月別アーカイブ: 2009年1月

青い空とペルセポリスの大地

前回までの旅日記はこちら「旅先三日目に、旅は始まる」

ペルセポリスのような場所には青い空が一番似合う。この辺りは晴れが多いし、俺も晴れ男だから晴れるとは思っていたが、少しばかり心配で晴れてくれと祈っていた。朝、目を覚まし飛び込んできた空は、いつものような青空だった。「よしッ」すばらしいペルセポリスを堪能できる。さらに写真的にも青い空がベストだ。

宿の前でタクシーを広い、チャーターした。町中は渋滞で、車は全然進まなかった。朝のラッシュなのであろうか?タクシーがのろのろしているおかげで、荒野と青空を堪能させてもらった。

ついにペルセポリス。まずは、ナクシュ・ロスタム。大きな岩が彫られている石窟だ。タリバンに破壊されて有名になったアフガニスタンのバーミヤンと似たような作りだ。石仏はないのでバーミヤンとは異なるが、大きな岩を彫っているという点では類似している。やはり地理的に近いと文化も似るんだな。ちなみにナクシュ・ロスタムの石窟はお墓のようだ。平らな荒野の先に大きな岩があり、そこにお墓を作る。空から大きな岩が振ってきたかと思うような場所だ。昔の人々にとってはこの地が強いものの象徴だったのではないかと思った。

青い空に大きな石窟がズドーンとそびえ立つ。好きだ。好きだ。こういう構図が大好きだ。さらに、周りを見回すと緑の草が生えていた。荒野ばかりで緑なんか育ちそうにないから、耕している畑なのなだろう。イランでは珍しいこの緑と青い空と石窟という構図もとても美しかった。「最高っー」と大きな声で叫んでやった。

つづいてタクシーでペルセポリスに移動。だだっ広い道路の先に遺跡はあった。見て回るのに時間がかかりそうだったので、お水を買い、クッキーを食べエネルギーチャージ。準備は完璧、いざペルペポリスへ。ペルセポリスの周りもほとんど荒野なのだが、突如高い木々が聳え立ち始めた。おそらくは観光地化の整備で植林されたのだろう。少々違和感があったがご愛嬌。ペルセポリスには観光客もほとんどいなく、ゆっくりとマイペースで見る事ができた。

風化した柱や鳥や馬の彫刻たちが、あちらこちらにある。青い空とペルセポリスの風化した遺跡が見事にマッチしている。お互いを引き立て合っていてにくらしいほど。ぐるりと見て回るだけでも、2、3時間はかかった。さらに、掃除している兄ちゃんと話したり、売店のお姉さんと話しているとあっという間に時は過ぎていった。ペルセポリスの遺跡は、少し高い丘に石窟もある。ナクシュ・ロスタムのような石窟だ。ちょこちょこっと登り、石窟を見る。石窟を見て振り返ると、ペルセポリスが見渡せた。高いところというのは視点が変わって、新たな楽しみを与えてくれる。

こんな作りになっていたんだ。こういった配置になっていたんだ。高いところから見ないと分からない事がある。昔の権力者はこんな視点から見て、いろいろと決めていたのだろうか。

のども乾いたし、足もくたびれたのでタクシーでシラーズの町へ戻る。帰り道、ガソリンスタンドに寄った。天然ガスで動いているらしく、充塡に時間がかかるので並んでいた。イランではガソリンよりもガスの方がメジャーなんだと少しばかり驚く。少し遅い昼飯をチャイハネで食べる。チャイハネでしか食べられない、アーブグーシュトというもの。豆とか肉が入ったスープとナンとタマネギ。スープの中に入った豆をつぶして食べるもの。久しぶりに塩味以外のものを食べたので、すぐ体に吸収されたような気持ちがした。ただ、うまいわけでもなくまずいわけでもなくといった味だった。


[アーブグーシュト]

昼間のシラーズの中心地は人も車も多く騒がしいのだが、キャリームハーン城塞の中はガヤガヤとした町中とは別世界のように静かで落ち着いた場所だった。居心地が良くて、とくに何をするわけでもなく、くつろいでいた。ぼーっとくつろいでいる事にも飽き、町中へ出る事に。バザール、旅行代理店、ネットなどにいき時間をつぶし、暇つぶしにとLonely Planet イランを買った。写真を保存するために2GBのSDカードも購入した。


