月別アーカイブ: 2008年10月

高橋尚子の引退とフォームの美しさと有森裕子と左膝と右足のくるぶしと、すれ違ったおっさんの関係、実はウルトラマラソン。

高橋尚子の引退とフォームの美しさと有森裕子と左膝と右足のくるぶしと、すれ違ったおっさんの関係についてご説明いたします。
そこにはウルトラマラソンも関わってくると付け加えなければなりません。

これらはご想像の通り「走るという行為」で繋がっております。
ただ、僕の記憶と思考の中で。

変な口調はやめて。

さて先日、高橋尚子さんが引退した。最近のレース結果からすると、その時期だったのかもしれない。
そんな彼女の金メダルをテレビで見ていて、走り方がきれいだなと思った記憶がある。
生で走る人を見てフォームが美しいと思ったのは、初めてフルマラソンを走った河口湖マラソン。
有森裕子さんの走る姿を見て美しいと思った。
厳密には、河口湖マラソンで僕を追い抜いていく人がいた。その走る後ろ姿を見て、この人は綺麗なフォームで走るなと驚いていた。すると、周りのランナーが「有森裕子さん」と声をかけたので、俺は有森裕子さんだと、気がついた。トップの選手というのは俺みたいな素人がパッと見てもわかるくらい美しい走りをするのかと思った。

高橋尚子さんの走りは生で見たことがないが、テレビで見たように美しいフォームなんだろう。有森裕子さんを見て直感的に「美しいフォーム」と思ったのだが、美しいとは何か。ここでいう美しさとは、無駄な動きがない。身体がブレない。これが美しい理由だと思う。すると、身体に負担がかからないし、無駄な動きがないので疲れも少ない。すると長時間スピードを出して走れる。まさに理想。これぞ美しいフォーム。

今日の夜、走っている時にすれ違ったおっさんのフォームも美しかった。昔陸上の選手だったのだろうか、そこで走り方の基礎を身につけているのかなと思う。

それに比べ、俺のフォームは汚い。自分で走っていても思う。だから、走るのが遅いし、身体に負担がかかる。右のくるぶしと、左膝が特に弱いと思う。今まで走ってきて、自分でも弱点を知っている。だから、長距離を走るときはテーピングやサポーターをするようにしている。それと、あまり無理をしないように、負荷をかけすぎないように。
一度、走り方を1から学びたいなと思う。

話は戻って引退した高橋尚子さんは、市民ランナーとしてウルトラマラソンに挑戦するという噂。ウルトラマラソンには出たいと思っていて、以前ちょろっと調べたらこんなにも大会あった。ウルトラマラソンはフルマラソンよりも長い100キロ程度を走るマラソン

宮古島 100キロマラソン 09年1月
萩 140キロマラソン 09年5月
しまなみ海道100㎞ウルトラ遠足
サロマ湖100㎞ウルトラマラソン
北海道・くりやま100㎞ウルトラ遠足
チャレンジ富士五湖 112km
星の郷八ヶ岳野辺山高原100㎞ウルトラマラソン
歴史街道・丹後100㎞ウルトラマラソン
村岡ダブルフルウルトラランニング
隠岐の島ウルトラマラソン
四万十川ウルトラマラソン

いずれウルトラマラソンには出るだろうと思う。どうせなら高橋尚子さんと同じ大会に出て美しい走りを見たいものだ。

送信者 いろいろ

[かけっこが好きだ、という高橋尚子さんの言葉が忘れられない](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 400 露出: 1/400 sec 絞り: f/7.1 焦点距離: 45mm)

それはヒヤシンスの時間

植物を育てたとがない。
動物を飼ったことがない。

かなり昔まで遡れば、小学生の時にヘチマだったりひまわりを育てたぐらいだ。

ここ数年でも、植物を育てたいと思って園芸屋さんやホームセンターに行ったことがあるが、いざ買うとなると躊躇して帰ってきた。自分で育てられるか不安だったのだろう。毎日気を配って育てられるか。

先日、写真展をした時に、友だちがヒヤシンスの球根を持ってきてくれた。切り花はこれから枯れるだけだから、これから咲く花と言うことで球根をくれた。なんというセンスの良さかとうれしくなった。

で、ヒヤシンスを育て始めた。といっても水につけてあるだけ。毎日のように根は出たか?伸びたかと気になってチェックする。
今日の朝、見ながら思う。俺、焦り過ぎだ。俺の時間でこの球根の成長を見ている。この球根には球根の時間の流れがあって、そのスピードで大きくなっているはずである。俺の大きくなってほしいと言う気持ちは、球根には全く関係がないのだ。それにはそれの時間の流れがある。

