分なのに長く感じなかった。他者が鳴らす音を聞き、自らの音を奏でる。その調和がより洗練されていたからだ。実際に感じたことを言葉で再確認すると、納得できる。


闇に包まれ、雨が降る

その後、夕食のカレーとサラダをいただきしばらくして、長屋さんのライブが始まった。世の中で一般的な楽器はあまり使わず、ヤンナンという打弦楽器、インドネシアのドラ、仏具などを使って演奏する。30代半ばの時、対馬の海神(わだつみ)神社を訪れたときに聞いた幻聴が金属音で、それを再現しているのだと言う。

とても小さな音を奏で始める。かすかな高い単音に耳を澄ませる。すると神経が一点に集中して行く。音を聞く状態に自然と導かれていく。演奏の開始とともに、音楽に集中するモードになっていた。

ヤンナンという打弦楽器の音が美しかった。風にそっと揺れる白い羽衣に包まれるかのような音色。

そしてヤンナンの演奏もテンポが速くなり、ゾクゾク来た。ヤンナンの早弾きはリズミカルにとても早く演奏する。ワクワクしてくる。心が踊り始める。そして、インドネシアのドラと大きな黒いドラの2種類を使った演奏に心を揺さぶられた。自分の中に潜む自分自身が暴れる、飛び出そうとする。そんな音楽ははじめてだった。暴れようとする自分の中の自分を、自分が必死で押さえた。それでも体の内側から飛び出して来て、体が反応して動く。ドラの演奏は体の細胞を振るわせた。

細胞が振るえるような演奏を聞いたのは初めてだった。2、3年前に越後つまりトリエンナーレの閉会式で聞いた鬼太鼓座がそれに近かった。この時は野外だったので、またひと味違っていたけれど。


演奏

ライブ終了後は、「すべての美しい 闇のために」というヤンナンのCDを買う。ドラの演奏が入ったCDがあるか尋ねたら、ないようだった。それを聞いて、あの音はライブだからこそ伝わってくるような気がした。

お客さんも帰り、楽器の片付けを行う。準備した時の巻き戻し。演奏を聴いてから楽器を見ると、準備の時とはひと味違った印象を持つ。片付けの時も、色々な話しをした。興味の対象や感じ方に共感できることが非常に多かった。お会いする前に持っていたイメージと異なっていたが、僕に取ってはとても良い方に異なっていた。演奏者と客という立場だと、見えない壁があり様々なことを率直に話せないけれど、一緒に準備をしたり、同じ岐阜出身だったり、飲んだりしたことで、壁などなくお話しすることができた。

片付けも終わり、飲み始めた。岐阜の話、長良川で泳いだこと、1人旅の話、結婚後の旅の話、身体で捉えることの話、ギャグ、笑いについて、日本の文化、島(波照間、パナリ、船浮)、ヤマに住んでいた人(サンカ)、海に住んでいた人、陸に住んでいた人、日本の歴史、神、神社などなど。とても面白い話しばかりだった。サンカに関する柳田国男の処女作を教えて頂いたりもした。

今度は八ヶ岳へ伺うことを約束して、眠りについた。

翌朝とても気分の良い目覚め。那須の朝はすがすがしかった。東京とは空気が違い、透明な空気があった。朝、散歩をすると植えられたばかりの稲に水滴がついていた。

その後、那須塩原駅まで送ってもらい、新幹線で東京駅へ向かった。

「幻の光」「ワンダフルライフ」是枝裕和監督

「幻の光」’95
「ワンダフルライフ」’98
「誰も知らない」’04
「歩いても歩いても」’08

ツタヤにあった是枝監督の4つの作品を全て借りてきた。4作品借りて、作品の公開順に見はじめた。

作品発表順に「幻の光」’95と「ワンダフルライフ」’98を、まずは見終わった。一人の監督作品を立て続けてみたのは初めてだ。

そもそも映画をあまり見に行くことがない。
DVDもほとんど借りたことがなく、久しぶりにレンタルカードを作り、DVDを借りた。

大学時代に一時期DVDを見ていたことがある。理由はあまりにも映画を見たことがないので、人並み程度に映画も見なければと思い見ていたことがあるのだ。ただ、習慣化することはなかった。
だからといって、映画が嫌いな訳では全くないのだが、本や音楽や写真のように常に手元にある友達には今のところ至っていない。