[キャリームハーン城塞]
暗くなってきたので、バスターミナルに向かう事にした。どっちか分からなかったが、まだ時間はあるからと思って、人に聞きながらバザールを見ながらターミナルへ歩を進めた。サンドイッチ屋のおじさんと話しながら、サンドイッチを食った。このサンドイッチは何でもないサンドイッチなのだが、ソースが美味かったので、少しだけ幸せな気分になった。バスターミナルに着くと、またシュークリームを食べ、チャイを飲み、夜行バスの出発を待った。20時30分にヤズドに向けバスは出発した。

旅日記の続きはコチラ「イランなのにキリスト教とゾロアスター教」

「Iranian Blue」~寺町 健 写真展~
期間:2009年2月15日(日)~28日(土)
   月曜は定休日です
   12:00~15:30 18:00~21:30
   (15:30~18:00の間は店が閉まっていますので、ご注意ください)
   店内は禁煙となっております。
場所:カルカッタカフェ
   〒166-0004
   東京都杉並区阿佐谷南3-43-1 NKハイツ101
   詳細地図はコチラ
   最寄り駅は阿佐ヶ谷駅になります。
   お食事の方は事前に予約をして頂けると幸いです。(tel:03-3392-7042)

PHSの電波が入るようになったと思います

5年ぶりにPHSを機種変更しました。
以前は半日で電池が切れ、家でも東京のど真ん中でも圏外が多かったですが、携帯の電波が入るようになったと思います。

おそらく電話がつながりやすくなったと思います。
番号そのまま、メールアドレスそのままです。

このタイミングで変更した理由は特にないんですが、前から圏外が多くて繋がらなくて迷惑をかけているなとは思っていました。それで変えた方がいいなとは思っていたのですが、めんどくさくて。

今変えたのは、なんとなく。
ヤマダ電機に行ったらタダで変えれる機種が少なくて、考える必要がなかったから。
だからこそ人間の消費心理は難しいと思いました。

TOSHIBAのWX320Tという機種のようです。
http://www.toshiba.co.jp/product/etsg/cmt/willcom/wx320t/wx320t_menu.htm

手応えをもって食べる

「サバイバル登山」という登山スタイルを聞いた事がある人は少ないかもしれない。サバイバル登山とは、電力(電池)で動くものを持たず、装備や食料もできるだけ持たず、可能な限り素のままで山を登るスタイルのことである。この「サバイバル登山」を作り上げたのは服部 文祥さんだ。

そんな服部さんを初めて知ったのは、立川の書店だった。歩きながら平積みの本を物色していると、目に飛び込んでくる表紙があった。魚の皮を引きちぎっている写真だ。さらに服部さんの目がギラギラしていた。タイトルに眼をやると「サバイバル登山家」とある。この写真とこのタイトル、何やら面白そうだぞということで買ったのがきっかけだ。昨年は「サバイバル!―人はズルなしで生きられるのか (ちくま新書)」という本も出版され、この本も昨年読み非常に面白かったのだが、読後の感想はまだアップできていません。。。

そんな服部さんの話しを聞ける機会があるというので、足を運んだ。始めは、どんなストーリーで話すか決まっていなかったようで、話しがあっちに行ったりこっちに行ったり。服部さん自身もなにを話そうかなと迷っているようだった。ただ、スライドが始まると小さい頃から現在に至るまでの出来事とともに、サバイバル登山に至った背景を語ってくださった。小さい頃は昆虫を取りにいったり山を駆け回っていたが、中学高校ではハンドボールに熱中。しかし、再度自然にふれたくて大学ではまた山を登りはじめた。K2を登ったときに、重たい荷物を何百人のシェルパに担いでもらい登山した事で、そんなことしてまで登る必要があるのか?と疑問をもち、サバイバル登山を始めたようだ。この辺りの事は服部さんの著書にも詳しく書かれている。

