月別アーカイブ: 2008年10月

逆効果ということを常に考えて生きてゆきたい

町で親子の会話が耳に入ってきた。
初老の女性と35歳ぐらいの男性の話す言葉が。
おそらく親子であろう。

女性は息子らしき人に、いろいろと怒った口調で話していた。
男性は何を話すでもなく、うつむきかげんで、少しうなずいていた。
具体的な会話は聞いていないが。

かわいい子には旅をさせよというが、母親は息子にあーだ、こーだ言い過ぎるべきではない。
親子の関係だけじゃなくて、夫婦だろうと男は女に弱いと思う。
尻に敷かれると良くいうし、自分の友だち夫婦を見ていても女の方が強い気がする。
これは親子にも適応されることで、母親に強く言われると息子は萎縮する。
どんどん殻に閉じこもる。

この男性は、俺が言うのもいささか変だが、明るい感じではなく、もの静かでしめっぽい感じの人だった。
もちろん、一瞬しか見ていないし、それだけで判断してはいけないと思うが。

逆効果だ。
初老の母親は自分が話していること、言っていることが逆効果だと気づくことはないのだろうか?
女性の言っていることは間違っていない。正しいことを言っているかもしれない。
言ったことを息子がやればいいと思っているかもしれない。
でも、人間なんてそんな言われた通りにできるもんじゃない。

自分の言っていることと全く逆方向に息子を導いている、そんなことに気づいていないのだろう。
人間の心には、逆効果ということが良くある。
機械だったらAといったらAなんだが。

まあ、この女性に限らず、Aと言ったら相手はAという行動をとると思う。
普通の場合はもちろんそうだから。
でも、Aと言っても、言われた方はBとなることだってある。
そんなふうになる場合も、人間の心ならおおいにある。
人間のこころをもとにした、人間の行動ならおおいにある。
Aをして欲しい時に、AだAだと言っても仕方ない。

これは自分への戒めでもあるんだろうな。
感情的な時や、こうだと決めつけてしまった場合、逆効果になることを忘れがち。
常に自分の行ったことが逆効果を生むのではないかと気にしていたい。
そうして、周りの人と接してゆきたいと思う。

送信者 四国

[影もある](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 100 露出: 1/640 sec 絞り: f/6.3 焦点距離: 38mm)

1週間続きました

弁当作り、1週間続きました。
しかし、最後の日は買ったものをつめただけです。
遅く帰ったけど、どうせだから金曜日の弁当も作ろうと思って。

弁当なんて、30分あれば十分作れるんだから、家で夕飯作らなくてもやる気になればできるんだな。
まあ、当たり前だけど、実際に自分でやってみると、確信を持てる。

さて、来週はどうしようか。
無理をせず、気が向いた時に作ろうと思う。

今回1週間続いた要因は、洗い物を残さなかったこと。
料理しながら、どんどん洗っていった。たぶん、食器を洗わずに、放置。翌日家に帰ったら、洗ってない食器が残っている。
それを見ただけで、やる気をなくして弁当は作らなかっただろう。

何かをやるぞ!と言う時に、作り出したいものにすぐ着手できず、それとは関係ない負のモノを処理することは、やる気をそぐ。
何かをやるぞ、って時のためにも、邪魔なものは早めに処理しておきたい。



弁当作りの話はまた、いつの日か。
弁当を作っても、作らなくてもブログには書かない気がするので、会った時にでも弁当作りの状況を聞いてくださいなぁ。
あ、とびっきり気に入ったできの弁当はついついブログに書くかも。

送信者 いろいろ

悪人正機 吉本隆明 糸井重里 新潮文庫

悪人正機 吉本隆明 糸井重里 を読み終えた。
非常に面白く、ドッグイヤー(本の角を折ること)をつけすぎてしまった。

様々なテーマについて、吉本さんが話していて、どのテーマも非常に興味深いので何を書こかうか迷ってしまう。
実に面白かった。吉本さんの考え方(主要な著書は読んだことがないが)は、視点が非常に面白い。今まであまり耳にしなかったような物事の捉え方をするが、どれも本質を着いているように思う。

本の構成に関してはさすが糸井さんと思わせてくれる。
「国際化」ってなんだ?とう章があると、はじめの1ページに糸井さんが吉本さんの話を聞いて感じたことと、吉本さんの話の要点がまとまっている。その後に、「国際化」について吉本さんが話したことが書かれている。ただ、糸井さんと吉本さんの対話形式で書かれている訳ではなく、吉本さんが語り続けているように書かれているので、(個人的に)読みやすい。対話形式の本だと、あっちいったり、こっちいったりで読みづらいのだ。

