それはヒヤシンスの時間

植物を育てたとがない。
動物を飼ったことがない。

かなり昔まで遡れば、小学生の時にヘチマだったりひまわりを育てたぐらいだ。

ここ数年でも、植物を育てたいと思って園芸屋さんやホームセンターに行ったことがあるが、いざ買うとなると躊躇して帰ってきた。自分で育てられるか不安だったのだろう。毎日気を配って育てられるか。

先日、写真展をした時に、友だちがヒヤシンスの球根を持ってきてくれた。切り花はこれから枯れるだけだから、これから咲く花と言うことで球根をくれた。なんというセンスの良さかとうれしくなった。

で、ヒヤシンスを育て始めた。といっても水につけてあるだけ。毎日のように根は出たか?伸びたかと気になってチェックする。
今日の朝、見ながら思う。俺、焦り過ぎだ。俺の時間でこの球根の成長を見ている。この球根には球根の時間の流れがあって、そのスピードで大きくなっているはずである。俺の大きくなってほしいと言う気持ちは、球根には全く関係がないのだ。それにはそれの時間の流れがある。

それにはそれの時間がある。もちろん人でもそうだし、動物でも、植物でも。自分の目線だけで見ないようにしよう。ペットが苦手で飼ったことないし、植物も育ててこなかった。
だから、今更改めてこんなことに気がつく。

それぞれの時間があって、「自然とは自分ではどうしようもできないこと」と頭では理解しているはずである。でも、現代都市社会で生活していると、ついつい忘れてしまう。こんな自然の摂理をふと思い出すのは、旅をするときであり、山に登るときであり、海に潜るときであり、走るときであり、無人島に行くときだ。

2005年にも気づいていること。「自然をしらないということは」

ついでに僕はせっかちになっている。以前にも書いたが、ネットが普及して、人はせっかちになったと思う。ネットは自分の意志で全て進めていけるから。僕は昔からせっかちだったのに、それに拍車がかかっていると思う。だから、余計にヒヤシンスを見て、まだ芽がこれだけしか伸びてないと思った気がする。(せっかちというか、何をやるにしても早い方だと思う。早くことを済ませて、「ぼーっ」とするのが得意だ。電車に1日以上乗っていたり、何もない海で2、3日何もしないというのは得意だ。何かをすると言ったときはサッサと済ませるが、「ぼーっ」とするときは永遠にぼーっとしていられる。)

多くの人がペットを飼ったり、植物を育てるのは、彼らの時間を感じるためなのかもしれない。日常にもうひとつの時間が生まれることによって、日々の生活に彩りが加えられる。

今までやったことないこと、自分ではやらなかったであろうことは、やはり面白い発見があるな。ヒヤシンスありがとう。

送信者 いろいろ

[上から見るか、横から見るか、下から見るか。それに寄ってもヒヤシンスの成長具合の見て取れ方は異なる](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 400 露出: 1/200 sec 絞り: f/4.0 焦点距離: 29mm)

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