服部さんがしきりに話していたのは大学とK2には感謝しているということ。服部さんは都立大学出身なのだが、この大学を卒業している事で悪く見られる事はないし、頭のことで気にしなくても良い。さらにK2では酸素も使って登ったが、略歴として残るのはK2に登頂したということだけだ。それで、一流の登山家と見られる。この二つには本当に感謝していると。確かに、それ自体に本当に意味があるのかどうかは本人次第なのだが、周りから見ればスゴいということになる。世の中で要領よく生きるにはこういった事が鍵になったりするのは、良い悪いにかかわらず事実であったりする。

スライドを使い説明した後は、狩猟の話しになった。今、服部さんが最も熱中しているのが狩猟じゃないかと思うほど、楽しそうに真剣に語りはじめた。狩猟を初めて4シーズン目だという。山梨の狩猟仲間に混ぜてもらい、一から学んで狩猟をしているという。犬を使う狩猟や、一人で隠れて狩る方法、打った後のさばき方など狩猟の仕方を写真つきで説明をした後、今、服部さんが直面している葛藤に話しが至った。

散弾銃を使う事がフェアなのかということ。彼はそうではないと考えているようだ。銃はフェアではないし、威力のある道具だから事故の規模が大きいからだ。ただ現状では、銃を使わずに罠で捕まえる事は困難であるという事実がある。だから少しでもフェアになるために、チームではなく一人で山に入り、銃で撃った後はナイフで頸動脈を切ると言う。そして、おいしく頂くと。このようにこだわるには、ある経験があったようだ。パキスタンで泊まっていた宿の親父が、肉屋がやって来るから行こうと誘われ、そこに行くと肉屋の親父は牛を引っ張って連れてきた。そして切り株に頭を押し付け石でガツンッとやったという。その瞬間に服部さんは目をそむけた。その後、宿の親父に肉を食うかと聞かれ、食べると伝えたが、はたして自分に食べる権利があるのかと考えたようだ。

だからアンフェアなことが気に食わない。自分が殺さずに誰かが殺したものを食べることは卑怯なこと。殺している手応えを感じなければありがたみも薄れる。確かにそう思う。何かを殺しているから自分が生きている。生きているものを殺して食べなければ、人間は生き延びれないのだ。とは言っても、殺す瞬間というのはいつも心が痛むと言う。だから、昔からの習わしで、動物の心臓に3つ切れ目を入れて、お供えするようだ。一人だからやらなくてもいいのだが、昔の習慣に従っていると言う。服部さんは罪悪感を減らすために心臓に切れ目を入れてお供えするのかなと話していた。

自分で狩りした肉を食べて気づいた事がいくつかあるという。スーパーの肉は鶏のもも肉といえば全て同じ味、牛のヒレといえば同じ味。だが、野生の肉は個体によって味が異なるから、ひとつの個体を食べて、鹿はこの味だから嫌いとか、イノシシはこの味だから好きと決めない方が良いらしい。野生の動物は飼育されている動物と異なり、食べているものも異なるから、味も違ってくるのだろう。

そしてだんだんエンジンが温まり、最後は盛り上がった。服部さんは照れ屋で、器用はないと思う。でも、本当に自分が直面していることを最後に少し話して下さった。その時は纏っていた空気が変わった。それは登山に対する姿勢、なぜ山を登るかということだった。

最近は山に行く前に「ああ、死ぬかもな」と思わなくなった。だから自分の登山がシフトダウンしているんじゃないかと思う。それは美しくないんじゃないか。表現としてダメなんじゃないか。本や文章を書くために山に登る事はアリなのか?それは美しい事なのか?

なぜ山に登るのか?なぜ文を書くか?理由を考えてみると、かっこいい人間になりたいから。かっこいい人間とは、深い人間のこと。それが自分にとっては登山だった。小さい頃から横浜で育ち、たいていのモノは周りにあった、そんな現場感のない世代。だから現場の本物に触れたかった。何か自分を証明するものが欲しかった。その証明するものが登山だった。だから妥協はしたくない、と。

質疑応答で、サバイバル登山家の後継者を育てたくないか?という質問が出ると、「やりたい奴がやればいい。詩人と釣り師はつくれないというイギリスのことわざの通りだ。なぜやるかと言えば、ボクが深くなりたいだからやる。やりたい人がいれば教えることはする」と。