ここは、あえて「病院からもどってきて」という、最後のオマケのような章を取り上げる。

意識でもって鍛えたってしょうがない、ということがわかっているのでしょう。無意識の使い方が上手というか、-中略-自分でも、やっぱり意識的なものは、力にならないなぁと考えているし、無意識のうちにやれるようになれば、それはもう、ちょっとしめたものなんだと思っている

この部分を読んで、いくつか思い出した。「無意識下における情報処理の量が頭の良さを定義づける」と3年半ほど前に思いついたことや、「いざという時に考えたら死ぬよ」と言った、船で冒険する人(名前を覚えていない)の言葉を思い出した。

僕自身の仕事のうえでは、「自分はこういう方向で行くんだ」というように決めつけるとあぶない、という気がしています。-中略-「自分に対する自己評価、みたいなものがあるとすると、その自己評価よりも下に評価されることなら、何でも、やっていいんだ」と、ぼくはある時から、決めちゃったんです。-中略-「どんな仕事でも、とにかく毎日十年やったらモノになる」と言いましたが、十年以上やっている人は、まず、「自己評価が正確である」と言えるんです。

大学の同級生でどうしようもなかった友だちが、大きな一部上場企業の社長になり引退した。彼の唯一良いところについて。

要するに、そいつは、「逸らさない」んだよなぁ、と思いました。つまりバカな話であろうと、そうじゃない話だろうと、こいつは、逸らさない。人を逸らしたり、逸らした言い方をしたり、そういうことはないんです。-中略-きっと、下の人にも上の人にも、いろいろな面で、あいつなら、「逸らさない」だろうなあ、と思えるんです。逸らさないで真っ正面から・・・・・えっと、「大真面目」という意味では、ぜんぜん、ないのですけれども、

つまり、落ちこぼれると、その分だけ自由が手に入るんです。

人にいくら話を聞いても、宗教家から言葉でいくら解説を受けたとしても、そこに生きていたときの精神内容は依然としてわからない。それをわかるには、そこに生きていた人と同じことをやるよりしょうがねえ、みたいなね。

PS
開高健さんの知的経験のすすめと似ている部分がいくつかあった。
この本で吉本さんが言っていたことと、開高さんが書いていたことが似ている気がした。手や足を使えとか、終戦の話とか。

送信者 いろいろ

[物事にはいろんな見方、見え方があるんだよなぁ](PENTAX K10D DA18-55mm ISO: 400 露出: 1/10 sec 絞り: f/4.0 焦点距離: 28mm)

アレンジを加えた弁当

続いて筑前煮。まだ残っているので、弁当に投入。
さらに、シュウマイも1日あけて、再投入。

今日は冷凍食品の唐揚げをレンジでチンした後、野菜と炒めて甘酢あん掛けで。
甘酢あん掛けなんて作ったことないけど、ネットで調べて作った。
なかなか上手そう。味見はしてないけど、まずは野菜を炒め唐揚げを投入。
それらを皿に出して、甘酢あんを作る。片栗粉でとろみもつける。
そこに、唐揚げと野菜を炒めたものを混ぜる。

上手そう。香りだけでもご飯を食べられる。
そんな、気持ち。

今日も1品だけ作りました。

まあ、飲んでかえっても弁当作りは習慣になった。
夕食を作って、弁当のおかずにする日が待ち遠しい。

なんか、毎日弁当の色合いが同じ。
もう少し、見栄えを考えて弁当作りをしよう。これは来週の課題だな。

送信者 いろいろ

脳あるヒト心ある人

脳あるヒト心ある人 養老孟司 角田光代 扶桑社新書

養老さんと角田さんが新聞に交代で書いたリレーエッセイが新書になった。
最近あまり本を読んでいなかった。ちょくちょくは読んでいたが、本の途中までしか読まない場合がほとんどだった。
なぜか考えてみれば、夏で暑かったから、写真展やらハセツネやらでドタバタして少し疲れていた。最近電車が混んでいる。などなど。

そろそろ、本を読みたいなと思っていた時に、本屋で見つけた本が「脳あるヒト心ある人」だった。読む前から、中身が濃いわけでもないだろうなと思っていた。ただ、最近本を読んでいなかったので、気軽に読み切れる本が欲しかった。養老さんも角田さんも好きだ。角田さんの小説は読んだことないのだが、「旅先三日目」を知ってから、気になっている人だ。

