知的経験のすすめ 何でも逆説にして考えよ 開高健 青春出版

新聞に連載したエッセイをまとめた本。ひとつの文章が短くて、非常に読みやすかった。
「教育」をメインテーマとして、エッセイが書かれているが、そのテーマにこだわりすぎることなく、様々なことが書かれている。

とても面白い本だった。特に、各章のタイトルの横にある短い文章が良い。
開高さんの他の本から引用した短い文章なのだが、これがたまらなく、「おお、そうだ!」と思える。

そんな文章は、このエントリーの末に引用するとして、
この本を読んで思ったのは開高さんは子供心を持ち続けた人なんだなと。
そして、死や将来、生きていくことに対して不安を強く持ち続けた人なのかなと思う。
死を、そして生き延びるという大変さということを、生の体験を通して知っていた、感じていた。
それも、子供心のような感受性の強い鋭い心で。

だから、開高さんの表現で言う「不安をうっちゃる」ということが必要だったんだと思う。

何でもいい、<驚き>を求めたいのである。それはお子様の脳を持たないことには入手できない。お子様だけが驚く才能と天稟を持つのである。P8 (オーパより)

末期の水の味は誰も語ることができず、書くこともできないという事実を考えてみると、ヒトは発端も終焉も告げることができない生を通過していくといいたくなる。しかし、肉となり道となったものについては、発端が終焉にたちあらわれて、円を完成させるものであるらしい。P20

体をうごかしていたらそのあいだだけはすべてのことを忘れることができる。P88(ロビンソンの末商)

この労働はしばしば徹夜の重労働であったが、肉体を酷使する快感があった。それでひたひたと音もたてずに冷酷にしのびよってくる孤独や絶望をうっちゃることができるのでもある。自身の苦闘がパンやトウモロコシ・センベイなどという、いちいち手でさわって知覚できる、熱や、質や、量や、形のある事物に天下するのを体のそこかしこに伝えることができる。この具体館がひそかな最高の愉悦であった。P121

暗い昼より、暗い夜のほうが、はるかに親しみやすく、おだやかで、優しかった。P136(ロマネコンティ・1935年より)

男を男にするのは危険と遊びの二つだけであるという古い格言をあらためて思い返したくなる。P155(もっと遠く!より)

ひとつの刺激がおわれば、つぎの刺激はかならずそれより大きくなければならない。P164(巨人と玩具より)

自然は見たいものの眼には顔を見せてくれるけれど、見る気のないものには絵はがきほどのものも見せてくれないのである。P169(もっと広く!より)

自身が自身に教える経験というものは底が深くて、放射能があり、死ぬまでヒトをとらえてはなさないという性質があります。P214

心で心をきたえることは必要だし、避けられないことだし、誰しもそうせずには生きていけますまい。しかし、そのとき、自身の手と足で何事かを教え込んだ心をどこかに参加させておかなければ、無限の鏡の行列を覗きこんだのとおなじ結果になるのではありますまいか。 中略 頭だけで生きようとするからこの凝視の地獄は避けられないのです。手と足を忘れてしまします。 中略 手と足を思い出すことです。それを使うことです。 中略 落ち込んで落ち込んで自身が分解して何かの破片と化すか、泥になったか、そんなふうに感じられたときには、部屋の中で寝てばかりいないで、立ちなさい。立つことです。部屋から出ることです。そして、何でもいい、手と足を使う仕事を見つけなさい。仕事でなくてもいいのですが、とにかく手と足を使う工夫を考えてみては?P216-217 

知的経験のすすめ 何でも逆説にして考えよ 開高健 青春出版



[手と足を使って。高千穂峡@宮崎](PENTAX K10D ISO: 100 DA16-45mm 露出: 1/320 sec 絞り: f/6.3 焦点距離: 20mm)

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