ついでに白馬山の池がきれいとか、間ノ岳が良いとか、八ヶ岳北面が好きとか、玄米をごぶずきにして食べると体力が着くとか、そんないい情報もゲット。さらに、「くうねるのぐそ」という本も知った。人間は本来食べたものを地球に還元すべきだとノグソをしている人の本。おお、素晴らしい発想だと思った。ちなみに僕の一番気持ち良かったノグソは、真冬の真夜中にチベット タンゲ峠でしたノグソ。

狩猟関連では「ぼくは猟師になった」 (千松 信也 (著) リトル・モア)という本も以前から気になっているが、まだ読んでいない。

知らず、知らずのうちにシラーズ到着

全開の旅日記はこちら「旅先三日目に、旅は始まる」

寝て起きたら、シラーズに到着していた。イランのバスではパンとお菓子が配られるが、それに一口も手をつけず、眠り続けていたのだ。シラーズは寒いと聞いていたが、それほどでもなかった。しかし、エスファハンとは違い、あたりを見回すとすぐ近くに赤茶けた山々が近くに見えた。標高も少し高くなり、かなり乾燥しているようだった。久しぶりの海外での夜行移動だったが、比較的新しいバスでそれほど疲れはたまっていなかったが、バスターミナルで一休みすることにした。チャイとシュークリームを食べる。シュークリームはうまいのだが、外国で良く味わう安っぽい甘さの生クリームで、ひとつで十分だった。

バスターミナルを出ると、道を車に乗っていた兄ちゃんに聞いた。すると、乗せていってくれると言うので、車に乗り込んだ。バックパックを抱えていたが、トランクに入れていいよと言うので、トランクにいれ出発。目的地と逆方向に進みはじめたので、確認すると町中は混んでいるので迂回するというようなニュアンスの説明をされた。そうか、と思い外の景色を眺めているとお菓子をくれた。イランにしては甘さ控えめのクッキーのようなものだった。

幹線道路になり、両脇は荒野になった。ドライブ気分で楽しかった。2、30分ほどすると、幹線道路沿いで車を止め、向こうに見える町がシラーズだと言う。少しばかりおかしいなと思ったが、そのまま降りた。トランクを開けようとした瞬間に車が急発進した。何だか分からなかった。友だち同士でやるいたずらをされたのかと思ったが、あっ、やられた。と気がついた。猛ダッシュで追いかけて2、3分走ったが車に追いつくはずはない。。。車が走りはじめ、前のめりになり右手を伸ばしているシーンは鮮明に目に焼き付いた。

ああ、どうしよう。やってしまった。海外で初めてモノを盗られた。それもバックパック丸ごと。持っているものは、お金とパスポートとカメラ2台だけ。落ち込んでもしかたない。パスポートなどが本当にあるかを確認し、その場で記念撮影もした。太陽が照りつける幹線道路沿いの荒野をとぼとぼと歩き続けた。盗まれた荷物が道に捨てられていないだろうかと、探しながら。しかし、あるはずがない。残り10日以上の旅で盗まれた事によって何か問題が起こるかもしれないと思い、盗まれたものを思い出していた。カメラのレンズ、カメラのフィルター、カメラの充電器、写真データの入ったSDカード、洋服一式、ダウンジャケット、洗面用具、日記、ヘッドライトなどなど。致命的なものはなかった。カメラを常に方からかけていて救われた。彼らにとって価値のあるものは特になり。しいて言えば、闇市で売れると言う視点では、バックパックやヘッドライト、ダウンジャケットあたりだろう。そう言ったものも愛着があり、非常に惜しいが、それよりも写真や日記を盗まれた事が悔しかった。金で買えないものにこそ価値を感じているのだなぁとしみじみ感じた。取り返しのつかない、代替のきかないもの。今回のこの旅でしか撮れなかった写真や日記だ。モノというものは、あるべき人のところにあってこそ価値があるのだなと痛切に感じた。

2、3時間荒野を歩いた。照りつける強い日射しを浴びながら。そろそろ町中に行こうと思い、道路を渡りしばらく歩いて町中に。でも、ここがどこか分からない。とりあえず、のども乾いたし、原も経たので見つけた売店に。場所を聞いてもイマイチ分からなかったので、前の道路を走るバスをつかまえた。市街地の有名なスクエアの名前を言うと、このバスはそこまで行くということなので、バスに乗る事にした。普段なら席があいても立っているのだが、どっと疲れが出て、席に座って呆然と外を眺めた。