新聞に書いたエッセイなので、毎回2ページで完結する。読み切り型で、電車で読むにはもってこいだった。さらに、養老さんと角田さんの掛け合いが面白く楽しめた上に、そうなんだ。俺が思っていることが言語化されている。そんな風に思える箇所がいくつもあった。

自分を変えない知識には、あまり意味はないー中略ー逆に言えば、学ぶなら自分が変わるまで学びなさい、ということである。(養老さん)

この文章を読んで、星野道夫さんの言葉を思い出した。

「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。  たとえば、こんな星空や泣けてくるような 夕陽を一人で見ていたとするだろ。もしも愛する人がいたら、  その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって? 写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、  いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな。 その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって……  その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。」(星野道夫)

理解不可能なことにはすぐに言葉が当てはめられる。働かない人はまとめてニートと呼ばれる。言葉を当てはめれば理解できたような気持ちになる。ー中略ー言葉で説明の着かないもの、当てはまる言葉のないものは、存在を認めにくくなってきているのかもしれない。
けれども自分も相手も世界も、言葉以前に存在している。時計がなくとも時間は流れている。私と言わなくとも私はその中にいる。(角田さん)

この文章を読んで、茂木さんと布施さんの対談での「名付けえぬものに向かって」という話(2007/11/04)を思い出した。

現代人は本質的に口先である。それを情報化社会という。口先だって、本質になればそれなりに立派だとも言えよう。それを現代文明という。私はそんな風に思っている。そこで欠けるのが、すでに述べた感覚の世界である。それを豊かにもっている存在を人は動物と呼ぶ。それを懐かしんで、現代人はペットを飼うのではないか。(養老さん)

僕は人間なのだが、感覚が中心となっている人間である。だから、人間というより動物よりなんだと思う。それだからか、ペットというものが昔から大の苦手である。自分のことを考えると、すごく納得できる内容だ。

走るというのは実に原始的な行為で、距離というものが自分の身体でダイレクトにわかる。自分が身体をもっていると言うことが感覚としてわかる。
そんなことはわかっても何の役にも立たないのだが、その役に立たないことを、わかりたい。道具や機械に頼らずに、自分の身体だけで何かを理解してみたい。こんな風に思うのは、たぶん私が年齢を重ねたせいだ。道具や機械に頼らないと言うことの難しさを二十年前より感覚として知っているからだろう。(角田さん)

まさに、俺が走ったり、歩いたり、山に行ったり、スカイダイビングしたり、海に潜るのは、このためだ。

自分の五感で捉えたことしか信用しない。それは偏狭に見えるかもしれないが、実は一番確かな態度だと私は思っている。ただし都会暮らしには当てはまらないかもしれない。都会はいわば脳の中で、脳の中では五感は働かないからである。(養老さん)

自分の意見が根本的に変わった経験のある人は、他人に寛容にならざるを得ない。相手の意見だって、その人にとって絶対的だ、などとは思わないからである。いずれ変わるかもしれないじゃないか。(養老さん)

一貫性という、人が無意識のうちに信仰するものがある。自分の過去と未来は一貫していたい。そう願う宗教のようなものがある。だから、自分の意見は変わらないと思っている。そう思いたい人が多い。しかし、いろいろな経験もすれば、知らなかった考えや世界を知る。そうすると過去の考えは崩れることもある。当たり前だ。僕はディベートと旅などをして行くうちに考え方とか物事の捉え方が変わったと思う。いろんな考え方があるんだなと実感した。そんなことを通して、考えは変わるんだと思うようになっていった。

意味もなく心を奪われ「うひゃあ」と言葉を失い、子供のように口を開くことは、大人になってしまうと恥ずかしいことなのかもしれない。長く生きれば生きただけ、知らなかったことがあるとは認めにくくなる場合もあるのだろう。知っていた方がかっこ良く思えるのだろう。
その後どうなるか考えもせず、便にすっぽり指を突っ込んだときの気分を、私はいくつになっても味わっていたいと思う。何かを見聞きし、口を開けて驚きおののき、知らないことはまだこんなにもあるのかと感嘆したい。私の中の子どもには長生きしてもらわなくてはならない。(角田さん)

死ぬまで子供でいたい。昔からそう思っている。

送信者 座間味島'08

[脳ある人も心ある人も、十人十色。いろいろなシーサーがいます]
(PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 100 露出: 1/30 sec 絞り: f/8.0 焦点距離: 20mm)