話しを戻そう。是枝裕和監督は知らなかったが、監督の映画は様々な映画賞を受賞したというニュースで知っていた。その程度であった。今回、是枝監督の作品を見るきっかけ(是枝監督にお会いするのだが、その理由はまた書きます)があったので、立て続けに見た。

以下その感想。

幻の光

夫を自殺で失った一人の女性の喪の作業(グリーフワーク)の過程を、心理描写を廃したロングショットの積み重ねによって描いていく-。

自転車の鍵とその鈴がこの映画全体をひとつにしている。映画全体につながりを持たせている。後半に出てくるこの鍵や鈴の音で、映画の前半のシーンの記憶を呼び覚まし、映画全体をつなげている。

映画の終わりに近づいたシーン。

なんで自殺したか分からん。
あのときに何で線路を歩いとったのかがわからん。
あんた分かる?

海に誘われることがあるって親父が言うとった。

このシーンが強く印象に残った。

ついでにカメラの構図が好きだった。

ワンダフルライフ

人生のたった一つの思いで。その思い出を胸にあの世へ行く。
上記の幻の光とワンダフルライフの2作を見て、死との関わり方というテーマを描いている監督なんだなという気がした。こういったテーマにも関わらず、是枝監督の作品は後味がすっきりしている。

この作品単体での感想は色々なタイプの人がいることを上手く表現していると感じた。ああ、こういったタイプの人間もいるなーという感じに思わせてくれる。見た目、話し方、考え方。それがこの映画をドキュメンタリーの様な印象を与えている理由だろう。

ああ、自分は何とともにあちらの世界へ行くのだろう。もう既におこった出来事なのか、これから起こる出来事なのか。いつ、どこで、何を、誰と。


「おわり」のない最後
を思い出した。

人は亡くなった時、天国の入口でこう言われます。「あなたの人生の中から大切な思い出をひとつだけ選んで下さい」その問いかけに死者たちは自分の人生を振り返り、後悔し、思い出に浸る-。この世とあの世の境界を舞台に、ファンタジーとドキュメンタリーの融合した物語が展開されていく。

送信者 四国

気が合うなと思う些細なできごと

今度飲もうと話していた友達から夜電話があった。
銀座にいたので有楽町で合流。

さあ、何を食べるか。
有楽町の駅前にある丸井が入っているITOCiAビルのショップリストを見ると、クリスピークリームドーナツの看板が。

おお、ここにも入っているんだという話しになる。
クリスピードーナツの新宿店ではいつも長蛇の列ができているのを知っていたし、どんな味なのか気になっていた。

平日のこの時間だから、空いているでしょー。ということで店の前まで行くと、数人並んでいるだけ。
じゃあ、食べよう。という話しになり、並ぶ。
並んでいると店員さんが、最も定番のドーナツをくれた。
並んで待っている客にドーナツを配ると言う噂は本当だった。
二人で立ちながら食う。うまい。
冗談で、これで十分だねと話しつつも、
マンゴー味とコーヒー味を朝ご飯用に2つ購入。

これから飲みにいくのに、その前にドーナツを食べる。
普通はあんまりないのかもしれないけど、こういった何でも気軽に試してみる姿勢が好きだ。

話題になっていて、気になっていて一度も食べたことがないから。
すぐ近くにあったので、並んでないか見に行ってみる。
そして、とりあえず試してみる。

些細なことだけど、こういったことで気が合うなぁと思う。

ビールケースを台にした机と丸イスが並んだ外で飲む。
梅雨の前だから、空の下で飲めていいねー、と。
見えるのは少しの夜空と高層ビルの光と電車。

日用品は高く、電化製品は安く買う?

現代人は日用品は高く、電化製品は安く買う?
という仮説。

2、30代はコンビニ世代。
だから、食費や日用品は定価であっても買う習慣がついている。
小額だし、スーパーがやっている時間に日用品を買うことができないなどの理由もあるだろう。

しかし、電化製品など高額な商品は最安値で買おうとする。
ネットで最低価格や製品のスペックを調べる価格コム世代。

そんな気がする。

一方で50代や60代なんかの世代は、10円安い大根を遠くのスーパーに買いに行く。
でも電化製品は近所のナショナル専門店のような電化製品屋で買ったりする。

どっちが合理的なのだろうか?といったことはどうでも良い。
それぞれの考えや行動習慣に基づいたものなのだろうから。

こういった消費行動の変化は面白い。


トカラ列島ではフェリーとしまで日用品が届けられる。