町中につき宿に入った。宿に置く荷物もないが、ベッドに倒れ込みたかった。ホッとした。休憩してから飯を食いにいった。昼は元気を付けようと、ラムケバブを食べた。チキンケバブよりもラムケバブの方が安いし、うまい。警察を探し、町を歩いた。交通整理をしている警官に、身振りで盗まれた事を伝え警察署の人に来てもらい、警察署まで行った。警察署には逮捕された人もいて、あまり居心地のいいものではなかった。逮捕された人は警察に言い寄られたりしていた。早くここから出たい。しかし、調書をもらわないと旅行保険がおりない。みんな英語が話せないので、英語が話せる人に電話して、その人に俺が説明した。しかし、担当者も決まっていないようで、色々な人に同じ質問を繰り返しされるだけだった。なんだよこれ。さらに、外人が珍しいらしく、関係のない故おばかり聞いてきたりと。2、3時間いたが結局調書はもらえなかった、夕方来いと言われただけ。

保険会社に電話しようと思い、町行く人に聞いた。親切に教えてくれて電話屋さんまで連れて行ってくれた。親切なのだが、盗難の事件にあったばかりだと神経質になる。周りが俺を狙っているんじゃないかとか、怖い気持ちもあった。さらに盗難した奴らに町中で会うんじゃないかと、保険会社に電話すると、調書はいらないとのことだったので、夕方もらいにいく事は辞めた。

最低限必要なもの、パンツ1枚、靴下2足、歯ブラシ、タオルだけを買った。この後、これだけで旅をした。鞄はなくビニル袋2重で。何も持たずに旅をする事はこんな状況にでもならなければしないだろう。だからこそ経験できたこと、そして気づいた。何もまとわないって、身軽だと。心が解き放たれたような旅になった。荷物を持たない事で心が解放され、心の扉がさらに開いた気がした。

ホテルで寝て、夜はサンドイッチを2、3個食べて、寝た。こんなことがあったから、寝付きが悪いかと思ったが、すぐに寝れた。相当疲れていたのだろう。

ちなみに、イランの警察署ではチャーハンが出てきた。カツ丼ではなくイランの警察はチャーハンのようだった。

旅先三日目に、旅は始まる

前回までの旅日記はこちら「優しくされたエスファハン、優しくなれたエスファハン」

旅先三日目に旅は始まる。旅に出て三日目ぐらいに、日本でのリズムから「旅のリズム」になる。おそらく三日ぐらいの間に、旅する国のクセを感覚的に把握するのだろう。すると、心が軽やかになり、現地の人とのやりとりもスムーズになり、やっと旅が始まった感じがする。今回の旅先三日目はエスファハンだった。

送信者 イラン

[布団屋さんの紳士]

同じ宿で、同じように目を覚まし、同じようにホッとシャワーを浴びる。宿の人に聞くと、今夜のバスチケットが取れると言うので電話で予約してもらう。今夜は夜行バスでシラーズへ向かう。バスのチケットも取ったので、宿に荷物を置かせてもらい、町を歩く事にした。昨日の夕食をごちそうになったマスウッドさんに、「昼も食べに来なよ」と誘われていたので、行く事にした。マスウッドさんのお店に行く途中で、恰幅の良い優しそうな紳士に話しかけられる。道ですれ違って、話しかけられたわけではなく、彼は自分の店のガラス戸を開けて声をかけてきたのだ。英語はまったく話せないようで、笑顔でこっちへ来いと誘われる。とりあえず、店の中に入る事にした。その店は寝具を扱っている店で、ベッドのマットや毛布などが積まれていた。おじさんが一人でやっている店のようで、外を見ながら店番をしていたのだ。言葉は通じないが、身振りでチャイを飲むかと聞かれ、チャイをごちそうになった。本当に人が良さそうで、こちらも身振り手振り、そしていくつかのペルシャ語で会話をした。おじさんからも、お昼をごちそうするよと誘われたが、もう約束していたので断った。イランに来て、ランチの約束をダブルブッキングしそうになるとは想像もしていなかった。


[ドア工場のじいさん]