それにはそれの時間がある。もちろん人でもそうだし、動物でも、植物でも。自分の目線だけで見ないようにしよう。ペットが苦手で飼ったことないし、植物も育ててこなかった。
だから、今更改めてこんなことに気がつく。

それぞれの時間があって、「自然とは自分ではどうしようもできないこと」と頭では理解しているはずである。でも、現代都市社会で生活していると、ついつい忘れてしまう。こんな自然の摂理をふと思い出すのは、旅をするときであり、山に登るときであり、海に潜るときであり、走るときであり、無人島に行くときだ。

2005年にも気づいていること。「自然をしらないということは」

ついでに僕はせっかちになっている。以前にも書いたが、ネットが普及して、人はせっかちになったと思う。ネットは自分の意志で全て進めていけるから。僕は昔からせっかちだったのに、それに拍車がかかっていると思う。だから、余計にヒヤシンスを見て、まだ芽がこれだけしか伸びてないと思った気がする。(せっかちというか、何をやるにしても早い方だと思う。早くことを済ませて、「ぼーっ」とするのが得意だ。電車に1日以上乗っていたり、何もない海で2、3日何もしないというのは得意だ。何かをすると言ったときはサッサと済ませるが、「ぼーっ」とするときは永遠にぼーっとしていられる。)

多くの人がペットを飼ったり、植物を育てるのは、彼らの時間を感じるためなのかもしれない。日常にもうひとつの時間が生まれることによって、日々の生活に彩りが加えられる。

今までやったことないこと、自分ではやらなかったであろうことは、やはり面白い発見があるな。ヒヤシンスありがとう。

送信者 いろいろ

[上から見るか、横から見るか、下から見るか。それに寄ってもヒヤシンスの成長具合の見て取れ方は異なる](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 400 露出: 1/200 sec 絞り: f/4.0 焦点距離: 29mm)

ぶっ飛んでる 撮影場所予想ゲーム

毎日picasaにお世話になっております。
写真をアップしているgoogleのサービス。

先日リニューアルされて、撮影場所予想ゲームなるものを見つけた。以前からあるのか、今回追加されたかは分からない。

でも、picasaにアップされている写真の中で公開設定になっているもの、かつ撮影場所データが登録してあるものを表示する。その写真を見て、撮影場所を当てるというゲーム。
その名も「撮影場所予想ゲーム」。そのマンマのネーミングもステキ。

そんなもの当たるはずがない。
だって、特長ある建物(エッフェル塔だったりピラミッドなど)なら分かるが、室内で撮った写真とか文房具の写真とかどこか分かるはずがない。

そのはずが、ちょっとはまってしまった。
分からないはずなのに、

http://picasaweb.google.com/lh/explore

送信者 いろいろ

[これどこだ](PENTAX K10D DA18-55mm ISO: 100 露出: 1/250 sec 絞り: f/5.6 焦点距離: 55mm)

島にしかない時間

前回の旅日記 「まるで雲が流れるように、船が動きはじめた」

座間味島について、宿に荷物を置いた。腹も減ったので、近くの食堂に行くと人であふれかえっていた。やはり、飛び石連休ともなると、ダイビングスポットである座間味島(ケラマ諸島)は人が多い。ゴーヤチャンプルーを食べ、満たされたところで、一休みして海へと向かう。古座間味ビーチへ。

青い、那覇で見る海よりも透明だ。浅いから海は鮮やかな色に見えるのだが、水に不純物が少ないことも理由のひとつだろう。海に潜って魚やサンゴを見たり、泳いだり、海にプカプカ浮いていたり、近くの浜を歩いて写真を撮った。翌日は、バナナボートで遊んだ。もちろん乗るのは初めてだ。ゆるーい遊びかと思っていたが、引っ張っている水上バイクが急にカーブしたりするので、後ろのバナナボートもその動きにつられる。ジグザグな動きで、振り落とされそうになる。それが、何とも楽しくてはしゃいだ。

夜は宿でバーベキューなんかをした。外で食うのはうまい。それから、港で寝転がって、星を眺めたり、話したり。それから、カラオケ大会になった。でかい声で沖縄民謡や沖縄のポップスを歌いまくった。ああ、なんとも気持ちよかった。

