日別アーカイブ: 2008/10/23 木曜日

アレンジを加えた弁当

続いて筑前煮。まだ残っているので、弁当に投入。
さらに、シュウマイも1日あけて、再投入。

今日は冷凍食品の唐揚げをレンジでチンした後、野菜と炒めて甘酢あん掛けで。
甘酢あん掛けなんて作ったことないけど、ネットで調べて作った。
なかなか上手そう。味見はしてないけど、まずは野菜を炒め唐揚げを投入。
それらを皿に出して、甘酢あんを作る。片栗粉でとろみもつける。
そこに、唐揚げと野菜を炒めたものを混ぜる。

上手そう。香りだけでもご飯を食べられる。
そんな、気持ち。

今日も1品だけ作りました。

まあ、飲んでかえっても弁当作りは習慣になった。
夕食を作って、弁当のおかずにする日が待ち遠しい。

なんか、毎日弁当の色合いが同じ。
もう少し、見栄えを考えて弁当作りをしよう。これは来週の課題だな。

送信者 いろいろ

脳あるヒト心ある人

脳あるヒト心ある人 養老孟司 角田光代 扶桑社新書

養老さんと角田さんが新聞に交代で書いたリレーエッセイが新書になった。
最近あまり本を読んでいなかった。ちょくちょくは読んでいたが、本の途中までしか読まない場合がほとんどだった。
なぜか考えてみれば、夏で暑かったから、写真展やらハセツネやらでドタバタして少し疲れていた。最近電車が混んでいる。などなど。

そろそろ、本を読みたいなと思っていた時に、本屋で見つけた本が「脳あるヒト心ある人」だった。読む前から、中身が濃いわけでもないだろうなと思っていた。ただ、最近本を読んでいなかったので、気軽に読み切れる本が欲しかった。養老さんも角田さんも好きだ。角田さんの小説は読んだことないのだが、「旅先三日目」を知ってから、気になっている人だ。

新聞に書いたエッセイなので、毎回2ページで完結する。読み切り型で、電車で読むにはもってこいだった。さらに、養老さんと角田さんの掛け合いが面白く楽しめた上に、そうなんだ。俺が思っていることが言語化されている。そんな風に思える箇所がいくつもあった。

自分を変えない知識には、あまり意味はないー中略ー逆に言えば、学ぶなら自分が変わるまで学びなさい、ということである。(養老さん)

この文章を読んで、星野道夫さんの言葉を思い出した。

「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。  たとえば、こんな星空や泣けてくるような 夕陽を一人で見ていたとするだろ。もしも愛する人がいたら、  その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって? 写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、  いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな。 その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって……  その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。」(星野道夫)

理解不可能なことにはすぐに言葉が当てはめられる。働かない人はまとめてニートと呼ばれる。言葉を当てはめれば理解できたような気持ちになる。ー中略ー言葉で説明の着かないもの、当てはまる言葉のないものは、存在を認めにくくなってきているのかもしれない。
けれども自分も相手も世界も、言葉以前に存在している。時計がなくとも時間は流れている。私と言わなくとも私はその中にいる。(角田さん)

この文章を読んで、茂木さんと布施さんの対談での「名付けえぬものに向かって」という話(2007/11/04)を思い出した。

現代人は本質的に口先である。それを情報化社会という。口先だって、本質になればそれなりに立派だとも言えよう。それを現代文明という。私はそんな風に思っている。そこで欠けるのが、すでに述べた感覚の世界である。それを豊かにもっている存在を人は動物と呼ぶ。それを懐かしんで、現代人はペットを飼うのではないか。(養老さん)

僕は人間なのだが、感覚が中心となっている人間である。だから、人間というより動物よりなんだと思う。それだからか、ペットというものが昔から大の苦手である。自分のことを考えると、すごく納得できる内容だ。

走るというのは実に原始的な行為で、距離というものが自分の身体でダイレクトにわかる。自分が身体をもっていると言うことが感覚としてわかる。
そんなことはわかっても何の役にも立たないのだが、その役に立たないことを、わかりたい。道具や機械に頼らずに、自分の身体だけで何かを理解してみたい。こんな風に思うのは、たぶん私が年齢を重ねたせいだ。道具や機械に頼らないと言うことの難しさを二十年前より感覚として知っているからだろう。(角田さん)

まさに、俺が走ったり、歩いたり、山に行ったり、スカイダイビングしたり、海に潜るのは、このためだ。

自分の五感で捉えたことしか信用しない。それは偏狭に見えるかもしれないが、実は一番確かな態度だと私は思っている。ただし都会暮らしには当てはまらないかもしれない。都会はいわば脳の中で、脳の中では五感は働かないからである。(養老さん)

自分の意見が根本的に変わった経験のある人は、他人に寛容にならざるを得ない。相手の意見だって、その人にとって絶対的だ、などとは思わないからである。いずれ変わるかもしれないじゃないか。(養老さん)

一貫性という、人が無意識のうちに信仰するものがある。自分の過去と未来は一貫していたい。そう願う宗教のようなものがある。だから、自分の意見は変わらないと思っている。そう思いたい人が多い。しかし、いろいろな経験もすれば、知らなかった考えや世界を知る。そうすると過去の考えは崩れることもある。当たり前だ。僕はディベートと旅などをして行くうちに考え方とか物事の捉え方が変わったと思う。いろんな考え方があるんだなと実感した。そんなことを通して、考えは変わるんだと思うようになっていった。

意味もなく心を奪われ「うひゃあ」と言葉を失い、子供のように口を開くことは、大人になってしまうと恥ずかしいことなのかもしれない。長く生きれば生きただけ、知らなかったことがあるとは認めにくくなる場合もあるのだろう。知っていた方がかっこ良く思えるのだろう。
その後どうなるか考えもせず、便にすっぽり指を突っ込んだときの気分を、私はいくつになっても味わっていたいと思う。何かを見聞きし、口を開けて驚きおののき、知らないことはまだこんなにもあるのかと感嘆したい。私の中の子どもには長生きしてもらわなくてはならない。(角田さん)

死ぬまで子供でいたい。昔からそう思っている。

送信者 座間味島'08

[脳ある人も心ある人も、十人十色。いろいろなシーサーがいます]
(PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 100 露出: 1/30 sec 絞り: f/8.0 焦点距離: 20mm)