そして、マスウッドさんの洋服屋へ。着くと店は閉まっていた。まあ、仕方ないと思い、メモを書いて扉に挟もうとしたら、「Hi,TAKESHI!」と声が聞こえた。マスウッドさんが路地から現れた。またあう事ができた。少しばかり話していると、色々な人が来る。向かいのドアを作る工場のおじいさん、左斜め前の洋服屋の兄ちゃん、近くの食器屋の兄ちゃんなどなど。食器屋の兄ちゃんとは夜会う約束をして、ドア工場のおじいさんには作業を見せてもらった。小さな工場は2人でドアを作っていた。おじいさんは昔、手を切ったようで指が一本なかった。そんなおじいさんに近くのモスクへ連れて行ったもらった。町中のみんなが集う小さなモスク。有名でもなければ、特別大きいわけでもなく、きらびやかでもない。そんな普通のモスクからは人の匂いがした。

おじいさんと別れマスウッドさんの店に行くと、次は向かいの建物の地下へ連れて行ってくれた。なにがあるのかと思ったら、洋服を作る工場だった。洋服を作るといっても、袋に詰める最終段階だけを行っていた。ここでも、角砂糖たっぷりの甘いチャイをいただきながら話しをした。地下の狭い場所で3人の男がYシャツを綺麗にたたみ、袋詰めしていた。ひときわ小さい男性は、アフガンからの出稼ぎだと話していた。

また、マスウッドさんの店に戻り話していると、コーランが聞こえてきた。すると彼らはお祈りに行くからと、行く準備を始めた。僕にも、礼拝に行くかと誘ってくれた。お祈りの場はムスリム以外は入っていけないと聞いていたので、「仏教徒だからお祈りしないけど行ってもいいですか?」と尋ねると。「もちろん」といって、2軒となりのモスクへ連れて行ってくれた。外からはモスクだと気づかないほどの作りだった。でも、中に入るとお祈りの前に足や手を洗う場所があり、礼拝の場なんだと思った。中は絨毯が敷き詰められていた。マスウッドさんたちが足を洗うのを待ち、一緒に中に入った。すでに聖職者の人が一番前に立ち、コーランを読んでいた。ぞろぞろと男の人がモスクに集まり、並びはじめた。イスラム教でもシーア派でしか使わないという石を床に置き、それぞれのスタイルでコーランを唱えはじめた。男たちの声が重なり、胸に響いてくる。しゃがんだり、頭を石につけたり、立ったりと繰り返しながらコーランを唱えていた。お祈りの途中みながいっせいに「アッラー」と力強く唱えた。これが耳に入った瞬間、ゾクッとして少し怖い感じを覚えた。僕も神聖な雰囲気を感じ少しばかり緊張した。マスウッドさんに写真を撮ってもいいよと言われていたので、シャッター音を気にしながら数枚撮影させてもらった。


[祈り]

その後、マスウッドさんのバイクに乗り、昨日に続き家にお邪魔する、お昼ご飯はスパゲッティとピクルスとナンだった。昼ご飯は豪華と聞いていたが、特別豪華といった感じはしなかったが、おいしくいただいた。チャイを飲み、マスウッドさんが息子を小学校に迎えにいくと言う。そこで、一緒に車に乗り小学校へ。3時過ぎぐらいに到着すると、子供たちが校庭で遊んでいた。イランでは高校までは男子校しかないらしい。小学校にも、男の子しかいなかった。数人が近くに寄ってきて、話しをした。先生が小さな白い紙を子供たちに渡していた。何かなと聞くと、成績表のようだ。毎日テストが行われ、その結果が返される。なかなか厳しい学校だなぁ。その学校は地域で一番優秀な学校だと言う。それだからか子供たちは熱心に勉強しているようだった。ついでに、校舎の中を見せてもらう。日本の学校と似たような作りだった。職員室では校長先生にもご挨拶した。

さらに大学の進学率が女性の方が高いということを聞いた。これ自体は問題ではないのだが、イランでは男尊女卑の傾向がある。女性の社会進出は遅れている。教育を受けた女性が社会進出しづらく、教育を受けていない男性が社会で働く。このギャップが構造上おこっている事は、今後問題になるのではないかと思った。


[イランの小学校]