座間味でやったことと言えば、それぐらいで後はのんびりとしていた。島に来ると、ほっと落ち着く。それまでは、何かに常に追いかけられているような、何かに追いつめられているような気がしている。しかし、島に着くとそういった感情から解き放たれ、心の底からゆったりと、のんびりできる。本州の田舎でゆっくりしていても、この落ち着いた感情にはならない。(正直に言えば東京でそんなに差し迫ったものをいつも感じていないが、島に来ると肩の荷がおりた気がする。その時に、東京だと何かに追いかけられているのかなと振り返って思うのだ。)

ここまで来てしまえば、すぐには誰も追いかけて来れない。東京というビジネス社会で何かトラブルがあっても、ここは東京とは切り離された場所だから大丈夫という安心感があるのだろうか。人は(俺は?)本能的に、地理的なことを考慮に入れて、ほっとしているのだろうか。

島は、その島だけで完結している。もちろん、外部から食料など届くし、電気も水も外部から来ていたり、人も(もちろん俺も)外部から来る。しかし、一部の大きな島をのぞけば、船でしか入って来れない場合がほとんど。すると、何か悪いことをしても逃げる手段がない。(知らない人に殺される可能性が限りなく低い)だから、悪いことをしないし、みんな優しくて、お互いに助け合う。そんな関係性があるから、島というのは落ちつくことができるのだろうか。

他の理由かもしれない。自分の島しか知らない人々が持つ考え方とか価値観にホッとするのかもしれない。必要以上に知識だけあったり、生きることに必要不可欠でない経験ばかりしている人は、どこかで落としてきてしまった感覚。そんな生きることに対して純粋な感覚に触れて、ほっとしているのかもしれない。

これらの理由かもしれないし、他の理由かもしれないが、「島にしかない時間」があると思う。島特有の雰囲気とでも言った方がいいのだろうか、島でしか感じない落ち着く気持ち。そんなんを求めて、これからも島に行くのだろう。

ついでに、沖縄本島も島だが、あのサイズでは感じない。もちろん日本も島だが、「島にしかない時間」は感じない。

小さな島に行くと、感じる島特有の空気感がある。もう少し大きく捉えれば、「島にしかない時間」とは異なるが、沖縄にしかない空気感もあるだろう。日本という島国にしかない空気感もあるんだろう。それが、島国根性といわれたり、日本の常識は世界の非常識と言われるものなのだろうか。それが良いものか悪いものかはどうでもいいが、島の大小に関わらず、島には独特の時間とか空気が流れているのだけは確かな気がする。

話は戻って、最後は那覇に戻り市場に行き、2階で刺身を食べるというお決まりコースでした。(終わり)

送信者 座間味島'08

[島にしかない時間](PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 100 露出: 1/60 sec 絞り: f/8.0 焦点距離: 16mm)

見に行こう、あれを。

bccksというサイトでウェブ限定の本っぽいモノを作るサービスを見つけたので、作ってみた。

そのサイトで、リトルモア社とbccksで写真集公募展をやってたので、さくっと写真を貼付けて作ってみた。

「見に行こう、あれを。」

ストーリーとしては、ある男が東京での日々の中で、ふと思い立つ。「自分の目で見て、風を肌で感じて、匂い嗅ぎ、手で触れたい。」そうしたくて、夏の沖縄に降り立った。という感じ。



ウェブ本というサービスがいくつかあるがイマイチピンとこない。ウェブ雑誌とかも。すごい人気のサイトも聞いたことない。
漫画を画像として保存して、読む人たちはある程度いるみたいだけど。
なぜ漫画はありで、普通の本はなしなのか。文字だけか絵がメインかの違いかな?
やはり、本というのは手で持って読むから、本である?のか?なぜかはもう少し考えてみよう。
写真というものはPCでも代替できていると思う。もちろん、質感とか役割みたいなものは違う。しかし、写真はPCで地位を確立した。
ウェブ本はPCとかネットで地位を確立していない。

今後はウェブ本がメジャーになるのかな。今の小学生とか幼稚園の子が大人になったら、本はウェブで読むのが当然でしょと言うのだろうか?
暇な時にでも考えよう。

ついでに電子ブックも同様に。電子ペーパーになったら一般化する気がする。本当にペラペラな電子ペーパー。

送信者 大分、熊本、宮崎

(雲にポーズをまねされた。)[PENTAX K10D DA16-45mm ISO: 400 露出: 1/100 sec 絞り: f/6.3 焦点距離: 24mm]