その後、エスファハンの町をバイクで紹介してもらう。モスクのタイル工場、布の染め物職人の職場など色々なところを見せてもらった。昔の家の扉も見せてくれた。右の扉と左の扉でデザインが違う。これは昔、男の人と女の人の扉が違ったためだと言う。これは過去の話しのようだ。こう思うと男尊女卑の厳しさは緩んでいるのかなとも思った。これが良い事なのか、悪い事なのかは別として、イランと言う国でもこういった変化は起こっているのだと実感した。

マスウッドさんと別れ、バザールを彷徨いながら、またイマーム広場へ行き、ふらふらと歩き、イマームモスクの中へ入った。この場所の居心地がとても良くてなんども通った。何度見ても美しいモスクだ。ライトアップされた、この広場も華やかな感じがしていいものだ。昼に約束した、食器屋の兄ちゃんに会う時間になったので、聞いていた場所の近くへ行く。しかし、分からない。住所も店の名前も兄ちゃんの名前も聞いていないから当たり前か。でも、携帯の番号だけ聞いていた。しかし、公衆電話からはカードでしか電話ができなかったが、カードが売ってない。しかたない、ということで2階建てのビルの電気屋さんに行き、この電話に電話をしてほしいと頼む。そしたら、食器やの兄ちゃんの店は、このビルの2階だった。こんなこともあるもんだ。話しながら町を歩き、友だちのアクセサリー工場へ見学に行く。それから、お茶をして別れた。優しい彼らは、宿の近くまで送ってくれた。


[ライトアップされたイマーム広場]

おなかが空いたなと思い、町を歩いていると、女子高生ぐらいの3人ぐらいに見られる。こっちを見てうわさ話をしている。イランの女子高生はシャイらしく、僕を見ると遠目で見ている子が多かった。あまり家族以外の男性と話す機会が少ないからなのだろうか。単純に年齢のせいなのだろうか。腹が減ったので店を探しながらゆっくり歩いていたら、追いかけてきて話しかけた。どうやら英語は話せないようだった。しかし、うれしそうにどこの国ですか?と聞いてくる姿がかわいらしかった。少し話して、別れ、俺はあいかわらずサンドイッチとサラダを食べた。

宿に戻り、しばらく待った。マスウッドさんがバス停まで連れて行ってくれると言う。10時に宿で待ち合わせをしていた。わざわざ、宿まで来て、バスターミナルまで送ってくれる。なんとやさしいのだろう。マスウッドさんは奥さんと子供をつれて車でやってきた。車に乗せてもらい、バスターミナルへ。もうこれで最後かと思うと、寂しくなった。こんなに優しくしてもらって、もうしわけなく感じるほどだった。マスウッドさんに、次イランに来る予定はあるのかと尋ねられ、口ごもってしまった。こんなに優しくされたのに、来ないとも言えないし、嘘もつけない。「まだ決めてないんだ」と伝えるのが精一杯だった。バスターミナルに着くと、建物まで連れて行ってくれて、バスの出発場所まで確認してくれた。ついに別れのとき。ありがとう、さようなら。覚えたペルシャ語で何度も言った。こんなにも「ありがとう」と伝えた事も久しぶりだな、と。

バスターミナルでチャイを飲んでいると、声をかけてくるイラン人がいる。誰だ?と思うと、昨日あった映画俳優ご一行さん。また、こんなところで。と盛り上がった。プロデューサーがテヘランへ行くから、その見送りのようだった。テヘラン便が先に出発し、その後、僕の乗るシラーズ行きが出発した。

イラン旅日記の続きはこちら「青い空とペルセポリスの大地」

*「旅先三日目」という表現は角田光代さんのエッセイのタイトルからお借りしました。

「Iranian Blue」~寺町 健 写真展~
期間:2009年2月15日(日)~28日(土)
   月曜は定休日です
   12:00~15:30 18:00~21:30
   (15:30~18:00の間は店が閉まっていますので、ご注意ください)
   店内は禁煙となっております。
場所:カルカッタカフェ
   〒166-0004
   東京都杉並区阿佐谷南3-43-1 NKハイツ101
   詳細地図はコチラ
   最寄り駅は阿佐ヶ谷駅になります。
   お食事の方は事前に予約をして頂けると幸いです。(tel:03-3392-7042)